プロローグ
人類の発達は、すなわち文明の発展でもある。ほとんどは七転び八起きで亀のように緩やかな進歩で、いつも使っている道具がいつのまにかなくなっていることがあるのと同じで、自然と失われていったものがたくさんある。
だが、新陳代謝を繰り返す細胞のような文明の中には、あるきっかけを得ることで急速に進化した分野もある。人工知能がその一つであり、人間並みの知能を獲得するに至った機械は、労働という枷から人類を開放した。
日用品、娯楽品、食料さえも、ありとあらゆるものがオートメーション化で生産され、人々の生活はそれまでとは比較にならないほど豊かになった。皆が競うように生きることを楽しんだ。余った時間を腐らせる暇もないくらいに人生を謳歌した。
狂乱の時代が続くと、生命に対する概念が徐々に変化していった。すなわち、困窮のない人生に執着する者がどんどん増えていったのだ。人の欲望に際限はない。苦労から解き放たれた人間が次に望んだのは、少しでも長く生きたいという延命の欲求だった。
人類を病気やケガから守りたいと発展した医療分野は、やはり急速な躍進を遂げた分野の一つだった。延命目的のはずがいつしか生命そのものを研究の対象とするようになり、長い年月を費やし結果、ついには人造人間の誕生にまでたどり着いてしまった。
人工的に生み出した生命は、かつてないほどの一大センセーショナルを巻き起こし、賛否両論の的となった。禁忌の所業と訴える声が多数を占めたが、実現可能なことはやらずにはいられないのが人間の業だ。
非公然ではあったが、人造人間の生産は中止されることなかった。製造された人造人間は『アダム』と呼ばれ、主に人工知能を積んだ機械同様に労働力に駆り出された。非公然のさらに非公然で表沙汰にはなっていないが、中には性欲を満たすために購入する者もいた。なにしろ、対象は人間ではなく物だ。富裕層には、金にあかせて熟女といわず幼女といわず、自分の欲望をぶつけるために好みのタイプを発注していたようだ。
命を宿している者が生産されているにも関わらず、それに対する法律も罰則も定まらない異常な事態のまま、最終的には数百体の人造人間が生産されたと言われている。
ここに至って、人間の生活は頂点にまで昇り詰めたといっても過言ではなかった。
しかし……。
隆盛を極めた後に待っているのは衰退しかない。
あらゆる技術を機械や人造人間任せにした人類は、次第に新たなものを創り出す能力を失っていった。一切の情報がデータベースに収められ端末で簡単に引き出せるようになり、知識を吸収することをやめた。困難に立ち向かおうとする気概さえ希薄となり、理想郷の永遠の存続を信じて疑わなかった人類は、いとも簡単に堕落していった。
季節が徐々に移り替わるような緩やかな退潮は、取り返しのつかないところまで侵食し、ついに文明は崩壊した。
過去の遺産に縋りついて生きていくしかなくなった人類は、すでに絶滅への道に足を踏み入れてしまった。
そして……。
終末を迎えつつある現在、人知れず人類絶滅を加速させる存在が暗躍していた。
随分と前に建てられたホテルのようだった。外壁は汚れ放題で所々にヒビが走っている。その亀裂を隠すかのように名も知れぬ植物の蔦が縦横無尽に外壁を覆い隠しており、それがまた一層惨めったらしい雰囲気を演出している。
だが、百武総介は今日の寝床をここに決めた。殺人事件が起こりそうな外観に魅入られたわけではない。螺旋状の非常階段が目に入ったからだ。
かつて隣にあった建物はすでに崩壊しており、醜く残った残骸が非常階段にもたれかかっている。角度は急ではなく、あれなら滑り台代わりに地上まで降りることができる。
総介は一度周囲を警戒してから、ホテルに足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
いきなり声を掛けられたので、総介は一瞬だけ動きを止めてしまった。
フロントにスタッフがいるホテルなどとっくに廃れていると思っていたから、完全に油断していた。しかし、総介は慌てた素振りなどおくびにも出さずに、わざとゆっくり前進した。
「お一人様ですか。ご予約はされていますか?」
総介の身なりはお世辞にも綺麗とは言えない。カットソーとストレートジーンズ、それにスニーカーと運動性を重視してまとめているが、全身を包み込むくらいの襟の高い黒のロングコートを羽織っている。ここ数日はシャワーも浴びていないし、まともな宿にも泊まっていないので、かなり薄汚れていた。
そんな総介を見ても、フロントスタッフは笑顔を崩さずに訊いてきた。
「予約? このご時世で予約するもんなんかいるのか?」
総介は真顔で訊き返した。ホテルマンは笑顔を崩さない。
「いいえ。ただ、残されているマニュアルにはそうお尋ねするよう、書かれていたもので……」
「……予約はしてないが、空き部屋はあるか?」
「ございます。二階のお部屋でよろしいでしょうか?」
「いや、悪いが指定させてもらいたい。フロアは四階で一番左端がいいんだ」
ホテルマンの目がピクリと動いたが、すぐに元の笑顔に戻った。
「それでしたら、401号室になります。エレベーターは使えませんが……」
「構わない」
「そうですか」
ホテルマンは背後の壁に掛かっている鍵を一つ取り、総介に手渡した。
「今時、鍵とは珍しいな」
「申し訳ありません。実は電子錠ももう使えませんので」
「ふん……」
総介は見慣れない鍵を掌で弄んだ。
「お手数でございませんが、お荷物はご自分で運んでいただき……」
ホテルマンが言い掛けているのを遮って、総介はバックパックを持ち上げた。
「これしか持ってない」
「なにかご用がありましたら、お言いつけください」
「そうするよ。ありがとう。ところで……」
総介はいきなりホテルマンの手首を掴んで捻った。
「いっ⁉」
冷静さが必須のホテルマンも、突然の痛みに顔を歪めた。そんなことはお構いなしに、総介は素早くホテルマンの手首の内側、ちょうど脈拍を確認する部分を凝視した。
「お客様?」
総介の乱暴な動作は一瞬で止まったので、ホテルマンは抗うことはせずに様子を伺っている。それでも、やはり緊張した面持ちになっており、目には怯えが走っていた。
「…………」
ホテルマンの手首にコードがないことを認めると、総介はようやく手を離した。
「いきなりすまなかったな。今、占いに凝っててね。手相を見たんだ」
明らかにウソだとわかる言い訳だったが、ホテルマンは「はあ……」と訝るだけに留まった。
「今時、フロントにスタッフがいるホテルなんて珍しいな。無人化が定着して、もう何十年も経っているのに」
総介の質問に、ホテルマンは戸惑いながらも律儀に答えた。
「ずいぶん前にロボットが故障してしまいまして。もう修理できる技術者なんかいませんし、昔のように人の手で応対させてもらっております」
「笑顔とおもてなしの心でか?」
総介の冗談に、ホテルマンは一瞬きょとんとしたが再び笑顔を作った。
「そうですね。こんな時代ですから。お泊りくださるお客様には、ゆっくり休んでいただけるよう努めております」
「そうさせてもらうよ。結果だけどな……」
「はい?」
「占いだよ。あんた女難の相が出てるぜ」
「……それでは、充分に注意することに致しましょう」
総介は皮肉な笑みを浮かべてホテルマンに背を向けた。階段の一段目に足を掛けたところで視線を感じた。しかも背筋に電気が走るような視線だ。何気なしを装って振り向いたが、背後にはフロントのホテルマンがいるだけで、習慣でこびりついた笑顔で総介を見つめているだけだった。
鍵がしっかり掛かっていることを確認してから、ベッドの上に乱暴に荷物を放り投げた。ボスッと乾いた音と共に埃が立ち昇った。
総介は不愉快そうに顔をしかめて、立ち昇る埃を吸い込まないように手で口を押えながら窓の近くまで進んだ。靴底を通過してザリザリと心地好くない感触が登ってくるので、床もろくに掃除をしていないのがわかる。
壁を背にして首だけを伸ばし、窓から外の様子を窺った。
窓と言ってもガラスは砂埃で汚れており、透過性がほとんどない。これでは木の板をはめ込んでいるのと差がないのではないか。
「なにがおもてなしの心だよ……野宿した方がまだマシだったんじゃねえのか」
思わず悪態を吐いた。
窓は上下にスライドさせて開閉するタイプだ。開けようとしたが、歪んでいるのかとても固かった。歯を食いしばるほど力を込めると、やっと八割方開けることができた。ぱらぱらと乾燥しきった砂の塊が足元に落ちる。
上半身を乗り出し、通り抜けることが可能であることを確認した。腰まですんなり通過でき、心配事が一つなくなった。窓を閉めようとしたが今度は降ろすのに力を入れなければならなかった。どうせ今晩泊まるだけだと諦め、開けっ放しにしておくことにした。
非常階段の手摺はボロボロに錆びついていたが、全力で駆け降りても崩れることはあるまい。そして、思った通り崩れて凭れ掛かっている壁からも降りられそうだ。非常階段を利用するには通路の端の非常口から出なくてはならないが、この部屋からなら飛び移ることも可能だ。わざわざ部屋を指定した時のホテルマンの反応が気になったが、神経質すぎるのかも知れない。
万が一の逃走経路を確保した総介は、ようやくベッドに腰を下ろした。
再び埃が舞い上がるが、今度は口を覆わなかった。息を止めることで、埃を吸い込むのを防いだ。埃が沈殿する頃合いを見計らって、総介は深く息を吸い込み、そして吐いた。
今夜の寝床を得られたことで、同時に安堵感も得る。ほんの少しだけの頼りない安心なのだが……。
放り投げた荷物を手繰り寄せ、ペットボトルを取り出した。
生ぬるい水を一気に流し込み、やっと人心地がついた。
「…………」
改めて外の様子を伺ったが、特に変化はなかった。食事に出掛けようか迷ったが、今日はやめておくことにして携帯している食料で済まそうと思った。
眺めているだけで滅入ってくる退廃的な街だ。しかし、今はどこも似たようなもんで、時代そのものが滅びに向かっている。ゆっくりとだが確実にだ。
人間が地球上の王者と君臨していたのはとうに昔のことだ。ご先祖様に感謝なんて考え方がまだ残っているところもあるらしいが、総介からしてみれば、先祖なんて何度殺しても飽き足らないクソでしかなかった。
「こんなイカれた時代が、文明発達の終着点か」
先程まで空腹を覚えていたはずなのに、携帯食を食べる気も失せていた。ペットボトルを脇の机に置き、勢いよく仰向けになった。三度埃が舞い上がったが、もう構わなかった。
すぐさま脳が弛緩を始める。眩暈にも似た感覚は、総介は嫌いではなかった。酩酊しているみたいな浮遊感は、今日も無事に生き延びることができた証でもある。
酔うがままに身を任せ、総介の感覚は闇へと急降下していった。