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ロング・パス  作者: 水谷舞湖
第一章
4/6

第4話 預けたボールは思いの強さ

 どうやったって、過去に言葉を届けることは出来ない。

 膝を突いた姿に、声をかけてあげることは出来ない。

 悔やんだって、終わったことをやり直すことは出来ない。


 けれど、今……

 今自分に出来ること……

 言葉なら、届けられるから。

 声なら、かけてあげられるから。

 始めることなら、出来るから。

 

 パスなら、出せるから。




 涼がカズにボールを預けてから、1ヶ月が過ぎた。その間、涼はずっと続けていたボール蹴りに、1度も出かけていない。ボールがないのだから仕方がない、という理由を掲げてはいたが、心の中ではボールを蹴りたいと思うこともなく、ボールを持って家を飛び出した日々を懐かしくすら思わず、ただ毎日ぼうっと過ごしながら受験勉強を進める日々……昼休みに校庭でボールを蹴る生徒を見ては、溜め息を吐く。今の涼は、ボールを蹴りたいという気持ちがなくなったどころか、ボールを見ることすら嫌に思えてしまっていた。


 そんな涼を取り巻く昼休みの教室の様相は、受験生となった学年らしく、今までの時間とは違う情景を見せていた。クラスメイトはみんな、受験勉強のために参考書を広げ、あるいは高校の過去問題集を開き、各々のペースで机に向かっている。話に花を咲かせる者もおらず、机と睨めっこしていた。


 クラスメイトみんなが1つの部屋の中にいるのに、クラスメイトみんなが一緒に孤独。誰も他人を気遣うことなく、机の上の紙っぺらと向き合っているだけ。冷静に考えれば、異常だ。しかし、これが現実。こうしなければならないのが、日本の受験生だった。


 こういった雰囲気の集団に、涼は以前触れていた。


 ───あの時の、チームみたい。───


 そう思わざるを得なかった。フィールド上でみんな同じ目標を掲げて、同じ先を見ているのに、孤独。涼の主観からすれば、今の状況となんら変わりない。


 ただ、客観的に見れば、あの時のサッカーチームは、涼ただ1人が孤独だっただけで、今の教室は全員がそれぞれ独り……あのチームの時よりも、少しだけ淋しさを強く感じてしまう。


 涼は再び溜め息を吐き、席を立った。


 最近の教室内の何とも言えない空気に耐えられず、屋上に行くことが多くなっていた涼は、今日も独り屋上へ向かった。屋上には人がほとんどいない。たまに在校生がふらっと来ることはあったが、毎日そこにいるわけではなく、息抜きに校庭を眺めに来る程度だ。受験生が来ることは滅多になく、毎日毎日屋上で黄昏ているのは涼くらいのものだった。


 涼は何かをするわけでもなく、ぼうっと空を見上げる。ゆっくりと動く雲が太陽を横切り、日陰が出来たかと思えばすぐにまた太陽が顔を出す。太陽はなんであんなに何度も顔を隠したり出したりするのだろうか……そう考えるも、その問いかけが全く何の意味もないことに気が付く。無意味な問いかけに少しの虚無感を感じて、空から目を逸らす。今度は風が砂埃を巻き上げる校庭を眺めはじめた。


「また屋上にいたんだ」


 涼にとっては聞き飽きる程聞いてきた声が、背越しに響いた。


「智明、こんなところで、どうしたの」


 振り返ることもなく、覇気のない言葉を投げる涼。


「こんなところって……そしたら涼だってなんでこんなところいるのよ」


 智明は涼の隣に座り、ふふっ、っと小さな笑い声で笑った。ただ、その表情は苦笑いと言えるようなもので、お世辞にも笑顔とは言えなかった。


「最近さ、元気ないけど何かあったの?」


 智明に言葉を返すわけでもなく、そちらを向くわけでもなく、涼は校庭を見つている。


「何でもない」


 二呼吸空けてそう返した。


 そっか、と淋しそうに呟く智明は、そのまま黙って涼から顔を背ける。


 静かな屋上に、風が吹き抜けた。空気を切る音が耳元でなり、沈黙の空間を塗りつぶしていく。


 無言というものは意識すればする程に重圧となってしまう……智明はそれを強く感じていた。涼にとっては特に気にすることもない状況だったが、彼女にとっては淋しげな表情を浮かべる程に"重い"時間だった。


 痺れを切らして、智明が口を開いた。


「涼、最近あの高架下にいないね。いつもボール持ってあそこに行って、練習してたでしょ。今はもうしてないの?」


 高架下、という言葉に、涼の耳が反応する。彼にとってその言葉は、聞いて喜べるものではなかった。


「うん、勉強しなくちゃいけないからね」


 涼は辛うじて言葉を返す。


 高架下、ボール、練習……涼の心は1つ1つの言葉に締め付けられていた。智明はそのことに気付いていない。


「勉強ね……涼は頭良いからそんなに熱心にやる必要あるの?」


 笑いながら言う智明。冗談で言っているだろうことは涼にも伝わってはいたが……涼の心はそれに上手く返せる心情ではなかった。


「なんだよ、僕が勉強しちゃダメなのか?」

「え、いやそうは言ってないよ」

「なら良いじゃないか」


 慌てる智明に顔も向けず、涼は言葉を返す。互いになんとも言えない気まずさを感じているのか、どちらからとも話しかけられるような雰囲気にはなりえなかった。


「涼、さ」


 智明が意を決して、口を開く。


「ボール、蹴らないの?」


 その言葉に眉をひそめる涼。しかし、それでも智明の方を向くことはない。


「涼最近いつもボーっとしてたし、何かあったのかなって思ってさ、涼のお母さんから聞いたんだ。毎日ボール蹴りに出かけてたのに、急にそれをやめたんだって。私もあの高架下で何度も涼を見かけたことあったけど、最近は見なかったからさ。お母さんの話聞いて、どうしたのかなって心配になって……」


 智明が感じていた涼の様子のはここ最近の話だ。涼の母から聞く限り、涼は最近ボール蹴りに出かけることをやめた。直接の関係性があるかはわからないが、何か問題があるとすればそれはサッカーに関することなのかもしれない……と智明の中では推論立てられていた。


「昔からずっとボール蹴ってたのだけは知ってるからさ、今になってどうしたのかな、って……」


 彼女は長年涼と一緒にいた感覚から、彼がサッカーのことになると人一倍ムキになるのは理解していた。サッカーともなれば感情を露にする少年の姿を何度も見てきていた。ともすれば、覇気のない今の涼に何か問題があるとするならば、ボール蹴りに行かなくなったことが原因なのかもしれないと考えることは当然のことだった。


 涼はそんな智明に対して、冷たく言い放った。


「ボール?なんで?なんでボールを蹴ってなくちゃいけないの?」


 感じたことのない冷気。涼から発せられる鋭い言葉が、智明胸に突き刺さる。


「僕がボール蹴ってないと不満?僕がボール蹴ってないと、智明に迷惑かける?そんなことないでしょ?僕がボールを蹴ろうが蹴るまいが、関係ないじゃん」


 段々と語気が強くなっていく涼。


「そうだけど、関係ないけどさ……でも元気ないように見えたし、何かあったのかなって」

「何かあったのかと思うのはいいけど、なんでボール蹴る時間のことが話に出てくるのさ。智明は塾行って勉強してる、僕は塾に行かないから自分で勉強する時間が欲しい。それだけじゃん。だから自分で時間を作ってるだけじゃん。それは間違ってるの?」

「間違ってるとかそういうことじゃなくて、涼らしくないっていうか……」

「僕らしく、って何?サッカーしてないと僕じゃないの?ボール蹴ってないと僕じゃないの?それ以外は僕じゃないって言うの!?ボールを蹴ってないと、僕じゃないって智明は言うのか!?ボールを蹴らなきゃ、君にとって僕は僕じゃないとでも言うのか!?関係ないだろ!そんなこと、僕の勝手だろ!いきなりそんなこと言い出すなよ!僕はサッカーをやめて、勉強したいんだよ。それを否定すんなよ!!」


 涼は吐き捨てるように言った。感情的に、刹那的に、智明へ言葉をぶつけた。智明は困惑を隠しきれなかった。


「そうじゃないよ、そんなこと言ってないじゃん!毎日ボール蹴ってたのに、いきなりそれをやめるって何かあったんじゃないのって心配するじゃん!勉強の合間を縫って外に出てた涼が、今は全くそんなことない……私の塾の帰り時間までいつもあそこで蹴ってたの知ってるから、何かあったのかなって不安になったんじゃん!」


 智明は肩を震わせた。


「私は涼がサッカー大好きだったの、知ってるんだよ!?あれだけサッカーが好きで、何も考えられないくらい没頭してたのに……ボール蹴りしかしなくなった理由だって知ってるけど、でも大好きで毎日やってたこといきなりやめるなんておかしいと思わない方がおかしいんだからね!?」

「心配するなら黙っててよ!僕にだってやりたいことはあるんだ!サッカーだけが僕なわけじゃない、僕のサッカーはもう終わってるんだよ!3年前から、僕のサッカーは息抜きのための道具なんだよ!息抜きを必要としなくなったからやってないだけだろ!勝手に僕のやりたいこと決めつけないでよ!」


 がなり上げる声が、誰もいない屋上へ響く。智明はずっと涼を見て、涼はずっと目を瞑ったまま……2人の間に、重い沈黙が流れる。どちらも口を開こうとして、思いとどまって閉じることを繰り返していた。


 そうしてどれくらいが経ったのか……2人にはわからない長さの時間が過ぎて、智明はようやく重い腰を上げた。


「……わかった。涼がそう言うなら、これからはもう何も言わない」


 智明の声は酷く冷たく低かった。自分でも思ってもみなかった声のトーンに、智明は唇を噛み締め……それでも涼を真っ直ぐに見据えた。


「けど、最後、このことについて言いたいことがあるから、今日の夜いつもの高架下まで来てよ」


 智明の誘いに涼は応えることはなかった。


「……今日は、雨降るよ、智明」




 部屋の壁に掛けられた時計を見ると、21時をちょうど過ぎた辺りだった。2時間程続けて集中していた過去問題集を閉じ、涼は母の作った晩御飯を食べに部屋を出た。


 リビングの中央の机、いつも座る自分の席へと着いた涼は、その日のおかずであるハンバーグを一口食べては箸を置きを繰り返して胃の中に収めていった。


「……涼、どうしたの?なんか今日元気ないね」


 涼の母が顔色を気遣う。


「今日、というより、最近、かな?ボールも友達に預けたままみたいだし」


 ボール、という言葉に、涼の心は過敏に反応した。


「ボール蹴ってないと、ダメ?」


 涼の反応は、日々を共にする母親からすると不安を感じるものだった。


「ダメじゃないけど……涼、何かあったの?」

「……いや、何もないよ。いつも通り」


 空虚に苛まれる涼の心には、ただ一つ、自分に課した守らなければならない約束だけが残されていた。


 ───母親に心配をかけるな。───


 それだけは涼が心の中で留め続けているものだった。女手一つで育ててもらい、どんな時も助けてくれた母親を心配させることは、涼が一番許せないことだった。


 リビングの時計が21時30分にぴたりと針を合わせる。窓の外には空には星達が瞬いているのが見え、天気予報では雨だったのに、と予報の意に反して快晴な夜空に涼は愚痴をこぼした。


 予報では雨、けれど、晴れてしまっている空。濡れることなく待てると、彼女なら言うだろうか……涼はどうしても高架下のことが、正しくは高架下で待つと言っていた少女のことが気になってしまっていた。これだけ待たせているのだから、もうあの場にはいないかもしれないと考えつつも、もしも待っていたらどうしようという不安も感じている。涼には、彼女が待っている情景と待っていない情景を、落ち着きなく想像することしか出来なかった。


「ダメだ」


 そわそわとしている自分にふと気が付き、情けなく感じる涼。この時間なのだから待っていない可能性だってあるが、智明なら素直にその場にいてしまうかもしれない、と思えば思う程、自分には嫌悪感を、智明には罪悪感を感じてしまう。この靄のかかった感情を取り除くには……


「……ご飯食べ終わったら、ちょっと出てくる」


 そうすることしかない、と涼は思った。低い声で一言だけ告げると、ハンバーグと白米をかきこみ、それを味噌汁で胃に流し込んですぐさま席を立つ。


「あら、そう?遅いから気を付けなさいね?あと、0時前には帰って来なさいね?」


 母はいつも通りの声で涼を見送り、わかってるよ、と返す涼はそのまま部屋に戻り外へ出る準備を始めた。




 自転車を10分ほど走らせて、涼はいつもの高架下へと訪れた。これまではずっとボールを蹴っていた場所なのに、今はそれが遠い過去のように思えて、霞みがかっている。いつも独りだった涼のフィールドには、誰もいない。まるでその主を待っているかのように静かに、そして寂しく、暗闇に佇んでいる。


「なんだ、いないじゃん」


 あれだけ強く、来てよ、と言っていたのに……涼の心に不満が生まれたが、溜め息と共に吐き出して、踵を返そうとした。


「あ、涼!こっち」


 聴き慣れた声が響く。智明は、高架下の影になっている場所に縮こまって座っていた。彼女の存在にまったく気が付いていなかった涼は、昔から一緒にいた幼馴染を信用せず、来ていないことに不満を漏らした自分を少し恥ずかしく思った。


 智明の声は明るかった。昼間、学校で言い合った事実を覚えていないかのような雰囲気で、いつも通りの彼女がそこにいた。けれど、ここに来て会う約束をしたのは口論の後……智明が昼間のことを気にしていないはずはない。


 涼は自転車を止めて、高架下で座る智明の隣に腰をかけた。


「雨、降らなかったね」


 予報では夕方から雨であったが、空がなんとか持ちこたえていたのか、はたまたそもそも予報が大はずれしていたのか、空は先ほどよりかは暗い雲が出てきてはいたが、月がくっきり見える程には晴れていた。


「晴れたね」


 上手く返す言葉が見つからず、涼はその一言だけを口にした。2人の間に再び、昼間の屋上での重く冷たい空気が流れ始める。やはり、智明も気にしていたのだろう、言葉が続かない。じめっとした空気が拍車をかけているのか、どちらからとも話し始めるにはどろりと重たい雰囲気が邪魔をしている。


「あー、涼はちゃんと、ご飯食べてきた?」


 言葉はぎこちなくとも、智明の声はいつも通りのものだった。いつも通りの優しく明るい声。


「智明は俺の母親かよ」


 そんな彼女に少しの気まずさを覚えながらも、涼もいつも通りを意識しながら言葉を返した。


「……智明は、食べた?」

「え?うん、食べたよ!」


 えへへ、とはにかむ智明。その瞬間、智明の腹の虫が鳴いた。


「あ……」

「あ、……ごめん。恥ずかしい」


 智明は赤面して顔を伏せた。


 食事をした、と言っていたにも関わらず、腹の虫が鳴くはずがない。もし本当にそうであれば、余程の食いしん坊なのだが……涼の知っている智明はそんなことはなかった。そこではたと、涼は気が付いた。智明の優しさに。


「……ずっとここにいたの?」


 涼の問いかけた声は、優しかった。昼間までの刺々しさが、その言葉からはすでになくなっている。


「……うん、涼がいつ来るかわからなかったから」


 涼は唇を噛んだ。何故、自分は幼馴染をずっとここで待たせていたのか……それも、自分が腰を上げることを煩わしく思っていたという理由しかないにも関わらず。空が暗んでも、晴れているとはいえ予報が雨でいつ降り出すかわからない状況でも、お腹が空いても、そこまでしてずっとここで待っているなんて数分前までは夢にも思っていなかった。自分の不甲斐なさへの怒りが、涼の中で巨大化する。


「智明……あーもう!……ごめん」


 唇を噛み締めて、涼が智明に謝る。すかさず智明は、


「何で謝るの、何もしてないのに」


 と笑顔で返した。涼の罪悪感が強まる。


「やめてよそんな顔するの、私は涼にそんな顔させるために呼んだんじゃないんだから」


 優しい笑みを浮かべる智明。もしかすると待っていても来なかったかもしれない……そんな不安は感じていなかったのか、智明の目は優しく真っ直ぐに涼を見つめていた。


「……そしたら何で僕をここに呼んだの」


 拭いきれない罪悪感を一旦心にしまい込み、涼が智明へ本題を問いかける。


「聞きたかったことがあるの……」


 智明は言いづらそうに一瞬口をつぐみ、そしてまた開いた。


「涼のさ、大好きなものって、何?」

「大好きな、もの?」


 唐突な問いかけ。何故そんなことを聞かれたのか、涼にはわからなかった。大好きなもの、なんて、問いが漠然としすぎている。聞いた意図もその答えは何が適切であるかも、彼には判断できなかった。しかし、そう言われて思い浮かぶものは多々あった。


「……どういうこと?それって、何を答えればいいの?」


 考えていたことを素直に口にする涼。そんな彼に、智明は真剣そのものの表情で言った。


「言葉の通り、大好きなものだよ!一番最初に頭に浮かんだもの、それが多分大好きなものでしょう?涼の頭の中で、大好きなものって言葉を聞いて、一番最初に浮かんだのは何?」


 涼は迷った。一番最初に浮かんだもの……それを口にするかどうかを。おそらく智明は、"昼間の話の続きをしようとして、わざわざこんな質問をしている"のだろう。屋上での一件から、この場所での話し……あからさま過ぎてどう答えればいいものか、図らざるを得なかった。


「なんで、そんなの急に聞くんだよ」

「いいから、答えて」


 はぐらかそうにも、真剣な表情を向けてくる智明を無碍に扱うことは、涼には出来ない。昔から長い時間を共にしてきた幼馴染の真面目な態度を、自分の都合だけで切り捨てることは……出来なかった。


「……ああ、わかったよ。智明の思ってる通りだよ、俺が大好きなものって」

「ダメ、ちゃんと言葉で言って!」

「なんでそんなこと言わなきゃダメなんだよ!もうわかってるだろ!?僕には、もう求められないんだよ!」

「そんなことない!私が聞いてるのは、涼の大好きなものは何かってことだけなんだよ!」

「大好き大好きって子供かよ!?言ったって何も変わらないことだってあるだろう!?どうしようもないことだってあるだろう!?なんで今、そんなことを引っ張って来るんだよ!」

「そんな屁理屈なんてどうでもいい!!聞いたことに、答えてよ!!」


 言葉が強くなる智明に戸惑いを隠せない涼。ここまではっきりとぶつかり合うことなんて今までに一度としてなかった。だからといって、彼女の主張を理解することも出来ない。


 2人の間に静寂が訪れる。耐えかねた涼は、溜め息をついて口を開いた。


「僕が大好きなのは、サッカー……だよ」

「なんて?」

「は!?」


 この距離で聴こえないはずがない。智明がわざと聞き返していることは明白だった。全く理解の及ばない行動に、涼は諦めた顔をして、


「サッカーだよ。僕は、サッカーが大好きだ。サッカーがしたい、ボールを蹴っていたい」


 と俯き気味に言った。


「やっとちゃんと言った。そうやって、いつもいつも、大好きなのに告白しないんだ!本当に情けないね、涼は」

「なっ、情けないってなんだよ!告白って……この前の話?あれは女の子の話じゃないか!なんでそんな話を出してくるのさ、今の状況と全然違う……」

「違くなんかないよ、同じだよ!今涼が大好きなのは何!?目を輝かせられることは、何!?一番やりたいこと、大好きなことは……何!?」


 智明は叫ぶように言った。


 いつも温厚で、どんな冗談でも笑って許してくれて、怒る姿を涼に見せてこなかった智明が、初めて幼馴染に対して声を大にして怒鳴ったこの一時。その意味を、目の前で受け止めていた少年は知っていた。だからこそ、自分に何が出来るのか、わからなかった。


「……じゃあ、どうしろって……どうしろっていうんだよ」


 怪我をして、それでも結局独りよがりと言われ続け、そして本当に独りになり、サッカーを辞めた。怪我よりも孤独と戦うことに心が疲れてしまい、復帰を諦めた。復帰するか否かの決断を迫られるだけでも重く悩ましかったし、諦めるという選択肢をとったこともとてつもなく苦しいものだった。


 ───なのにどうして。───


 今になってどうして、サッカーについてここまで考えているのか、サッカーが好きと言えるのか……どうしてそんなことが口に出来てしまったのか。


「……僕は諦めたんだ。もう、辛かったんだ。思うようにプレイが出来ないことも、それのせいでみんなが態度を変えていってしまうことも、怪我を治しても心が治らなかったことも……辛かったんだ。なんで今さらになって、それをほじくり返すようなことしてくるんだよ。まだ、足りないか?まだ許してもらえない?僕はまだ、悩まされなくちゃダメなのか?」


 あまりに悲痛。彼の静かな叫びは、彼自身が背負い、苦渋の選択を迫られたがゆえのもの。それを智明は目をつむったまま受け止める。


「私は、傍で見てただけだから、涼の気持ちをどこまで理解してるかなんてわからない。でもね、ずっと傍で見ててわかったこともあるんだよ。私は、涼がサッカーしてるのを見るのが好きなの」


 夜風が静かに智明の髪を撫で、少し赤らめた頬を隠すように揺らがせる。


「だって、いつも一緒にいる時よりも、何倍も楽しそうなんだもん」


 悔しいな、と智明が呟く。そのたった一言は、小さな声は、目の前の少年に届く前に風がさらっていった。


「だから、涼の本当の気持ちを言って。涼は変わってないって私は思うから、考えて悩み抜いただけの気持ちがあるんだと思うから。本当の気持ちを言ってくれたら、これ以上私は何も言わないから」


 柔らかい笑みを真剣な眼差しに変えて、智明は涼を見据えた。涼は歯を食いしばりながらうつむき……ほんの少しだけ、身体を震わせた。


 2人には長く感じられた沈黙を割ったのは、涼だった。


「……本当は誰にも言いたくなかった。言ったらまた理想と現実と、自分の内側と外側でぐちゃぐちゃになると思ったから」


 涼が強く握られた手をゆっくりと解き、何度も深呼吸する。


「……けど、本当は誰かに言いたかった。僕はもっと、もっと……」


 言葉が途切れる。智明は涼に微笑みかけ、


「ここには私達2人しかいない。だから、誰にも聞かれたくないことでも、私だけしか聞くことはないよ」


 と、腰を上げて涼の前へと歩み寄り、両手を握った。


「ここには私達2人しかいない。だから、誰かに言いたいことがあるのなら、私が全部受け止めるよ」


 だから、と続けて、


「涼、本当の気持ちを教えて」


 優しい声に、涙が出た。涼の頬を雫が伝う。声を上げることはなく、嗚咽を起こすこともない。彼はただ、瞳から溢れる涙を止めることなく流した。


「僕は、サッカーが大好き」

「うん」

「僕は、もっとサッカーが上手くなりたい」

「うん」


「僕は、仲間と巡り合って……もっと、サッカーがしたい!」


「……うんっ!」


 涼は泣いた。今まで悩んだ分も、今悩んだ分も、全部を吐き出そうと、泣いた。


 智明も笑いながら泣いた。一番近くにいながら何も出来なかった自分にも、ようやく少しだけ力になれたかもしれないと感じた自分にも、色々と絡み合った感情を解こうと、泣いた。


 予報では雨だった。


 2人は雨の中、滴り落ちる雫の中に涙を隠した。




 帰り際、智明は涼に1つ伝言を渡した。


 ───次の日曜日、高架下で───


 漠然とした内容でしかないその伝言に、涼は笑った。あいつらしいなと、いつも通り唐突でふわふわしてるあいつらしさが出ているな、と。


 その伝言を胸にしまい込み、雨の上がった暗い夜空の下、涼は自転車を走らせた。行きとは違う、軽快なスピードで。

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