第2話 ボールが笑わない日
大好きなことが出来る喜びを、いつまでも忘れずにいようと思うんだ。
大好きな人と一緒にいられる喜びを、いつまでも胸に抱いていようと思うんだ。
大好きなこの場所をいつだって感じられる喜びを、いつまでも心に焼き付けていようと思うんだ。
過ぎ去った時は戻らないけれど、
忘れずに、胸に抱き、心に焼き付けたものを大切にする。それさえあれば、
これから訪れる時を進んでいけると思うんだ。
どこまでも、進んでいける。
どこまでも、どこまでも……
涼とカズが出会って2週間、彼らはほとんど毎日ボールを蹴り合っていた。涼がほんの少しの時間だけ……と、いつもの高架下でボールを蹴っていても、引き寄せられるようにカズがやってくる。
申し合わせしてるわけでもないのにひょっこりと現れるカズへ、涼はかねてから考えていた疑問をぶつけた。
「カズは受験勉強、しなくてもいいの?」
中学3年生と言えば、今後の人生を決める上でとても大切な"高校受験"が控えている。涼はそもそも志望校へ行けるレベルには学力があり、勉強も欠かさず、毎週どこかしらの高校の過去問を解いては良い成績を残している。これからの勉学次第ではあるが、ある程度の見込みもついていた。カズもそういう部類なのだろうか、涼はそう思った。
「勉強はしないよ。だって俺、推薦で行くんだもん」
推薦という言葉を聞き、涼の目の色が変わった。
日常生活で良い成績を残している生徒へ中学校側が進路先の高校への推薦入試枠を与える制度……それが推薦入試だった。一つの受験のスタイルであり、日頃の行い、学業への姿勢、態度、総合的に見て良生徒として学校側に評価されなければ土俵に立てない狭き門でもある。つまり、カズはその狭き門を潜り抜けるほど、なかなかの優等生であるらしい……一般受験しか考えていなかった涼は、自分とはかけ離れた世界の住人だと感じた。
「推薦か、すごいね。優等生なんだ、正直見えなかった」
「何だとー!?そこは別に見えないとか言わなくていいじゃん!」
2人は笑った。
「まぁでも、本当に優等生だったら良かったんだけどな」
「……ん?どういうこと?」
カズの答えは、またも涼の想像を超えたものだった。
「俺の場合は、サッカー推薦、なんだよね」
「サッカー推薦……!?」
サッカー推薦は、サッカーの実力を認められた学生が、高校側からオファーを受けて入学する形で受験する方式。サッカーが上手くなければならないのは当たり前だが、今後の伸び代や、それをしっこりと判断して見届ける周りの目がなければなし得ないものだ。カズは、それだけ周りの人間から未来を期待されている、ということだった。
サッカーでオファーをもぎ取ったカズ。一般受験で行ける高校を目指す涼。パスを交換し合う2人の距離は見た目以上に大きなものなのなんだ、と涼は感じていた。
「すごい。そんなサッカー上手くて期待されてるんだ……けど、それならなんでここで僕とボールを蹴ってるの?チームもあるだろうし、そっちの練習は?」
「……まぁ、そう思うよな」
チームスポーツであるサッカーで推薦を受けるわけだから、チームに所属しているのは当然のこと。それにも関わらずほぼ毎日涼とカズはボールを蹴り合っていることを考えると、チームはどうした?という涼の疑問は至るに然るべきものだった。
カズは表情を変えた。
「チームでさ、あんまり好かれてないんだ。主にチームメイトに、なんだけどな。一応監督からは評価をもらってるから推薦受験も考えられてるし、俺が行こうって決めてる高校のサッカー部監督からも誘われてるんだけど、プレイ意外の部分でチームに馴染めないんだ」
カズが涼に微笑む。少し淋しげに、けれど、いつも通りにも見えるような笑顔だった。
「え、馴染めてない、の?……意外だな。色んな人と友達になってそうだったから、チームメイトと馴染めないって言うと思ってなかった」
涼にとってカズの答えは意外なものだった。初めて会った涼に対しては確かに半ば強引に話しかけてきたこと、それ以降のカズの対応を見ていると馴染めないなんていう姿は想像がつかなかった。気さくで、話すことがとても上手く、相手のことを良く見て考えているんだろうという面が多かった。そんなカズが表情を暗くする程に馴染めてないと言うのは、余程チームメイトとの相性が合わないのだろうか……と、涼は不安に思った。
「……けど、それでも評価もらえるくらいにプレイを出せてるのはすごいことじゃないか」
涼の素直な感想。気を遣ったわけでもなく、ただ思ったことを吐き出した言葉に、カズは少しだけ微笑みを返した。
「ありがとう。俺勉強はからっきしだからさ、推薦とれてラッキー!って思ってるんだわな!それにチームにもちゃんと顔出してるし、問題ない問題ない」
にかっと笑顔を見せるカズ。一瞬淋しそうに見えたのは気のせいだったのか、と涼が思う程目を輝かせる。
「とりあえず今は涼とボールを蹴って、サッカーしてるのが一番楽しいから、それで良いでしょ!」
彼は照れたように笑い、それを見た涼も少し照れてしまった。
「そうという涼は、もう行きたいところ決まってるのか?高校」
「行きたいところ……」
行きたいところ……進学したい高校のことだろう、涼はその問いに即答出来なかった。進学を希望する学校はあったが、特にやりたいこともなく、本当にそこで良いのかという迷いがまだ存在していたからだった。
「一応、多摩川高校……かな」
多摩川高校はこの辺りの公立校でも中堅から一歩抜きん出たレベルでありながら、涼の成績であれば少し余裕を持って合格を狙えるレベルだ。地域の進学推薦指定校にも選ばれており、高校から先の進路を決めるにも有利になってくる。
「え、多摩川高校?ふーん……多摩川高校でサッカーするのか?」
サッカーをする。その言葉を聴いた涼の心臓が大きく脈打った。
「サッ、カー……」
「え?ああ、やるんだろ?サッカー。だって上手いし。ボール蹴ってるときのお前楽しそうだぞ?」
サッカー、という単語が、瞬時に涼の顔を曇らせた。そして、次第に手すら小刻みに震わせるようになっていた。
「涼?」
涼の変化に気が付いたカズは、心配を声に出した。
「涼、どうした?大丈夫か?」
「……あ?ああ、うん。大丈夫、っていうか別に何とも……」
小さな声で返す涼に、カズは尚のこと不安を抱いた。先ほどまでとは明らかに態度が変わった涼。それは身体にも影響を及ぼしているのか、カズに出すパスも一瞬前とは全く異質なものになっていた。
ボールが、揺れる。ボールが、跳ねる。そして、ボールが、沈む。涼の蹴るボールは、その心を映し出すように不安定なものになっていた。受けるカズもそれを理解出来る程だったが、パス相手の動揺の仕方にかけられるような言葉を上手く見つけることが出来なかった。
「おい、涼、マジでどうした?」
「……え、だから、何が?」
「何がって、お前……」
カズがボールを蹴る足を止める。
「本当にどうした?」
不安の表情を見せるカズに、涼は溜め息を一つ吐いた。
「どうしたって、なんでも、ないってば」
意地を張っているようにしか見えない、カズはそう感じていた。パスの精度も落ち、全く表情を和らげなくなった相方に、カズもさすがに不審の目を向けざるを得ない。
「……本当になんでもないのか?」
「しつこいな、なんでもないってば!」
語気が強くなる涼。声を荒げる姿が今まで想像付かなかったためか、カズはものすごく驚き、上手く返せる言葉を必死で探した。
「そう、か。ならいいんだ。そしたら、とりあえず今日はもう止めにしよう。時間も時間だし、な?」
そう言うと、カズは足の裏で止めていたボールを涼に蹴り返した。ボールを受け取った涼はカズの言葉に頷くと、ボールを持って自転車にまたがった。
土手をゆっくりと進んでいく涼の自転車を見送りながら、カズは高架下のゴール前で不安そうな表情を浮かべた。
高校でサッカーをする。その言葉を聴いた瞬間からか、涼の態度は明らかに変化していた。もし高校でサッカーをする気がなかったとしても、これ程までに動揺して、表情が変わって、蹴るボールの質も変わってしまうことなんて、そうそうないだろう……
───涼の中で、何かがあった。───
カズの答えはそこに行き着いていた。むしろ、そう考えることしか出来なかった。
そして同時に、自分にはまたボールを蹴りに来ることしか出来ないのだと、理解した。
「涼、りょーーーう!どうしたの?ボーっとした顔して」
聴きなれた智明の声に、涼は視線を移した。
「んー?ボーっとなんてしてないよ、問題ない」
放課後の学校には生徒はほとんど残っておらず、涼と智明のクラスにも2人以外の生徒は残っていなかった。夕暮れが近くなり、曇り空に少し強めの風が吹く。窓から教室に入ってくる風がカーテンを巻き上げては、何事もなかったかのようにぴたりと止まる。風の音だけが教室を抜け、一瞬の静寂に色をつけた。
「問題ない?ならいいんだけど……」
問題ないと言われても……涼の言葉に対して、智明は不安げに幼馴染の顔を見ることしか出来なかった。
数日前から学校内での涼は呆ける時間が多くなっていた。放課後であれば尚のことで、サッカー部が校庭で練習していればほぼ確実にその時間は増えていた。何を考えているのかを口に出すことはなく、ただ呆けて、その度に"大丈夫だ"とか"問題ない"と言っては、智明の心配をよそにまた口を閉ざすの繰り返し。態度が変わった日の前日は何ともなかったはずなのに……一夜にしてそこまで変化が起きてしまう何かが起きたのだろうか、と、智明の中で不安がだけがどんどんと膨れ上がってしまっていた。不安と、自分には何も出来ないのかという悲しみ、そして、焦りが。
何を話すべきか、何と声をかけるべきか……それだけが智明の頭の中を回り、けれど答えは出ず、悩むことだけで前に進めない。智明が自分の不甲斐なさに唇を噛み締める。すると、涼がぼうっとした視線を智明に向けて言った。
「智明こそ、何かあったの……?言いたいことある感じに見えるけど、特に何か言うわけでもないし。らしくないよ」
智明の耳に、窓の外の喧騒が聴こえた。智明の視界に、明瞭さが加えられた。
「へ?らしく、ない?」
らしくない。その言葉は、智明の胸に鋭く突き刺さった。
───らしくない。ああ、そうか、今の私はらしくないんだ。そうなのか……らしいってなんだろう。───
自分らしさ。それは誰しもが苦悩する、自分の在り方、アイデンティティーと呼ばれるものだ。自分はこう在りたい、こう在るべきだ、という在り方の一つ……それが"違う"、"らしくない"と言われるということは、自分がこう在るべきだと思って常に意識している振る舞いが出来ていない、自分がこう在りたいという姿に近づくための振る舞いが出来ていないという事実を指摘されていることと同じだ。少なくとも、智明にとってはそうだった。
───そうだ、"らしくない"か。そうだ、そうかもしれない。───
言いたいことを真っ直ぐに伝える、心配したり何かあったらお節介にでも関わっていく……それが、智明が常に大切にしていた他人との接し方であり、智明の理想とする在り方だった。友達に何かあれば、助ける。言いたいことを包み隠さず誠実に伝える。彼女にとってそれは、日頃意識して続けてきた、習慣付けたい行動理念だ。
らしくない、そう言われた瞬間、大切にしてきた想いがじわりと胸に沸き起こってきた。出来ていない、自分が大切に思っているような行動が出来ていない。何かに怯えてか、足が竦んでか、何も出来ず、何も前に進められてはいない。彼女は、それが"らしくない"ことなのだろう、と感じた。
「らしくない、か。そっか、そうだよね。言いたいこと言わない私なんて、らしくないよね」
小さな声で呟く智明。
───心配しすぎて大切な人に何も出来ないなんて、らしくないよね。───
智明は窓から入る風を肺いっぱいに吸い込んで、全て吐き出すように大きく息を吐いた。
「涼、やっぱりこの前から変だよ。もしかしてさ、サッカーのことで、何かあった?」
サッカー。その言葉に涼の目の色が変わった。鋭く、しかし何もない空中を見るように虚ろに、涼は智明を見た。
「は?なんだ、言いたいことありそうだから聴いたら僕のことか。サッカー?何かあったか、だって?何もないよ。そもそも、僕はもうサッカーはやめたんだ」
智明の言葉へ、涼は鼻で笑った。
「僕はもうサッカーをやらない、サッカーには関わらない。そう決めたんだ。智明も知ってるでしょう?だからサッカーのことで今さら僕が何を考えるんだよ」
「でも、涼はいつもボールを蹴ってる。サッカーしてるじゃん」
「ボール蹴ってるだけだろ?サッカーじゃない、ただの球遊びだ。サッカーなんかもうしないよ、いきなり何言い出してるんだよ」
「サッカーじゃん!ボールを蹴るだけでサッカーだって昔自分でも言ってたじゃん!サッカーになるととことん食いついて言葉多くなるくせに、それ以外のことで悩んでますって言えるの?」
「僕はサッカーで悩んでるわけじゃない!ただ……受ける高校どうするかって、それだけのことを考えてただけさ。なんで智明はすぐ僕をサッカーにくっ付けたがるの?言っただろ前に、もうやらないって。関わりたくないって!」
「だったらなんでサッカー部の後輩を見ながら淋しそうな顔してるの!?もうサッカーに何も感じないのなら、受験で悩んでいるのなら、なんでサッカー部見ながらぼうっとしてるの!?受験勉強すればいいじゃん!」
「なんでだよ!僕が校庭の様子を見てることの何がいけないんだよ!勉強の息抜きに後輩の走る姿を見て、何がいけないんだよ!智明は言ってることおかしいって、迷惑だからやめてくれよそういうの!」
「迷、惑……」
2人の声が教室内に反響する。怒鳴り上げるように言葉をぶつけ合い、その熱の余韻が残響に乗ってお互いの元へと返ってくる。
2人は肩で息をする程、感情を剥き出しにしていた。智明から見れば、涼は明らかにサッカーで悩んでいる状態にあった。涼からすれば、サッカーの話は過去に一度決着が着いているためか、蒸し返されることに苛立ちがあった。
「ねぇ、涼。なんで?あれだけ好きだったのに、なんでそんなに嫌いになっちゃったの?」
小さな声で淋しそうに呟く智明。
「……嫌いになった、だって?」
涼はそんな智明に、目を合わせず言葉を返した。
「僕はただ、もう関わらないって、決めただけだ」
鞄を持ち、涼はすぐさま教室を出た。残された智明は、涼の背中を見つめることしか出来なかった。
「……やっぱりいつもいるんだね、カズ」
気が付くと、涼はいつもの高架下にいた。練習着に着替え、スパイクを履き、ボールを持っている。意識したわけではなく、身体が勝手にここまで運んできたのだった。
「そりゃー、お前とボール蹴りたいじゃん?」
にかっと笑うカズに、涼は笑顔を返すことが出来なかった。
「にしても、久しぶりじゃん!何日ぶり?」
「んー……さぁ?」
カズの言葉をいなす涼。
「覚えとけよ4日ぶりだろ!」
カズの笑顔はいつでも爽やかだった。その爽やかさに、涼は少しだけ後ろめたさを感じていた。
「ああ、そうかも、4日ぶりかもね」
「それまでほっとんど毎日蹴ってたんだから、さすがに4日空いたら不思議だって」
言葉に反応を示さない涼。高架下には、いつもよりも重く鈍い空気が流れていた。
しばらくの間、お互いにボールを蹴り合う2人。夕暮れ時になり段々と周囲が暗くなってきてもお構い無しに、視線を相手の胸元あるいは顔に固定してパスを受けたい方向や質を見極めてボールを蹴った。
「そのパスいいな!アウトサイドで回転かけて、良い軌道で足元にくる!」
涼のパスにカズが唸る。右足の外側……アウトサイドでボールの左側面を擦るようにして蹴った涼のボールは、左方向から右方向へ、軌道をグンと曲げてカズの足元に辿り着いていた。
「いいわ、そのパス、トラップもしやすい。いいわぁ」
「あ、ありがとう」
キックをしみじみと褒められた経験は、涼にはなかった。だからか、少し気恥ずかしい気がして顔をほころばせた。
「うん、やっぱ上手い。……なぁ、涼。俺さ、ずっと言おうと思ってたことがあるんだ」
急に真剣な表情をし出すカズに、涼は少し身構えた。
「言おうと思ってたこと?何?」
「ああ、俺とさ……」
言葉を切ったカズは、一呼吸置いて、
「高校、俺と一緒にサッカーしないか?」
サッカー。その単語に反応しないわけにはいかない涼。またその言葉が出てくるのか、と一瞬でうんざりした気持ちにさせられた。
「何を言ってるの。僕はサッカーやらないって前、話したよね?」
カズに無感情のまま返しながら、彼の問いかけを頭の中で反芻する涼。高校でサッカーをする、高校でサッカーをする、高校でサッカーをする……高校で、誰かと、サッカーをする。ぐるりぐるりと"誰かとサッカーをする"という情景が脳内を巡り巡っては、涼の鼓動を何度も打ち付け、動悸を生み、息を途切れさせた。
───サッカーをする。───
今の涼からすると、この高架下でカズと2人でボールを蹴っていた時間を、別の人達……チームで共有して過ごすというだけの話だ。特に難しいことを言っているわけではない、と涼も理解は出来ていた。練習だけじゃない、試合に出ても同じで、パスを交換し合い、走り回り、勝ちを望む……サッカーも突き詰めて言えば、あるいは所詮はと言えば良いか、ボールの蹴り合いと言わざるを得ない。ここで実際にやっているボール蹴りを、単純に他の場所で他の人達と一緒にやればいいという程度の話だ。
しかし、涼は"その程度"のことを、簡単に望むことが出来なかった。
「サッカーは……しないよ」
低い声。思いがけない涼の沈んだ反応に、カズは眉をひそめた。
「なぁ、涼。お前なんでそんなに頑なに……おい、どうした?涼、大丈夫か?……顔が真っ青だぞ」
急速に顔が青ざめていく涼に、異変に気が付いたカズがボールを止めて駆け寄る。
「涼、俺何か変なこと言ったか?ごめん、大丈夫か?」
カズを手で制し、涼は一つ深呼吸をした。
「大丈夫、問題ない」
「お前、問題ないって……真っ青じゃ」
カズの言葉に首を振り、大丈夫だから、と頭を抱えながら呟く涼。
「……ごめん、大丈夫だから」
一旦カズに背を向けて、何度か深く呼吸する涼。それでも、手の震えは止まっていなかった。
「……申し訳ないんだけどさ、カズ。僕今日、少し疲れてるみたいだから、帰るね」
言うと、涼は背中を丸めたままカズに背を向け、とぼとぼと自転車まで向かった。足元が覚束なく、千鳥足で歩く涼へ、カズは何か言葉をかけることが出来なかった。心配でならない……そう思うカズの心内を行動で示すことが出来なかった。
「本当に大丈夫かよ……」
涼が自転車にまたがり、土手を走り始めようとした時、カズは足下を見てふと気が付き叫んだ。
「つか、涼!ボール!これお前のボールだろ!」
「……今度でいいよ。そのまま持ってて」
振り向くことなく言い捨てて、涼は重そうにペダルを回し始めた。ほんの一瞬前までの彼との違いにカズは困惑しか浮かべられず、遠ざかる涼の背中をただただ見続けていた。
自転車の車輪がせわしなく回る。ゆっくり漕いでいるはずなのに、いつもより速く回っている。心臓の音もそう。さっきの瞬間までとは比べものにならないほど、速い。ゆっくり漕いでいるはずなのに、どん、どん、と胸を内側から何度も何度も強く叩かれ、何度も何度も苦しくなる。通り過ぎていく景色が遠く、吹き抜ける風も感じられない、浮遊感。涼はこの浮遊感を、以前にも感じたことがあった。