第1話 ボールが笑った出会い
初めまして、水谷舞湖です。
今回は、私が大好きなサッカーを題材として、書かせていただきます。
隔週に1話、掲載していければ嬉しいな、と思っておりますので、
是非、何かの合間に、お手すきの時に、思いつめた夜に、
お手を取っていただければと思います。
よろしくお願いします。
世間はいつも冷たくて、人生は往々に残酷で……
僕らが生きていく中で、思い描いた道を歩くことはとても難しくて。
手にしていた大切なものを、どんなに小さくても、他のものを無視してでも、
守り通していくことが生きるってことなんだと思ってた。
それが人生なんだ、って。
けれど、そうじゃない、違う生き方もあるのかもしれないと思えた。
大切なものを守るために、大切なものを切り捨てることは違うんじゃないか、と。
大切な守ることも必要だけど、だからといって小さな大切なものを失わなければならないなんて、それは悲しいことだ。
小さなものでも大切な何かを得て、得たものを全て守っていこうと努力する……
そんな風な生き方もありなんじゃないか、って。
そんな風な人生も、認められていいんじゃないか、って。
いつまでも、大切なものを信じ続けて、いいんじゃないか、って。
僕たちの世界には、大切なものが溢れかえっている。
自分の行く道で、人が生きていく中で、
大切なものでいっぱいにすることが、人生なんじゃないかと。
僕は、みんなと出会って、大好きなことをして、そう、思った。
曰く、
───いくら大好きだったとしても、終わりは唐突に来るものなのだ。
自分の目から見ていれば唐突にしか感じなくて、なるほど、これを運命と言うのだろうか……とか納得させられるくらいにあっさりとやってくる。
大好きな女の子との関係の終わり……告白して振られて、悲しくて悲しくて仕方がない。
何故振られたのだろう、自分の目で見たらわからない。だって唐突だから。
けれど、客観的に見れば当たり前の話だったのかもしれなくて。
一緒にいておどおどしてたり、話してても楽しくなかったり、そもそも顔が好みじゃなかったり……条件は色々あれど、複数重なってしまえば、それでもう終わりだ。
終わりなのか?終わってしまうのか?なんて諦めの悪い言葉は、終わりを認めたくない自分の幻想でしかない。
結局のところ、終わらせてしまった自分を直視出来ないだけなんだ。───
「それで?涼は結局、告白したの?」
にやにやしながら、涼の隣の席に座る女生徒が彼を見る。
「そりゃあ、まぁ……ね。……うーん」
「出来なかったんだ」
女生徒に言われて眉尻を落とす涼。その意気消沈ぶりはさっきまで独り語りしていた時とは正反対だった。
「涼、御託を並べるのは行動してからにしよう?」
「傷ついてる人間になんでそういうこと言うのかね……智明にはわかんないんだろうなぁこの男心」
「わかるわけないじゃない、男じゃないんだから」
智明は言葉を切って席を立った。
「それじゃ、私は塾だから。あ、そうそう。涼のお母さんから伝言。今日は智明ママと出かけてくるから晩御飯は冷蔵庫ですよろしくぅ!だそうです」
「そっか……まぁいつも通りだね」
ふっと口元を緩める涼。
涼の母は夜の外出が多く、週に何度かは息子と顔を合わせない晩御飯の時間があった。"顔を合わせない"というだけで家に帰ってはいるし、涼としても独りの時間が増えて良い環境であったためか、小さな頃から母の不在について涼が何かを言うつもりはなかった。
今回の外出もかれこれ15年以上も付き合いのある隣人の、涼にとっては幼馴染の母親であるマダムとのお食事会なわけで……邪魔するわけにはいかない。
「仕方ないね、今日もゆっくりするか」
涼は小さく溜息をついた。涼の母は彼を独り手で育て上げてきた。幼少期に父親がいなくなってからというもの、常に守ってくれていた存在の母親の邪魔は、涼には出来なかった。
彼は"邪魔するわけにはいかない"からこそ、何も言わない。15年間必ず味方でいてくれた母親に対して、もっと自分のことを見てほしいなんていえなかった。ただ、そこには"淋しくはない"と言うには沿わない、少しだけ強い感傷が存在していた。
「涼、ちゃんと晩御飯食べるんだぞ?」
「う、母さんかよ……わかってるよ、ありがとう。塾気を付けてな」
智明と手を振り合う涼。長年顔を合わせてる彼女も、部活を引退してから受験に向けての塾通いの日々。彼女が行きたいと言っていた高校はこの辺りでは有名な高校で、偏差値が高いわけではないが何かと評判が良く、スポーツも盛んな学校だった。今の智明の成績からすればおそらく問題なく合格出来るレベルではあると涼は思っていたが、そこは入試に対する不安との戦いなのか、智明は3年生になってからすぐ塾に通い受験の準備を始めていた。
一方の涼はと言えば、行きたいと思う高校もなく、志望しているのは自分の学力で行ける普通レベルの公立高校だ。幸いにも、勉強は出来ない方ではなかっためか、ある程度の選択肢には恵まれ、塾に通うこともなく独学で志望高校の過去問題集の合格ラインはクリアしていた。受験といえば、夏休みを迎えてからが勉強の本番というイメージが強いが、それからも涼は怠るということを考えていない。なんとなく決めた志望校の合格ライン越えを維持するために実直に進めるのみ、それしか頭の中になかった。
「さて、帰るか」
教室を出て昇降口で靴を出す。今から部活の練習が始まるのか、下級生達が少し汚れたスパイクの紐を結びながら談笑している。
───みんな、楽しそうだな。───
すでに校庭に響き渡っていた声の中で、涼はそう思った。
家に帰って部屋に鞄を置き、勉強机に入試過去問題集を置いて一息つく。涼は何度か問題集を開きかけては手を止めた。
今日は気が乗らない。涼は思った。
帰り際にスパイクを履く下級生達の姿を見たからか……その楽しそうな姿を思い出しては、落ち着かない様子で窓の外を眺めた。
スポーツは楽しいもんな、と独り言を小さく呟く。涼にとっても、スポーツは色々溜め込んだ感情を吐き出すためのとても良い時間だったため、楽しい思い出や感覚が強く存在していた。
「ダメだ、気が乗らない!」
おもむろに立ち上がる。
箪笥から運動着を引っ張り出して着替え、深呼吸を入れてから玄関へ向かった。玄関には綺麗に手入れされたスパイクが一対置いてある。紐の擦れもなく、型崩れも起こしていないスパイクを履いて、涼は家を出た。
自転車で走る川沿いの土手の上。吹き抜ける風が、涼の汗ばんだ肌をすべる。気温は暑いと無意識に言葉が出てしまう程高いのに、涼しさを感じる。フィールド上でもこういう風が吹いてくれれば気持ち良いのに、現実はべたついた空気が充満するだけでちっとも吹きはしない。涼は少しだけ風に悪態を吐いた。
鼻歌交じりにペダルを漕ぐ。受験生となってから何度目だろうか、勉強に身が入らない時に必ずと言っていい程、涼はボールを蹴っていた。……勉強に集中出来ない時、というのは彼の中だけの結論で、実際には毎日のようにとある河川敷の高架下でボールを蹴っている。意識せずともやってしまう、習慣めいたものとなっていた。
今日も無意識のうちに習慣づけられたボールを蹴りに、家から自転車で10分程走ったところにある、人気の少ない高架下までやってきた。近くに自転車を止め、5号のサッカーボールを大事そうに抱えながら、壁というゴール……もしくはパスを出す相手と対峙する。
そこで、涼は自分がボールを蹴りに来たのだと自覚した。
「……僕も懲りないね」
独り苦笑いを浮かべながら、涼は頭の中でサッカーをし始めた。
天候は晴れ、気温はそこまで高くないが、湿度が高く、蒸し暑さを感じる陽気だ。フィールドの中央でボールを受けた涼は、相手がかけてくるプレッシャーはいかなる手段、あるいはいかなる状況下を想像した。
どう対処して、どう切り返すか……シュートコースを開け、どこにシュートするか、チームメイトはどこに走りこんでいて自分はどこにパスをだすのか……様々な状況を反芻し、イメージした状況を一から再現しながら、ボールを壁に蹴り始めた。
まずは、味方へのパス。走って涼を追い越すチームメイトに向かって、ボールを蹴る。脚がボールに当たった時のインパクトの感触、音、ボールが空を切る軌道、壁の狙ったところに当たる快感……全てが涼にとって気持ちの良いものだった。そしてそれは、涼が今まで積み上げてきたものでもあった。今の涼を支える大切なものだった。
彼は独りでボールを蹴る。独りきりのフィールドで、ボールを蹴り続ける。
「いいぞ、そこで裏に抜けろ!」
独り言を呟きながら、涼はボールを蹴り続けた。ある時は自陣ゴール前で失点のピンチ、ある時はサイドラインギリギリの場所でのボールキープ、またある時は敵ゴール目前でのドリブル……様々なシチュエーションを想像し、再現しながら、小一時間ボールをけり続けた。
楽しい、涼の頭の中はその感情でいっぱいだった。こんなにも楽しめて、こんなにも笑顔になれることを、涼はサッカー以外に知らない。ボールが蹴れることが楽しくて、嬉しくて……1日中、どころか1週間、1ヶ月、1年間ここで独りで蹴り続けても飽きることはないだろうと思っていた。力を込めてボールを蹴った時の音、上手く力が伝わって脱力しているのにボールのスピードが弾丸のように速いシュート、ひとつひとつのボールとの感覚が、涼にとってかけがえのないものだった。
ふとした時、蹴ったボールが思わぬ方向に飛んでしまった。
高架線の柱の角にちょうど当たってしまい、ボールが明後日の方向へと飛んでいった。涼がボールを取りに行こうとすると、目の前で誰かがボールを足で止めた。
「こんなところで独りでサッカー?」
涼の知らない顔だった。歳は同じくらいの少年で、涼よりも幾分か背が高く、ボールを止めたまま腰に手を当て、黒い髪をなびかせている。髪は風によって持ち上げられているわけではなく、おそらくワックスで固められているのだろう……一定の形を保ったまま乱れない。
「見たことない顔だね、この辺のチームでサッカーやってるわけじゃないのか?」
見知らぬ人物に話しかけられ、涼の心中は穏やかではなかった。
「どうも、ありがとうございます」
ムスッとした顔のまま、涼は手を差し出す。少年も頷きながらサッカーボールを涼へと返した。
話しかけられたことを無視して、涼は再び壁の方を向き、またボールを蹴り始めようとした。しかし、
「ぬん」
「……」
少年が涼の向いた方向へ動いた。涼は無表情のまま別の方を向く。
「ぬん」
「……」
少年がまた涼の向いた方向へ動いた。
「ぬん」
「……」
「ぬん」
「…………」
「ぬん」
「………………」
「ぬん」
「……………………」
「ぬん」
「…………………………」
何度別の方向を向こうとも、少年はその度に涼の向いた方向へと動いた。
「ぬん」
「だあああああ!何なんだよ君は!ボール取ってくれてありがとうって言ったでしょう!感謝してそれでこの場は終わり!そうでしょう!何で何度も何度も前に出てくるんだよ!?」
急に現れた少年が、自分のやりたいことの邪魔をしてくるのだから、煩わしく思うのも当然のことだった。涼は勢いに任せて言った。少年は涼の反応に対して少し考えた素振りを見せた。
「パス」
「は?」
涼にはこの少年が何を言っているのか……正しくは"何故そんなことを言っているのか"わからなかった。
少年が手を腰辺りまで落とし、手のひらをこちらに向けてもう一度言う。
「パス」
「……」
涼は何も言えなかった。
相手が欲しがっているのは、パスだ。サッカーをやっていれば誰でも経験する、サッカーの基本であり、仲間との意思疎通のツールであり、ゲームを進める上で確実に必須となるプレイであり、チームプレイであるサッカーの醍醐味と言っても過言ではない、パスだ。彼はそれが欲しいと要求しているのだ。
……何故?
涼の頭の中には疑問しか浮かび上がらなかった。初めて会った人間が、何故パスを求めるのか……その疑問しか考えられなかった。
「パス」
「……」
涼はそこで考えることを止めた。少年の目が冗談を言っているわけではなく、本当にパスを欲しがってるように見えたからだった。まるで、ゴール前でパスを欲するフォワードのような目で。
はぁ、と一つ溜め息をついて、涼がボールを蹴る。ぼん、という音とともに、サッカーボールは吸い込まれるように少年の足元へ飛んでいった。
「お、ようやく来た来た」
嬉しそうにボールを足元に止める……トラップをする少年。勢い良く少年の足めがけて飛んでいったボールをぴたりと止め、少年が涼へパスを返す。
少年のパスは、真っ直ぐに涼の右足へ飛んでいった。
───この人、上手い。───
涼の直感が告げた。この少年は上手い、と一瞬で脳へ情報が刻まれた。
「……へぇ、お前パス上手いな。サッカーやってたのか?」
少年も同じことを考えたのか、涼に対して、涼が思ったことを真似するように言った。
「まぁ、少し……」
含みを匂わせて、涼は答えた。ふーん、といった興味がなさそうな反応示して、少年はボールを返した。興味がないなら聞くなよ、と涼は思った。
何度もボールを蹴り合うたび、涼は段々と少年の蹴るサッカーボールに高揚を感じた。
ボールが笑ってる……そう思えたからだった。少年のキックは、パワー調節は少し荒削りで、パスコントロールもぴったりトラップしやすい場所からはほんの少しずれてしまい、素晴らしくパスが上手いというわけではない。しかし、ボールの軌道をブレさせることなく、真っ直ぐと一直線に綺麗な軌道を描かせていて、見たことがないと思う程に美しかった。
そして何よりも、"トラップ"。涼が少年のボール捌きに目を奪われたのは、彼のトラップを素晴らしいと感じたからだった。涼がわざとボールの強弱を変え、パスの到達点をずらしたとしても、毎回同じように自らの蹴りやすい場所へボールを"止め"ていた。
サッカーにおける基礎的な技術は、ボールを"止め"て、"蹴る"ことだ。どんなプロの選手でも、その技術がない選手は上手くやっていけはしない。涼の目の前にいる少年は、その基礎的な技術が唸る程に上手かった。
「やっぱお前、上手いな!」
唐突に少年が言う。
「パス、わざとズラして蹴ってるだろ?」
「え、……バレてた?」
涼は、少年がそのことに気が付くことはないだろう、と思っていた。ごく自然に、ボールに足が当たる瞬間しか変化させていないために、少年が涼のことを相当注意深く見ていないとわからないだろうと考えていたからだった。
しかし少年は、涼の想像を超え、彼のキックの意図に気が付いた。
「まぁなんとなくな。トラップからパスの一連の動作に一つも無駄がなく毎回同じなのに、毎回俺の足に届くか届かないかくらいのパスしてくるんだもんさ。なんとなく、わざとかなと思うだろ」
「へぇ、すごい」
少年は、涼の思い描いていた実力を遥かに凌駕していた。"足という一点を注意深く見ていれば"という思惑は涼の主観でしかなかったことを気付かされた。少年は、涼の身体の動き全体を見て、プレイの意図を解釈したのだ。長年一緒にプレイしていても理解出来ないことが多い中、しかし、少年は涼の技術、身のこなし、雰囲気すべてを鑑みて答えを出してきた。
よっぽどの観察眼なのだろう、涼はそう思い、同時に彼とのパス交換を楽しいと思わざるを得なかった。
「君も……相当上手いね」
涼の純粋な感想だった。
「お!ありがたいお言葉をいただいた……サンキュー!」
照れくさく笑う少年は、パス交換の合間でふと何かに気が付いた表情をした。
「そうだ、名前!」
名前、と言われて、はたと考える涼。名前?何の?と全く理解出来ていなかった。
「俺はカズ、相沢和宏!カズって呼んでくれ」
ニカッと笑うカズに、涼はようやく、名前!と言った意味を理解した。
「そうだ、名前、知らなかったね。僕は涼。柊木涼。涼、でいいよ」
「お!柊木涼、か!かっこいい名前だ。よろしくな、涼!」
2人は言葉をボールに乗せて、日が暮れるまで何度もパスを交換し合った。
「……またいるのかよ」
「お!おっす、涼!」
明くる日の放課後、涼はいつも通り気分転換にいつもの高架下へやってきた。そこには、昨日と同じ顔……カズがいた。
「またボール蹴るんだろ?付き合うぜー」
笑いながら両手でパスを要求するカズ。当たり前のようにボールをよこせと言っている彼の態度は、はたから見れば相当に馴れ馴れしいものだ。たった1日ボールを蹴って、少しだけ言葉を交わしただけなのに、もうすでに"いつもボール蹴り合ってます"と言わんばかりの顔をしている。
というよりも、涼からしてみれば、今日もまたここに来るなんて言った覚えはないのに自分が待ち伏せられていたことで、カズに見透かされていると思えて、少し悔しかった。
「はぁ……いいけどさぁ、まぁ、いいんだけどさぁ」
溜め息と悪態をつきながら、涼はカズへボールを蹴った。そんな涼の顔も、まんざらではなかった。
「いやーやっぱお前上手いな!」
「君の方こそ、ボールが笑ってる」
「笑ってる?なんだそれ」
涼は真面目に言ったつもりだったが、カズは鼻で笑い飛ばした。彼は信じてなさそうにも見えたが、涼には彼が"当然だろ?"と笑っていたように思えて少し羨ましかった。
「笑ってるよ、君のボールは蹴られるたびに。それに、君も。蹴るたびに、笑ってる」
無邪気に、とはまさにカズのことを差している、と涼は思った。もちろん、試合中はそんなことはないのだろうと予想はつくが、ここまで普段から楽しそうにボールを蹴っている人間を見たことがなかったからこそ、涼は羨望の眼差しを向けることしか出来なかった。
「そうか?わかんないけど……お前も、笑ってるぜ、涼」
───2人の出会いが、お互いにとっての人生の岐路となるとは、今の2人には想像し得るものではなかった。
しかし、運命は理。
彼らの出会いは、今後の彼らの行く末を占う、大切な一瞬だった。───