帰る場所に、光は届く
私には一人、少し不思議で大切な友達がいる。
「ネア、」
「おかえり、ヒセン」
かたまった筋肉を少し歪めるように彼はただいまと笑う。
水の街、スーマラン。海の上に街が浮いているように見えるこの島は、この辺りでも有数な観光地だ。街中を通る水路を小舟で進む。全く陸地がないわけではないけれど、広範囲を移動するなら小舟の方が早い。
海の方へ繋がる水路を行けば、観光地らしく華々しい歓楽街へ。内へ繋がる水路に行けば、水路の細い、この街の住人の生活区域になる明確に別れている訳じゃないけど、内の方は他の街と余り差がないらしく、観光客は訪れないから、何となく住み分けがされてる。
明るい街だけど、人が集まってる分、トラブルも少なくない。本来なら街には国の軍が治安の維持をするけれど、ここは余所者よりも地元の人間の方が動きやすいから、自警団だけで治安の維持がされてる。それで困ったことはなかったけど、本当は横柄な軍人の介入が嫌だっただけなんじゃなかったかと、私は思ってる。
美しい水の自由都市、それがスーマランだ。
ここに生まれて二十数年、スーマランは私にとって自慢の街だ。
私は住民の生活区域と歓楽街のちょうど境界に位置するパン屋で働いている。お客さんは住民と観光客半々くらいだ。観光が盛り上がる夏ごろが一番のかきいれ時。
夏、その季節になると国中から避暑のために人が集まる。水の都市、その美しい景観もさることながら、水しぶきの上がるここは国全体から見てもかなり涼しい地域だろう。
街は賑々しく、華やか、誰もが笑顔で小舟に乗っている。
そんな昼下がり。
陰鬱な面持ちで水路の脇を歩く彼を見つけたのは今から10年ほど前だった。
この街に似つかわしくない彼は街で一際浮いていた。頭一つ分普通の人より大きいだろうに、その背は丸められ、夏らしくない長袖長ズボンで歩く。店番をしてながら外を見ていた当時の私はひどくギョッとした。季節を間違えたようなその服装と暗い表情、幽霊か何かのように見えたのだ。今思うと彼に対して随分に失礼なことを考えたものだ。そんな彼が生きた人間なのだとわかったのは、いたって普通に店に入って来てパンを買っていった。
「いらっしゃいませー!お客さん観光ですか?」
「ええ、まあ……、」
一応話しかけたものの、雑談に興じるような人には思えず、口を噤む。クロワッサンにパニーニ、それからカフェ・モカ。店一番人気の二つに、見た目に少し似合わない甘いカフェ・モカは顔には出さなかったものの、印象的だった。観光とういう割に、楽しくなさそう。余計なお世話だろうが、近よると目の下に濃い隈が見て取れて、観光するよりも休息の方が彼には必要なんじゃないかと思えた。
甘いものの似合わない、不健康そうな人。最初の邂逅での印象はこれだった。
しかし二回目の邂逅は私が想像するよりも随分早くに訪れた。
「ネアちゃん!今日はもうこれくらいで上がっていいよ!」
いつもより随分昼にお客さんが来た日で、店の中の商品はほとんど空になっていた。これならもう自分はいなくても大丈夫だろうと思い、挨拶をして店を出た。アパートのある住宅地に向かう途中、海まで直通の大きな水路で、あのカフェ・モカの男の人を見つけた。
彼は何をするでもなく、水路に掛かる大きな橋に腰掛けていた。ぼうっとしているようで、その黒い目は何も見ていない。手には昼間手渡した店の紙袋が下げられている。
本心としては、関わりたくなかった。陰気、根暗そう。トラブルの多い街なだけに、観光客に紛れた変な人も少なくはない。見て見ぬ振りしたい、それが正直な気持ちだった。でも相手はこの街についてあまり知らないのだろう。そうでなければこの時間、この橋にいるはずがない。
「……あの、」
「……はい、」
ゆるり振り向き、機械的に向けられる目に一瞬怯む。おそらく、一応昼間一言かわしたことも彼は覚えていないのだろう。
「な、なにをしてるんですか?」
「……何も、ただ川を、見ています。」
川の美しさ、そしてそれを囲む街並みは確かにこの街の自慢だ。だが鑑賞する場所にいささか問題がある。
「すいません、もうすぐ17時になるんです。その時間になると、ここの水路を大舟が通るんです。そのときにこの橋を上げてしまうので、その……、」
「ああ、邪魔でしたか。すいません。」
やんわりと言ったのにあっさりとオブラートを取り払う彼に苦笑いを返すしかない。橋から降りて、水路脇に立ちまた、川を眺める。
昼間ならともかく、この日暮れの迫るこの時間、彼が邪魔になることはない。満潮になり水位の上がるとき、観光客は繁華街へ向かうし、住民たちは内地の住宅街へと帰っていく。従って、この境界区域は閑散としていた。
日暮れが迫る境界区域。いくらこの街がどこでも綺麗とはいえ、観光客が来る場所じゃない。宿が決まっているなら早く帰った方がいい。夜、他所の人が迷わず歩けるほど、単純な作りはしていない。
「……綺麗なものが見たいんですか?」
声を掛けると、ほとんど動かない表情の中まだいたのか、という顔をされた気がした。
「……………別に。ただこの街が見たかっただけなんです。」
ぼんやりとしてる。このままどこかへ消えてしまいそうな。
この街は美しい街。歴史のある自由都市、スーマラン。蜘蛛の巣のように網羅する水路で、姿を消す観光客を装った自殺者もまた、多いのだ。
「このあと、どこか行かれますか?」
「……いえ、特には、」
「……そろそろ宿に戻った方が良いですよ。暗くなるここ、道分からなくなっちゃいますから。」
「宿は取ってないんで、大丈夫です。」
何が大丈夫なのだろうか。この時点で、私の中で彼は自殺志願者にカテゴライズされた。自分の働く店の側で、お客さんが水死体であがるなんて、嫌だ。
「……この街で一番きれいなとこ、連れてってあげる。」
「え、」
「だからそれ見たら早く適当な宿に行ってきなさい。飛び込みでも入れてくれるところはあるから。」
これが良い選択かは分からなかった。でもここで放っておくよりも、たぶんマシ。
そう思い、内地へとつながる水路の小舟へと乗った。舟から振り向くと、いまだぼうっとしたままの彼が呆けたように私を見ていた。
「ほら、早く来なさい。早くしなきゃ終わっちゃう。」
「ああ……うん、」
ぽやぽやとした雰囲気のまま、私の乗る舟に乗る。傾ぐかと思い身構えたけれど、舟は大して揺れなかった。
内地へと続く水路をこいでいく。
物珍しいだろうに、彼はただぼうとしながら流れていく景色を見ていた。
先ほどとは違う不安に駆られる。ほぼ初対面。いくら私がひ弱そうとはいえ、見ず知らずの人間にこうも無防備について行っていいものだろうか。おそらく同じくらいの年の青年だと言うのに、まるで親を見失い、探すことも助けを求めることもできない幼子のように感じられた。危機感などなく、誰にでもついて行ってしまいそうな彼だからこそ、放っておけなかったのかもしれない。
「いつ、スーマランに来たの?」
「……今朝。」
「結構観光する場所あるけど、どこか見た?」
「……川を、それから海と、舟。」
「一人?」
「ああ、一人。」
雑談とも呼べない無味乾燥な会話。沈黙に耐え兼ねた私が切り出したのだけれど、彼はそれを迷惑がるでも鬱陶しがるでもなく、淡々と返した。
曲がりくねった水路を進み、目的の場所へ舟をつける。
「ここは、」
「スーマランの美しさを、一番魅力的に見せる場所。」
秘密の場所よ、と言うと彼はわけもわからないままだろうが、一つ頷いた。
とっと、と外階段を上る。軟弱そうな彼は大丈夫かと振り向くが息切れ一つ起こさず、カツカツと私に続いていた。足音一つで、ここの住民か、外の人かわかる。
「ここ、入っていいの?」
「知らない。なんでもね、バレなきゃいいの。」
不思議そうな顔をする彼をそのままに、今度は梯子を上る。街の中心の時計台が、赤い光を反射させていた。
鉄さびの匂いと潮の匂いが混ざり合う。
上りきった建物は、蔦の張る廃墟。屋上だけは、私が手入れしているため綺麗だ。一つだけベンチが置いてある。
誰も知らない秘密の場所。それを初めて会った赤の他人に教えた理由を、私は知らない。
「ここは、どこ、」
「内地の住宅街。使われてない建物だけど、時計台の次に、この街で背の高い建物よ。」
それなりに距離があったし、今は決して涼しくはない。なのに長袖長ズボンの彼は汗一つ浮かべてはいなかった。
「この街で、一番美しい景色が見える場所。」
ほら、と海の方を指さす。
沈みかけの夕日が、揺れる水面に光を散らす。水路を行く舟がカンテラを提げ初め、街の中をするすると進んでいく。白いスーマランの建物が、黄昏に染め上げられる。水路の滝に作られる虹は一色になり、建物のそこかしこに鮮やかな光を与える。
この国でもっとも美しい自慢の街、スーマラン。
「ねえ、綺麗でしょ。」
「……ああ、綺麗だ。」
「自殺する気も、なくなるでしょ。」
「…………何の話?」
「え、」
煌々とした景色に目を向けて、口を閉じる。キョトンとした顔。どうやら私はとんでもない勘違いをして随分と彼を振り回したらしい。
「僕が、自殺しに来てると思ったの?」
「……違うならいいの。それと、もうすぐ本当の一番が来るから、海の方見てて。」
早とちりしたことを平然と突かれそうになり、黙らせる。
赤い黄昏の海は美しい。それに染まる街も。だが一番はまだ。きっと今日は気候からみても見えるだろう。
もっともスーマランが輝く一瞬が。
空の端が、紫に染まり始め、夕日が完全に海に飲み込まれそうになる、その瞬間。
水平線の向こう側がエメラルドに瞬いた。
「緑……!?」
「グリーンフラッシュ。日が昇る瞬間、日が落ちる瞬間、まれに見えるの。」
稀に起こるグリーンフラッシュ。国内でももっとも観測回数が高いことが、スーマランの自慢の一つだ。
海が、赤と黒と紫に染められ、街の陰影がくっきりと浮かぶ。そして地平線で緑が瞬く様に輝く。
闇飲まれる直前、それが最も美しい。
間もなく、緑の閃光は水平線の果てに消えていった。ただ網膜にその色を焼き付けて。
「街の色も、空の色も、海の色も、ここが一番よく見える。」
「そう……、」
「綺麗だったでしょ?」
「うん……、綺麗だ、すごく、」
黒い黒い海に姿を変えた地平線を見つめたまま、彼はただ微かに口を動かして答えた。
光の、暑さの残滓が、残っていた。
「あのさ、」
「うん、」
「……これは独り言。聞いてもいいし、嫌なら途中でどこかに行ってもいい。」
「そう、なあに。」
ぽつりと、小さく言葉を行き場がないように吐き出した。なんとなしに、それを私は丁寧に拾い上げた。
彼は相変わらず、海を見ていて、私を見てはいなかった。だから独り言なのだ。
「僕さ、軍人なんだ。小さなころから軍にいた。ずっと訓練を受けてた。」
「そう、」
すこしだけ驚く。この幼子のように警戒心の薄い彼が軍人であることに。細身で風に揺れる柳のような彼はお世辞にも軍人には見えないし、強そうにも見えない。
「ずっと戦うことしかしてこなかったし、それ以外のことがよくわからなかった。強すぎて、他の人は僕を怖がって近寄らなかった。……でも、先輩はずっと僕の側にいてくれた。どうしようもなかったし、何の可愛げもなかったのに。」
彼の話は酷く聞きづらかった。声は大きいとは言えず、言葉は散らかっている。でもそれだからこそ独り言だ。私はただ海に向かって放たれる言葉を、そばから眺める。
「優しい人だった。かっこいい人だった。強くて、正義の人だった。」
「うん、」
「でも、死んだ。」
黒い目から、ぼろり、涙が零れ落ちた。泣いているのに、それに気が付いていないように、口を開く。
「死んじゃった。強くて優しい正義の人だった。いや、強くて優しい、正義の人だから、死んじゃった。先輩は、中佐は死んだ。」
「…………、」
「死体もない。見つからなかった。でも、中佐を殺したっていう奴がいた。あの人は、ただ海に沈んでいったって。……死体もない、血痕もない。でも帰ってこない。」
「……うん、」
「あの人は、誰も知らない場所で、誰にも知られない海に、いるんだ。深くて、冷たくて、暗い所に、あの人は一人で、沈んでる。」
暗い暗い、彼の目にはきっと見えてた。暗い暗い海の底。『先輩』の見る世界が。海へと流れる川を見つめ、そうっと海の深くへと思いを流していた。
「あの人の代わりに、僕が死ねばよかった。僕よりずっと、あの人はみんなにとって大事な人だった。」
「…………、」
「でもさ、さっきの、すごかった。」
「……グリーンフラッシュ?」
「うん、グリーンフラッシュ。すごかった。海にない色だった。とても明るい、光だった。」
「そうね、」
「だからさ、きっと、深くて、冷たくて、暗い所にも、届いたよね。あの明かりを、あの人もきっと、見てたよね。」
初めて、彼は意思をもって私に語り掛けた。黒い目は暗くはなかった。街の光を拾い、拡散して、キラキラと反射させていた。
「たぶん。きっと見えてたよ。あれだけ眩しいんだから。きっと。」
そういうと、彼は初めて、慣れていないように顔を歪ませ、泣きながら笑った。
「そっかぁ……、」
「うん、きっとね。」
肌寒くなったのに、私はこの屋上から去る気にはなれなかった。
彼はただ静かに泣きながら海を見ていた。
「ねえ、僕が怖い?」
いつまでそうしていただろうか。時間の感覚がなくなっていて、彼がそんな風に私に尋ねたのは空の端がほのかに紫に染まり始めたころだった。
「どうして?」
「僕が、軍人って言ったとき、顔が違ったから。」
ヒタリ、冷えた手で顔を触ってみる。顔に出していないつもりだったが、出ていたかと恥ずかしくなる。
「怖いわけじゃないわ。ただ珍しいの。」
「珍しい?」
「そう。ここは自由都市。政府の介入も軍の介入もないわ。何かあればこの街の自警団の人たちが何とかしてくれるから、軍人さんなんて初めて見たの。」
「……そう、よかった。」
彼の表情筋はほとんど動かない。だが雰囲気が彼の感情を簡単に表した。今の彼は昨日のような迷子ではない。どちらかと言えば、懐きかけた猫に近い。
「ところで、あなたはどうしてスーマランに来たの?」
数回、彼が目を瞬かせる。それから、少しだけ目を細めた。もうその眼に涙はない。
「あの人が、」
件の先輩らしい。
「この街が好きだったんだ。」
「素晴らしい街だもの。」
「うん、本当に。あの人はよく聞かせてくれた。この街のことを。美しくて自由、二番目の故郷だって。」
街中に水路があって。舟に乗って移動をする。空気が澄んでいてしんとしてる。空が高く、海が深い。青と白の街。住民は皆親切で真摯。思い出を指折り数え遠くを見つめる。
「国で一番自由な場所。そして自由に対して責任を持っている場所。」
「……そう、」
自分ではなく、この街のことを褒められているだけなのに、嬉しくそしてこそばゆい。同時に、彼の先輩という人に会ってみたいと思わせられた。
自由とは奔放ではない。それを住民は皆知っている。自由の本質を知らなければ、人は永遠に自由にはなれないことも。
「……全部、あの人の言った通りだった。」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ。」
きっと、彼の先輩もこの街の「住人」だったのだろう。
日が昇り始め、空を、海を、街を覆っていた夜を取り払う。痛いほどの光を浴びながら彼は言う。
「本当はね、ここに来ればあの人に会えるかと思ったんだ。……誰にも知られず、生き残って、ひっそりここで生きてるかと、そう思ったんだ。」
だから、先輩の好きだったカフェ・モカも買ってみた、と紙袋に入ったままだったらしいカップをちゃぷんと揺らす。
「これがあれば、あの人は出てくると思った。でもあの人は現れなかった。だから、あの人はここにはいない。」
「まるでペットか何かのような扱いね。」
「うん、でもあの人は、甘いものに目がなかった。昔から、どこかへ遠征に行ってくると、僕にお土産と言って甘いものを買って帰ってきてた。僕は好きでもなかったのに。」
目を細めるのは、朝日が眩しいからだけじゃない。
「あなたは、思い出は拾い集めてるのね。」
「……ああ、そうかもしれない。あの人の好きだったものを集めて、そしたらあの人にまた会える気がして。……うん、でも会えないのが、わかった。」
すくりと立ち上がった彼は一晩で凝り固まった身体をぐいと伸ばした。背筋を伸ばすと、彼はやはり背が高い。
「あの人は死んだ。誰も知らない場所で、沈んでる。」
「……うん。」
「それであの人は、誰も知らない海のそこで今も、底に届く光を眺めながらゆっくりパンケーキを食べてる。海の底で、煙草をくゆらせて、のんびり。」
初めて、彼はただ悲嘆で固まっていた顔を自然に綻ばせた。
「それで、カフェ・モカを飲みながら、あの緑の閃光を待ってるんだよ。のんびり、甘いものを食べながら、あの人は今死んでる。」
そう穏やかに笑った。
『先輩』は彼の中に生きてなどいない。
いや、きっと誰の心の中にも、死者は生きていない。
『先輩』は彼の中で、この上なく穏やかに死んでいるのだ。
「……一晩中付き合わせてごめん。」
「別にいいわ。素敵な人の話を聞けたもの。」
緩やかに時間は速度を増す。静かな夜から急激に賑々しい昼間に姿を変えようとするのだ。
梯子を下り、階段を一つ一つ降りていく。
「ねえ、あなたから聞きたいことはないの?私は聞いてばかりだから。」
「……ああ、じゃあ。君の名前はなんていうの?」
思わずキョトンとした。よくよく考えれば、私も目の前の彼の名前を知らない。名前も知らない人と一晩過ごすなど、両親がいればきっと卒倒ものに違いない。
「そういえば言ってなかったわね。なんだか前から知り合いな気がしてたの。」
「そう。僕はなんだか固有名詞っていうものが必要じゃない気がしてたんだ。」
でも、折角なら聞いておきたい。わざわざ足を止め私の方を見る彼にたたらを踏む。なんだかこうも改まって自己紹介をするというのは、どうにもむず痒い。
「ネア。私はネアよ。このスーマランで生まれて育った。あなたがお昼に来たパン屋で働いてるの。」
「そう、ネア、ネア……、」
そしゃくするように何度か口の中で私の名前を転がす。
「僕の名前はヒセン。王国軍で働いてる、軍人。16歳」
「あら、私と同じ年だったのね。ヒセン。」
ヒセン、ヒセン、彼の真似をするように、口の中で呟く。珍しい名前だ。このあたりではきっと聞かない名前。
「ネア、ありがとう。君のおかげで、良いものが見れた。あの人の一端を見ることができた。」
「それについては何とも言えないわ。グリーンフラッシュは海と空が気まぐれに見せてくれるもの。それにあなたの『先輩』のかけらをあなたが見たのは、その人あなたに残したものがあったからよ。」
私はただ、自殺志願者と間違えて無理やり連れてきてしまったのだから。そういうと少しだけ苦笑いのように口を歪める。
「自殺しようとは思ってなかった。でもあの人のところへ行けたら、とは思ってた。」
「ヒセンはその人のことを愛してたのね。」
「うん。あの人が僕を愛してくれたから。あの人が僕の帰る場所だったから。」
階段を下りる彼は、もうこの街に来たばかりの陰鬱な表情を完全にしまい込んでいた。
港の方から、汽笛の音が聞こえた。時間に追われるように、皆動き始める。鮮やかに空の色を映す海は、燦々と降り注ぐ日を深くまで飲み込んでいた。
「……いつ、ここから帰るの?」
「今日中には。本当は仕事が立て込んでるんだ。でも、僕が使い物にならなくなってたから、休暇を少しもらったんだ。」
「そう。じゃあしばらくお別れね。」
「……しばらく?」
「ええ、しばらくよ。」
ぽやぽやした雰囲気に戸惑いを滲ませるヒセンに笑う。
「あら、折角友達になれたのにもう来ないつもりだったの?」
「……君は良かったの。いきなり初対面でこんな重い話する奴に会って。」
「良かったわ。あなたの大切な話をしてくれたんだもの。」
少し困ったように目を泳がせる。本当にもう二度とこないつもりだったのだろうか。だが今ある戸惑いは煩わしさやそれに準じるものじゃない。
「……僕はここに帰ってきても良いの?」
「……ええ、もちろん。あなたはここにいつでも帰ってきていいわ。ここは自由都市、スーマラン。だれもあなたに何かを強要することはない。誰もが自由で、誰もが帰ってくることができる。誰の故郷にだって成り得るわ。」
一つ一つ、丁寧に言葉を拾う。そうすれば何を言いたいのか、何を望んでいるのか、わかるから。
なんとなく、彼を愛した『先輩』もまた、彼の言葉を拾い上げてくれる人だったのだろう、そう思った。
ヒセンは顔をゆがめ微笑んだ。
「ネア、」
「なあに。」
「僕はまた、帰ってくる、ここへ。いつ帰ってこられるかは、わからない。遠くへ行くことが多いから。」
「軍人さんは大変ね。」
「そうかもしれない。でもネア、もしよければ、僕が帰ってくるのを、ここで待ってくれないか?」
そう微かに不安を滲ませて下手くそな笑みを浮かべるヒセンに、私は満面の笑みを返した。
「いつでも待ってるわ。ここはあなたの故郷スーマラン。私はあなたが帰ってきたら、おかえりと言うわ。」
国で一番美しい、水の自由都市スーマラン。
美しく気高い自由都市は、自由を望む者を、だれでも必ず受け入れる。
私には一人、不思議で大切な友達がいる。
私には到底想像も及ばない過去を持って、公に命を捧げる仕事してる友達。
そうそう詳しいことを話してくれない彼だが、たまにぽろりぽろりと隠し事を零しては、幼子が必死に弁明するように、懺悔に似た告白をする。
彼は今だに、それが私にとってさして重要でないことに気が付いていないのだが、そういうときの彼は初めて会った時の彼によく似ていて、嫌じゃないから特に何も言わない。
私と同じようにこの街を愛し、ここを帰る場所としてくれる、大切で愛しい人。
「ネア、」
「おかえり、ヒセン。」
「ああ、ただいま。」
あまり上達しない、下手な笑顔で、彼は今日も私の元に帰ってくる。




