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洋菓子店の経営事情(2-2・後)

 人に見られながらお菓子を作るのは何年振りだろう。


「……わくわく、わくわく」


 いや違う。日本に来てから、何度か結城さんに指導のようなことをしたのだった。

 まったく、こんな落ちぶれたパティシエもどきに指導者役なんて、よくもそんな恐ろしいことが出来たものだ。


「……わくわく、わくわく」


 作るのはケーキ。生地は冷蔵庫にいくらか保管してあるから、今から作るのは生クリームだけだ。

 相変わらず右腕はビリビリと痺れているものの、少し休んだ甲斐あってか感覚が無いというほどではない。


「……わくわく、わくわく」

「おいチビうっさい」

「何も言ってないじゃないですかー!」

「なにそれマジで言ってんの?」

「どういう意味ですか?」

「……真帆、わくわくって、声に出てましたよ」

「はぅ!?」


 楽しそうな声が、横から聞こえてくる。

 こっそり声の方に目を向けると、顔を真っ赤にして両手で口を隠した結城さんが華に頭を撫でられていた。


「……うぅぅ、店長さん。もしかして、私、いつも、声出てました?」

「……いえ、出ていなかったと思います」


 集中しなければと思いながらも、反射的に返事をしていた。

 声ということなら、結城さんの場合は黙っている時間の方が短かったような……いけない、集中しないと。


「あの、てんてんはいつも結城さんと一緒にお菓子を作っていらっしゃるのでしょうか?」

「……いえ、週に一度くらい――」

「週一っ!? 週一ですって!?」


 いけない、何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。


「ちょいちょい、さっきから騒ぎ過ぎだし。ほら、こいつも困った顔してんじゃん」


 矢野さんが髪をくるくるしながら溜息まじりに言うと、二人は素直に謝罪した。

 なんだか調子が狂うなと思いながら、なんとなく自分も軽く頭を下げる。


「……でさ、ケーキ作るのって難しいの?」

「みく、ケーキは、難しい、よ?」


 矢野さんの問いに、キッカさんが鋭く返事をした。

 呼び方が変わっている事も気になったが、それ以上に、なんだか懐かしい響きがあった。

 そこで、ようやく思い出した。

 ……あの頃も、確か、こんな感じだった。


「どれくらい難しいの?」

「数年は、練習しないと、だよ?」

「マジ? そんなに?」


 こんな風に、アリスの疑問にキッカが答えて、


「確かに、商品として通用するレベルで考えるのなら、相応の練習時間が必要なのでしょうね」

「うん、いっぱい練習しないと、だよ?」


 こんな風に、ダニエルが言葉を添えて、


「いやでも、みく天才だから」

「甘いですよ矢野さん。ケーキ作りは奥が深いんですから!」

「いやお前が言うなし」

「これでも三ヶ月くらいは頑張ってますからっ。ふふん」

「うっざ。なにその顔うっざ」


 こんな風にアリスと……彼が、騒いでいた。

 ふと、あの頃の様子が見えたような気がして、瞬きを繰り返した。


「……てんちょ、大丈夫、かな?」


 何のことだろうと、キッカさんの方を見た。

 彼女の目を追って、自分の手を見る。

 気付かないうちに、動きを止めてしまっていた。


「すみませんっ。続けます」


 慌てて手を動かして、少し違和感を覚えた。

 驚く程、軽かったような気がする。


「ごめんなさいっ、うるさかったですか?」 

「……いえ、そんなことは」

「真帆、少し静かに見守りましょう」

「……はい。ごめんなさい」


 なんというか、やはり彼女達を見ていると和やかな気持ちになる。

 さておき、生クリームだ。

 待ってくれている人が居るのだから、早く作らなくては……。


 作業を途中で止めてしまったせいか、色が少しおかしい。

 といっても、きっと一部の職人にしか分からない微妙な違いだ。

 だが数年以上は生クリームを作り続けている職人ならば、この微かな違いが味に大きな影響を及ぼすことを知っている。そして、これを矯正する方法を自分は知っていたはずだ。

 

 ……声、そうだ、声を聞くんだ。


 声というのは、本当に聞こえてくるわけじゃない。

 色や手に伝わる抵抗、そして感覚。

 そういった多くの要素が、最も美味しい瞬間を教えてくれる。


 ……もうずっと聞こえていない。だけど――


 ふと、集中している自分に気が付いた。

 体が軽い。まるで宇宙にいるような気分だ。

 重力を感じない。

 全神経が、目の前のお菓子に集中している。

 そんな感覚が続いていた。


「…………あの、完成、ですか?」


 ……。


「……あの、店長さん?」


 ……。


「……出来た」

「え?」


 この感触、覚えている。

 これは、美味しい。間違いない。


 生クリームを指ですくって、口に入れる。

 

 ……美味しい。


「え、なに? どうしたのこいつ」


 もう一度。


 …………美味しい。


「て、店長さん。どこか痛いんですか?」


 もう一度、もう一度、もう一度……美味しい。美味しい。美味しい。


 不意に肩を掴まれて、振り向くとキッカさんが此方を見ていた。

 どうしてか、その顔が酷く歪んで見える。

 手の甲で目を擦ると、何か液体の様なものに触れた。

 ……これは、なんだろう。


「これ、食べても、いい、かな?」

「……ええ、どうぞ」


 おかしい、声が震えていた。

 

 戸惑う自分の前で、キッカさんがボウルの中にある生クリームを指ですくって、口に入れた。


「…………」


 その反応が、とても気になった。

 キッカさんは長い間、口に指を入れたまま目を閉じていた。

 やがてゆっくり口から指を出し、目を開ける。

 その目は、どこか安心したような色をしていた。


「みんなも、食べて、ね?」


 キッカさんに促され、三人が同時に生クリームを指ですくう。

 そして、口に入れた。


 息を止めて、その反応を待つ。


 まず結城さんが大きく目を広げた。

 それから嬉しそうに左右の二人を見る。

 矢野さんは口に指を入れたまま固まっていて、華は何故か恍惚とした表情で指をくわえたままの口を忙しなく動かしていた。


「だから言ったじゃないですか。出来立ての店長さんケーキは世界一なんです!」


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