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洋菓子店の経営事情(2-0・前)

 夢を見ていた。

 飛び起きて、むせるほどに息を吐き出した。

 呼吸が安定する頃には、どんな夢か忘れていた。

 

 のそのそとバスルームへ向かい、シャワーで体中の汗を流す。

 べとべとした不快感は直ぐに消えても、もっと深く密にへばりついた不安は、どうしても消えない。

 肩に当てたシャワーで首から下を温めていると、冷えたままの頭がより冷たくなっていくような気がした。

 口を開いて、何かを言いかけながら首を振る。 


 そして、彼女は――




 彼は思い出していた。

 一日前、一年前、もっと昔のこと。

 不思議なことに、どの記憶も鮮やかだった。

 だって覚えているのだ。

 思い出すまでもなく、全て。

 一時だって忘れたことは無い。

 ただ逃げていただけなのだ。どうしようも無いくらいに自覚している。

 

 さて、そんな人間が他人に向かって「逃げるな」と大声を出した事があるらしい。

 それも、つい最近。

 まったくどの口が、と思うとその口がガタガタ震えるから滑稽だ。

 

 ……一人じゃない。

 

 華の言った言葉が、どうしてか耳から離れない。

 支えさせてくれという言葉が、何度も頭の中で再生される。


 ……それはダメだ。


 自分のせいで、彼女はいったいどれだけ傷付いた?

 その温かくて優しい存在に、いったいどれだけ甘えてきた?

 

 もう誰かに頼るわけにはいかない。

 自分の足で立たなくてはいけない。

 

 そうやって奮い立とうとする度に、手足がガタガタと震え始める。

 だけどギュッと両手を握りしめた時、自分とは違う温かい何かが手を重ねてくれる。

 ただの錯覚なのだけど、これが一人じゃないということなのだと思う。

 

 あなたは一人じゃない。

 それはただの言葉だ。

 言われるまでもなく、分かっていた。

 だけど意識した途端に、分かっていなかったと分からされた。

 人は、自分の意思で誰かに頼るまで、ずっと一人なのだ。


「……キッカさん」


 呟いたのは、ずっと自分を支えてくれていた人物の名前だ。


 では、彼女はどうなのだろう。

 一人ではなかったのだろうか。


 ゆっくりと首を振る。

 まずは、目の前のことだ。

 今も昔も、自分に出来る事はひとつしかない。


「……」


 もう一人ではないと自覚したからこそ、誰かに頼るわけにはいかない。

 これまで迷惑をかけた分、その思いに応えなくてはならない。


 無言のまま、目の前にかざした手を見つめる。

 いつかよりもずっと大きくて、だけど小さな手は、小刻みに震えていた。

 大きく息を吸って、静かに飲み込む。


「……あとケーキが美味しい」


 それがアンケートによる評価。

 あの店を開いてから今日に至るまで、この評価が変わった事は無い。

 ダメだ。それじゃ話にならない。あんなケーキでは、味ですらダニーに劣ってしまう。

 時計を見ると、短い針は六を少し過ぎたところにあった。

 今日は月曜日で、店は休みだ。

 勝負を挑まれた当日、臨時で店を閉めておいて、さらに定休日も守るなんておかしな話だが、丁度いい。


 リハビリが必要だ。


 最低限の身だしなみを整えた後、店の鍵を持って外へ向かう。

 何を作ろうか。まずは一品でもインパクトのあるものを作ろう。具体的には? いや考えるだけ無駄だ。武器なんてひとつしか持っていないのだから。


 玄関でボロボロの靴に足を突っ込んで、扉の二重ロックを外す。

 ドアは引き戸で、開くにつれて暗い部屋に光が差し込むのが分かる。

 もう日は登っているらしい。

 ただドアを開くだけで、こんな事を考えてしまうのだから笑える。

 どうやら、外に出るのが怖いらしい。


 ふと、自分を客観的に見るようになったのはいつからだろうと考えた。

 フランスで職人学校に入るまで、いや入ってからも暫くはお菓子の事しか考えていなかった。

 それは一筋だとか、そういうかっこいい理由じゃなくて、他に考える事が無かったからだ。

 他人と関わる事で、良くも悪くも他の事を考えるようになった。

 いつしかそれが当たり前になって、いつしかそれが枷となった。

 この手が作り出すお菓子には、意味がある。

 大切な人の思いに応えるという義務がある。

 お金を払って食べてくれた人への責任がある。

 きっとそういう理由で、外へ出るのが怖い。


 そんな後ろ向きな自分を後押しするように、差し込んでいた光に影が差した。

 丁度いい。これくらいの光が、今の自分には合っている。

 短い間だけ目を閉じて、扉を完全に開いた。


「……」

「……」


 鏡があったら、きっと間抜けな顔をした男が見えたと思う。


「……おはよう、ございます」


 どうして、そう問う前に、とりあえず挨拶をした。

 すると口を一の字にした彼女は、何かを考えるような間を開けてから、


「……」

 

 ゆっくりと此方を見上げた。

 こうして見ると、思っていたよりも身長差があることに気付く。

 場違いな感想はさておき、困った。

 なぜ彼女はここに居るのだろう。

 それを問うべきか、それよりも何か言いたそうな雰囲気を察して言葉を待つべきか。


「……どっか行くの?」


 不意打ちだった。

 

「……いえ、その、お店に」


 だからたどたどしく返事をすると、彼女は表情を変えずに続ける。


「何しに?」

「……お菓子を作りに」

「何で?」


 なぜ、そう問われると困ってしまう。

 なぜ自分はお菓子を作るのだろう。

 いやいやそんな哲学的な問題ではなくて、思いに応える為という結論を、ほんの数刻前に出したばかりではないか。

 だからお菓子を作りに行くのだ。

 強い思いに応え得る、最高のお菓子を作る為に、鈍った腕を鍛え直す為に、リハビリに行くのだ。


 ……本当に、そんな理由なのだろうか。


 うだうだと考えている間、矢野さんはじっと此方の目を見つめていた。

 待ってくれている。

 ならこれも、同じだ。

 彼女の期待に応えなくてはならない。

 それなら簡単だ。


「……昨日の彼は、古い友人で、ダニエルといいます」


 続けろと、彼女の雰囲気が告げる。


「……そして彼は、勝負しろと、そう言いました」


 だから、


「彼に勝つ為に、お菓子を作ります」


 少し間があって、


「……ふーん。そっか」


 この時、彼女は何を考えていたのだろう。

 嘘がバレタだろうか?

 いや違う。半分くらいは、本音だ。

 なにはともあれ、彼女の返事はこうだった。


「……分かった」


 ただ一言。

 彼女は目を逸らして、何処かへ向かって歩き出した。


 何だったのだろう。

 その背中が見えなくなった後も暫く考えて、今度は眩しい日光に不意打ちを受ける。

 ギュッと閉じた目を開いた後、力いっぱい右手を握りしめる。


 それからやっと、歩き始めた。

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