洋菓子店の経営事情(6)
少しだけ大人びて見えた。
外見では無くて、雰囲気。
ダニーと目を合わせていられたのは、どれくらいだっただろう。
きっと五秒にも満たなかったと思う。
すぐに頭が真っ白になって、俯いた。
思考も、時間すらも止まってしまった感覚の中で、ただぼんやりとダニーの言葉を聞いていた。
ただ違和感だけがあった。
彼は命と同じくらい大切な右腕を奪った男のことを、もっとずっと恨んでいると思っていた。
しかし彼は、もう一方の腕で道具を器用に操り「勝負だ」と力強く言った。
――強い衝撃を受けた。
彼はずっと努力していたのだ。
此方が消えたいと願っている間も、ひたすらに努力していたのだ。
――同時に、思い知らされた。
パティシエに対する思いが、まるで違うと。
ならば、こんな男に、彼と同じ目線でお菓子を作る権利など何処にあるのかと。
鈴の音が止んだ後、どっと汗が噴き出した。
頭がグラグラして、まるで向かい合う鏡に挟まれたかのように、世界が歪む。
「で、どっちが話してくれんの?」
その普段よりも少しだけ重くて暗い声について考えようとして、プツリと、機械の電源が落ちたかのように、全てが黒く塗りつぶされた。
「……ここは?」
気が付くと、見覚えのない場所に居た。
どうやら立っているらしい。
白くて、白い。
どうやら霧に包まれているらしい。
「がっかりだよ」
驚きと共に振り返る。
地面と脚が強く接触したことで、妙に透き通った音が響いた。
確実に振り返ったはずなのに、視界はまるで変わらない。
白、白、白。
「……何をしているんだ?」
もう一度、振り返る。
だけどやっぱり、白、白、白。
「……本当にがっかりだよ」
また後ろから、声が聞こえてきた。
今度は振り返らない。
ただ戸惑いながら、荒い呼吸を繰り返した。
「俺の右腕を奪ったお前が、どうして何もしない」
後ろ、右、いや左、それとも全部?
まるで自分を取り囲む箱の中で乱反射しているかのような声が、全く遠慮なしに体を揺らす。
「方法はいくらでもあったはずだ」
たまらず、耳を塞いだ。
「お前が世界一の職人になれば、俺の評価も多少は上がっただろう」
強く、頭が潰れるくらい強く。
それでも、声は消えない。
「あのケーキは何だ? あんなもの、機械が作った失敗作にも劣る」
「……やめ、て、ください」
「あの約束は嘘だったのか?」
「……やめてください」
「なぁ、本当に何をしていたんだ?」
「…………」
「何のために、生きているんだ?」
「――っ!」
バクバクと、心臓が胸を叩いている。
その鼓動に負けないくらい荒い息が、少しずつ落ち着いて、やがて正常になった。
そこでようやく、夢を見ていたと気付く。
「……落ち着きましたか?」
華。
「突然倒れられたので、とても驚きました」
ぼんやりと、周囲を確認する。
「お店の事務室です。椅子を使って簡単なベッドを作りました。寝心地が悪くて申し訳ありません……」
「……いえ」
そこでようやく、自分の身体が横たわっている事に気が付いた。
背中には硬いもの、おそらく椅子が。
だが頭には何か柔らかいもの……。
「……すみません。ご迷惑をおかけしました」
慌てて起き上がって、背中を向けたまま謝罪する。
「迷惑だなんて……おかげで今日も可愛らしい真帆が見られたので、むしろプラスです」
明るく弾むような声で、彼女は続ける。
「真帆ったら本当に面白いの。お客様にも好評で、一週間の疲れが吹っ飛ぶのだとか」
それは何気ない日常の、意味の無い話。
「私の、高校での友人にも是非紹介したいと思っています。そうだ、今度お店で小さなパーティのような催しをしてもよろしいでしょうか? てんてんもご一緒に」
まるで頭に入ってこない。
彼女の笑顔が、いや五感が捉える全てが、何処か空々しく感じられる。
「……あの、華」
「そういえばっ、てんてんは随分とお疲れのようです。まだ寝ていてもいいのですよ?」
言葉を遮るようにして、華は早口で言った。
「さっ、此方に。どうぞっ!」
ぽんと膝を叩いて、笑う。
返事をしないで居ると、彼女は無言の時間を埋めるようにして次の言葉を口にした。
それが痛々しくて、申し訳なくて、だから自分は少しだけ大きな声を出した。
「もう大丈夫なので、華は帰ってください」
急な静寂の中、時計の針が静かに時を刻む。
見ると、短い針はとっくに閉店時間を過ぎていた。
「……遅い時間なので、送ります。今日は、ありがとうございました」
立ち上がって、振り返らずに扉まで歩く。
取っ手に手をかけて少しだけ立ち止まるけれど、華が動く気配はなかった。
「……いえ、帰りません」
振り返ると、なぜか彼女は泣いていた。
「…………」
驚いて、息が止まった。
口は動くけど、声は出てこない。
「ごめんなさい。眠くて……ふぁぁ……」
子供が誤魔化すように、彼女は大袈裟に欠伸をする。
「……申し訳ありません」
「はい? てんてんが気に病むことなんてありませんよ?」
痛いくらいに優しく、彼女は微笑む。
これ以上、自分に言える言葉なんてなかった。
カチカチと、やけに耳障りな音だけが響く。
「……座って頂けませんか?」
「いえ、問題ありません」
「ダメです。てんてんは疲れているのだから、きちんと休んでください」
「……いえ」
「ダメです」
仕方なく、彼女から最も離れた位置に座って、背を向ける。
ベッド代わりに並べられた椅子は、ちょうど自分が横たわっても足が出ない程度の長さがある。
きっと店の椅子まで運んだのだろう。
彼女との間には、大人一人分くらいの距離がある。
たった二メートルにも満たない距離が、どうしてか遥か遠くに感じられた。
「……横になってはどうですか?」
その距離を詰めろと言っているように聞こえた。
「……いえ、自分は、何も問題ありません」
「いいえ、てんてんは疲れています。ずっと一人で頑張っていたのだから」
「……自分は、お菓子を作っていただけで、何もしていません。むしろ、皆さんの方が――」
トンと、背中に何かが触れた。
だいぶ遅れて、それが柔らかい手の感触だと気付く。
「……いいえ、てんてんは疲れています」
あれだけ遠くに感じた気配が、一瞬で直ぐ近くにあった。
「……だから、少し休んでください」
その声は、震えていた。
だけど、いやだからこそ、何処か現実感が無くて、ふとこれも夢なのではないかと思えてしまう。
「……申し訳ありません」
「……まったく、どうして、謝るんですか?」
理由は分からないけど、
「貴女を泣かせてしまったから」
情けない謝罪に、だけど彼女は笑わない。
むしろこれまでよりも強く、身を震わせた。
「……謝らないで、謝るのは……私の方ですっ」
彼女の言葉に、ただ困惑する。
涙の原因は明らかなのに、理由がどうしても分からない。
どうして、どうして彼女は自分なんかの為に泣いてくれるのだろう。
「……てんてんっ、とても苦しそうでした。それはきっと、あの日から……なのに、私を支えてくれて、それなのに……私は……何も……」
ああ、そういうことか。
「……自分は、何もしていません」
「そんなことありません」
「……いいえ、自分は何もしていません。ただ無責任な言葉を言っただけで、ただ、貴女が頑張っただけだ」
「そんなことありません」
「……本当に、自分は、情けないくらい何もしていない」
「違います! 貴方が居たからっ、私はっ……」
違うと、彼女は何度も否定する。
その言葉を言わせる度に、まるで彼女の優しさに甘えているような気分になって、やるせない。
「……少し、休みましょう」
だけど彼女は、どこまでも優しい。
「もしも過去に戻れたら、何がしたいですか?」
唐突な問いに、だけど何処か引っかかる。
「私は、考えるだけ無駄だと思います。だって、過去には戻れないから」
いつか、どこかで聞いたことがあるような、そんな気がしてしまう。
「だから、頑張るしかないと思います。ひとつひとつ乗り越えるしか、ないと思います」
「……っ」
そうだ、これは、自分の言葉だ。
まだ日本に来たばかりの頃、星を見ていた夜のこと。
自分は、生意気にもこんなことを言った。
……そうだ、あの時は、そう思っていたんだ。
「思い出しましたか?」
貴女ならきっと大丈夫、そんなことを言った。
本気で思っていたわけではない。
だけど、全て嘘だったわけでもない。
あの日、自分には彼女の姿が少しだけ眩しく見えたのだ。
とにかく前に進む。聞こえの良い言葉は、思考を止める愚か者が作り出した免罪符だ。
自分は考える事を止めて、ただひたすらにお菓子を作っていた。
ダニーとの約束を果たす為、日本一の店を作ろうと思っていた。
……少しも、本気じゃなかった。
ダニーの為にも店を潰すわけにはいかない。
だけどダニーの夢を奪った自分が、パティシエを続けてもいいのだろうか。
そうして、前を向いたまま動けなくなった。
「……はい。とても、無責任な言葉でした」
「その通りです。頑張るのって、とっても辛いんですよ?」
何も言い返せない。
「だけど、てんてんはちゃんと責任を取ってくれました」
「……いえ、自分は」
「てんてんは、ちゃんと最後まで私を支えてくれました」
「……自分は、何も」
「一人と二人って、全然違うんですよ? そこに私のことを考えてくれている人がいるって、そう思えるだけで、とっても体が軽くなるんです」
背に触れる柔らかい感触の上に、コンと、小さな衝撃があった。
「……だから、少し休んでください。いえ、休まなくてもいい。でも、一人で頑張るのは、もう止めてください」
とても小さくて、温かい力が、背中を押す。
「私に、背中を預けてください」
その温もりから、優しさから、逃れる術なんてあるわけがない。
「……聞いて、頂けますか?」
「もちろんです」
ぽつりぽつりと、口を動かした。
とても、とても長い話をした。
ずっと振り返らなかった過去は、想像よりもずっと鮮やかで、眩しくて、だけど明るく語る事なんて、出来るわけが無かった。
「……自分は、どうすればいいのか、分からない。何をすればいいのか、何が出来るのか、分からない。それは今も、彼に勝負を挑まれた今も、変わりません……。こんな、こんな……彼と同じ場所に立つ資格が、こんな人間に……あるわけがない」
だけど、
「ここは、スタリナは、大切な場所だ。皆さんのおかげで、今日がある。その証なんだ」
みんなの……キッカさんの……キッカが、俺の為に作ってくれた店なんだ。
その店で彼女達と出会って、少なからぬ勇気をもらった。
迷惑をかけてばかりだけど、もうとっくに、自分のわがままで失えるものなんかじゃない。
なにより、まだ、何も返せていない。
「……どうしたらいい。どうしたらいいと、思いますか?」
縋るような思いで、小さな声を絞り出した。
すると彼女は、力強く自分の背を押す。
その反作用で、彼女は見事に転倒した。
「……大丈夫、でしょうか?」
「あいたた……もう、空気を読んでください!」
「……すみません」
「まったく……せっかくかっこよかったのに、台無しですわ」
溜息を吐いて、ピっと、人差し指を此方に向けて伸ばす。
「頑張るしか、ないと思います!」
予想外の一言に、思わず言葉を失う。
だけど時間が経つにつれて、どうしてか笑いを堪えられなくなった。
「……ええ、その通りだ」
「……」
「……どうしました?」
「……いえ、てんてんの笑っているところ、初めて見ました」
「……そう、でしたか?」
コクリと頷く。
「……そうですか、なら、てんてんは頑張ると決めたのですね」
凛とした目が、逃げる事を許さない。
手を強く握り締めると、震えていることが分かった。
そのうえで、彼女の目をきちんと見て言う。
「……はい」
ただ一言、肯定しただけ。
しかし彼女は満足気な笑顔を浮かべる。
「そうですか。なら、私は貴方を応援します」
それはやはり、何処か聞き覚えのある言葉だった。
「貴方ならきっと、大丈夫です」
数時間前。
結城真帆は、悩んでいた。
とりあえず直前の出来事は忘れよう。
今は目の前の問題だ。
目の前に、店長さんの作ったケーキがある。
華さんとキッカさんが店長さんを事務室へ運んで、矢野さんは暫く椅子に座っていたと思ったら、気付いたらいなくなっていた。
――そうです私は、もう二時間くらい悩んでいます。
あの外国人の方が残したケーキの処分で、ずっと悩んでいます。
「……どう、しよう」
今まで食べ残りが出た事なんてありませんでした。
だからケーキを処分するなんてお仕事は初めてです。
「……もったいないよぉ……」
捨てるなんて出来ない!
でも食べるのも……いやいや、あの人はスプーンで一口食べただけだし、口を付けた後のスプーンはケーキに触れていないから、だからこのケーキはちょっとスプーンが刺さっちゃっただけの普通のケーキなわけで、でも処分しろと言われたものを食べるのは……あわわわわわ。
「み、右手が、かってに……」
ついに、新しいスプーンを握りしめた手が、ケーキに向かい始めました。
「これは、仕方ない、仕方ないんですっ!」
誰に言い訳をしているのだろう。
「えいっ!」
ああ、ついに食べてしまいました。
だって、店長さんのケーキ。
捨てるなんて、出来るわけ……。
「……あれ?」
なんだか、おかしい。
どうして? ずっと外に放置していたから?
やっぱり出来立てとは違うから?
「……美味しくない」
これはちょっと言い過ぎかもしれません。
ケーキは、普通に美味しいです。
でも、私の知っているケーキはもっと美味しい。
……他のケーキは、どうなんだろう。
「……いけないことだけど、でもっ!」
こっそりと、別のケーキにスプーンをさす。
そして、さっと口に運んだ。
「……なんで?」
やっぱり、美味しくない。
……そういえば、売り物のケーキを食べるのは始めてかも。
こんなに味が変わっちゃうの?
なんで?
うんうん悩んで、悩んで、とりあえず、悩むのを止める。
悩む前に、考える事があります。
「……ど、どうやって謝ろう」