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洋菓子店の経営事情(5)

 順調だった。

 全て上手くいっていた。


 あんなの事故だ。避けることの出来ない天災だ。

 なのに、それは彼の心に大きな傷を残した。


――本当に避けられなかったのか。


 彼は頷けなかった。

 もしも自分が道具を片付けていたら。

 僅かな可能性が、彼をさいなんだ。


 ……その通りかもしれない。

 だけど、その後悔を彼に強いる権利は誰にも無いはずだ。

 

 ダニエルさんの気持ちも少しは分かる。

 でも、あの時たった一言「おまえのせいじゃない」と言ってくれれば、きっと違う今があった。

 なのに、彼は拒絶を選んだ。

 そのせいで、彼はとても傷付いた!

 その傷が、やっと、あと一息だったのに……なんで、どうして、どうしてこんなタイミングで?


 スタリナというのは、イタリア語で「とても美味しい」という意味の言葉を日本風にカタカナ四文字にしたものだ。

 ゼアレクという言葉も、おそらく。

 それは明らかに、私達を意識している。

 いったい何の目的で?

 約束ってなに? どうしていまさら?

 ……分からない。考えれば考えるほど分からない。


 どうして。その疑問、心からの叫び声に答えるようにして、彼は再び現れた。

 不幸な事に、現れたのは一人ではなかった。


「……久しぶりだな」


 入り口から店の奥を見るダニエルさんの視線を、私は目で追うことは出来なかった。


「…………なぜ、ここに」


 日本に来てから初めて、彼の英語を聞いた。

 ダニエルさんは変わらぬ不適な笑みを浮かべ、軽く両手を広げた。


「ナーダ、お前に会いに来たんだ」


 そして嬉しそうに、力強い英語で答えた。

 私は何か言おうとして、だけど口を動かすことは出来なかった。

 ただひたすらに、祈った。

 全てが杞憂だと。ダニエルさんが、彼に何か悪影響を及ぼすことはないと、祈る事しか出来なかった。


 茫然とする私の後ろで、バイトの三人がこそこそと何かを言っている。

 ふと店の外に目を向けると、そこにはいつも通りの風景があった。

 そんな日常の中にあって、まるで自分の周りだけ切り離されてしまったかの様な感覚に襲われる。

 

「お前が日本で店を開いたと聞いた時、正直焦ったよ。だが、フタを開けたらこのざまか」


 その言い方に、私はゾクリとしたものを感じた。

 それはおそらく、彼も同じだ。

 冷え切った視線を受けて、彼はただ俯いている。

 ダニエルさんは、その姿を無言のまま見続けて、やがてつまらなそうに息を吐いた。


「がっかりだよ」


 その氷柱の様に鋭く冷たい言葉が、グサリと突き刺さるのが分かった。

 ……やっぱり、見てるだけなんて、そんなの出来ない。


「……」


 私は立ち上がってダニエルさんに文句を言おうとして、しかし膝を伸ばす前に動きを止めた。

 彼の前に、小さな女の子が居た。

 それだけじゃない。彼女に続くようにして、他の二人も彼の前に出た。


「……店長さんを悪く言わないでください」


 小さな声に、ダニエルさんは首を傾けた。

 その直後、丸井さんが結城さんの言葉を英語に翻訳して話す。

 するとダニエルさんは呆れたような顔を彼に向けた。


「これはなんだ」

「貴方と彼の関係は知りません。けど、目の前で彼が傷付くのを見過ごす事なんて出来ません」


 ダニエルさんの言葉を遮るようにして、丸井さんが流暢な英語で言った。


「……おまえは何も言わないのか」


 それは誰に向けられた言葉だったのだろう。

 私か、彼か、それとも両方か。

 とにかく、その言葉に返事は無かった。

 すると、ダニエルさんはいっそつまらなそうな顔をする。


「ケーキをひとつ。いくらだ?」


 千円札を一枚ポケットから取り出し、丸井さんに差し出した。

 その意図が分からない様子で、彼女は少しだけ目を細める。


「せ、千円で買収しようだなんて!」

「真帆、違います。少し静かに」


 冷静に指摘されて、結城さんがしょんぼりと肩を落とした。

 その後ろで、矢野さんが「はぁ」と息を吐く。彼女はつかつかとダニエルさんに近寄り、彼の手から千円札を奪い取ると、レジに向かった。

 手慣れた様子でレジを操作した後、ショーケースから一切れのショートケーキを取り出し、専用の皿に乗せて、お釣りと一緒にダニエルさんに差し出した。


「……」


 彼は暫く無言でケーキを見た後、横に添えられていたスプーンでケーキの先端を少し取って口に運んだ。

 目を閉じて、咀嚼する。

 その姿を私は、きっと彼も緊張しながら見守っていた。

 やがて彼はスプーンを皿に置いて、いくつかの小銭おつりを手に取った。


「……このケーキが二百五十円か」


 その瞬間に、得体の知れない感覚が私を襲う。

 それはきっと、彼の言わんとする事が予測できたからだ。


「八年……いや九年前か。あの頃、お前が無料で配っていたお菓子の方が遥かに美味しい」


 疲れ切った老人の様に、彼は小さな声で言った。


「……あの、なんて言ってるんですか?」

「……九年前、おまえ、美味しい……? ごめんなさい。ドイツ語はまだ勉強不足でして……」

「……今のドイツ語だったんだ」


 明らかに重々しい空気の中にあって、どうしてか結城さんの周囲だけはほんわかしている。

 そのせいで私の中にある緊張感の様なものが相殺されて、ぽっかりと穴が開いたような感覚が残る。

 とても現実感が無い。ようは、頭が上手く働かない。


「お前は今まで何をしていたんだ」


 そんな私の首筋に鋭利な刃物を突き立てるかのような声だった。

 ダニエルさんは一歩二歩と彼に近寄り、怒りと、どこか悲しみの混じった表情で彼を見た。


「……俺は右腕を奪われた後、死ぬ思いで努力した。そして――」


 左手に持っていたガラス棒を起用に回転させ、彼に突き付ける。


「短期間で、ここまで来た」


 力強い言葉からは相応の思いが伝わってくる。


「勝負だ、ナーダ。お前が参加している祭りに俺も参加した」


 詳しい事は分からない。

 ただ、彼に何かを求めているようだった。


「…………」


 だがそれは彼にも分からないようで、俯いたまま何も語らない。

 いや、何も言えなかったのかもしれない。

 そのうちダニエルさんは彼に向けていたガラス棒を力無く下げ、長く静かな息を吐いた。


「…………これ以上、がっかりさせないでくれよ」


 呟いて、振り返る。

 そのまま立ち止まらず、店を後にした。


「……なんだったんでしょう?」


 相変わらず緊張感の無い声で、結城さんが首を傾ける。

 その横で丸井さんは難しい表情をする。

 ダニエルさんが去った後の出入口を睨み付けていた矢野さんは、手に持っていた皿を適当な机に置きながら、ゆっくりと振り返った。

 俯いたままの彼を見て、きっと何かを思いながら私を一瞥して、コンと地面を鳴らす。


「で、どっちが話してくれんの?」


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