洋菓子店の経営事情(2)
高校最後の夏休みが始まりました。
思えば浮き沈みの激しい三年間でしたが、終わり良ければ総て良し。
楽しいと思えることが全部最後に回って来たのかなと思います。
これもてんてんの、いえ、みんなのおかげです。
なんとお礼を言ったら良いか……。
私のことはさておき、お祭りです。
何処を見ても人、人、人。
地元の人だけでなく外国人観光客の方も大勢いるようで、とっても盛り上がっています。
ここ鳴明街には、それを裏付けるイベントが目白押しで、お店の売り上げ祭りもその一つです。
とにもかくにも、今は愛しいあの方の為に働きます。
……い、いとしいだなんてっ、キャーっ!
「申し訳ございません。……ふふ。先日、……ふへ。それを廃止しましてへっ、代わりに、整理券をお配りしております。よければ、この時間におこしください」
「……何かおかしいですかな?」
……ダメよ華、集中なさい。今はバイト中ですの。
「失礼しました。コホッ、我慢したら、コホッ、笑っているようなコホンコホン」
「……あぁ、お大事に」
見事な苦笑い……恥ずかしいですわ。
「その、よろしければ!」
多少強引ですが、整理券を差し出します。
しかし残念なことにお客さんは渋い表情……。
「あー、ここで食べたいのですが、待っていてはダメですか?」
ほっ、お怒りになったわけではないようです。
「そうですねー、何か買って頂けましたら、そこで座っていてもいいですよ?」
「そこ……あの出っ張っている所ですか?」
「はい。それでも整理券を持っている方が最優先ですが」
「うーん……では、アイスコーヒーをひとつください」
「承りました」
我ながら失礼な接客でしたが、実はマニュアル通りの対応です。
キッカさんの用意した膨大なマニュアルには、売り上げを伸ばす為のあらゆる手段と、その根拠、想定しうる全てのトラブルと対策が記されていました。
それによる新体制が始まって早くも一週間が経ちましたが、時が経つにつれてキッカさんの凄さを思い知らされます。
洋菓子店スタリナには、ケーキ屋さんとしての面と、喫茶店としての面があります。
キッカさんが用意した整理券は二種類ありますが、この一週間で私達が配った整理券のほとんどは喫茶店としての整理券でした。
キッカさんは売り上げの多くを占める喫茶店利用客を逃さない為、これまでは席を待つお客様が利用していたスペースを席として採用しました。しかしながら、以前まで置かれていた椅子は撤去され、代わりに花などを飾っていた場所が解放されています。そこは座るだけなら苦はなく物も置けますが、とてもお客様に提供するような場所ではありません。
「どうぞ。アイスコーヒと、伝票です」
「……どうも」
しかし、お客様が納得したのであれば話は別です。
マニュアルには
『私が行った分析によって例のスペースを座席として利用できることが分かった。詳細を以下に記す。まず、客用出入口に設置した黒板を利用して満席か否かを伝える。これによって、満席時に店内へ入る客を「喫茶店利用を強く希望する客」と「テイクアウトを希望する客」に二分する事がほぼ可能である。前者の多くは常連客である確率が高く、整理券を受け取るであろう。だが整理券を受け取らず、店内で待つ事を強く希望する客も一定数いるはずである。その中には、例のスペースを座席として利用する事に抵抗の無い者が高い確率で存在する。そういった客に対して従業員が「何らかの商品を購入したならば、あのスペースで待っていても良い」と伝える。次に――』
と記されていました。
簡単に要約すると、余ったスペースにお客さんを座らせたいけど、どうしよう。同意があればいいよね。一人座れば二人座るよね。それが続けば、いつかは座席として認知されるよね。そんな内容でした。
日本的に考えると信じられないようなアイデアですが、キッカさんの基準では然程おかしなことではないのかも知れません。実際、思惑通りに事が進んでいて、売り上げも伸びているようです。
むしろ、好評です。
あの場所でも構わないという人には気さくな方が多く、そんな人が集まれば会話も弾むようで、時折目を向けると楽しそうに会話している姿を見ることが出来ます。
ところで先日、キッカさんが一回百円でコーヒのおかわりが出来る機械を導入しました。
商売上手というか、ここまで来るとブラックですわ。ブラックコーヒーだけに。
黒字にする為にはブラックにならなければ、そういうことなのでしょうか? ブラックだけに。
いいでしょう。これがお店の為になるというのなら、私もとことん黒く染まります。このお店の色に染まって見せますわ。そう、このお店の色、てんてんの色に……キャーっ! もう染めるとこがないーっ!
コホン。
正直なところ、最初は少し抵抗がありましたが、今では納得しています。
それはお客様が楽しそうなのと、もうひとつ。
「おぉ、長谷川さんではありませんか」
「おっと、これはこれは……失礼、気付きませんでした」
「はっはっは、それは此方とて同じこと。貴方も彼女達に見惚れていたのでしょう?」
「……いやはや、言葉も無い」
「長谷川さんは、真帆ちゃん押しでしたか?」
「えぇ。無邪気に頑張る姿を見ていると、一週間の疲れも吹き飛ぶというものです」
「全く持ってその通りですな」
「そういう山崎さんは、みくちゃん押しでしたか?」
「ええ……いつもの罵声を聞けないのは残念ですが、これはこれで」
「放置プレイというやつですな」
はいりょ? どんな食べ物なんですか?
……真面目な話、これはこれでお客様のことを考えたアイデアなのかもしれません。
「すみません、注文いいですか?」
「はい、ただいま」
他にもたくさんの変化があって、私を含めてバイトの三人は戸惑いました。
だけどそれは最初だけ。
私も、矢野さんも、真帆も、直ぐに適応する事が出来ました。
「いちごのショートケーキとアイスコーヒーをおふたつずつですね。それから、ただいま夏のフェアを行っております。この夏限りの限定メニューから何かおひとつ如何ですか?」
「うーん……じゃあ、このパフェをひとつ頂戴。苺のやつ」
「あ、それなら俺もひとつください」
「はい、いちごパフェをおふたつですね。ありがとうございます」
確かにマニュアルは分厚いし、ちょっと変わったアイデアもいくつかありました。
だけど、ほとんどは逆にどうして今迄なかったのか不思議に思えるような内容で、だからこそ、私達は簡単に適応出来たんだと思います。
「すいませーん、こっちもいいですか?」
「はい、少々お待ちください」
とにもかくにも、お仕事です!
あぁ、愛しい殿方の為に働くこの瞬間! とても幸福ですわ!
……いいえ、私だけではありません。彼もまた、一人厨房で戦っているのです。
徐々に増えるお客さん。それに比例してオーダーの量も増えているというのに、滞った事は一度もありません! 流石てんてん! 素敵!
「……華さん、すごい笑顔ですね」
「あら? そうでしょうか?」
「……はい。私は、その……頑張ります」
あらあら、真帆は少し疲れた様子です。
それでも弱音を吐かない所が可愛いなと感じます。
「ねぇ真帆ちゃん、ちょっとこっち来てよ」
「……はぁい! なぁに加奈お姉ちゃん?」
……なんだか見たくない笑顔を見てしまったような気がします。
そんなこんなで、ちょっぴり慌ただしい時間が続いています。
開店から昼にかけてピークを迎えた後、客席は徐々に落ち着き――三時くらいから、私達は交代で休憩します。
今は午後四時を少し過ぎたところ。
一足早く休憩を取っていた私と真帆は、矢野さん、キッカさんと交代でホールに戻りました。
見ると店内に残っているお客さんは四人ほどで、良く見るとみんな常連さんです。
「……よしっ、あとちょっと」
後ろから聞こえた声に目を向けると、真帆がグッと手を握りしめていました。
私だけでなく、店内に残っていた方々も表情を緩めてしまっていることに、彼女は気付いているでしょうか?
「整理券を持った人達が来るのは五時くらいですよね? えっと、先に準備準備……あわわ、何から始めよう」
「落ち着いて。まだ時間はあるので、ゆっくりやりましょう」
「はいっ、頑張ります!」
あぁ、頭を撫でてあげたい。
「……あの、華さん?」
「どうかしましたか?」
「……えっと、恥ずかしいです」
……はっ!? 全然気づきませんでしたわ。なんという吸引力。
「失礼しました」
「……いえ」
なんだか甘酸っぱい雰囲気になってしまいました。
あらあらどうしましょうと考えていると、鈴の音が私達に助け船を出してくれました。
「あ、いらっしゃいませ!」
真帆が元気よく駆けていきました。
少し寂しく感じつつ、その背中を見守ります。
さておきお客さんは一名様。どうやら外国からいらっしゃった男性のようです。
「……あの、えっと、ハロー?」
思った通りの反応にちょっと頬が緩みました。
日本語の分かる方だといいのですが……。
「Oh, Lernen Sie Deutsch?(おー、君はドイツ語を学んでいるのかい?)」
「え、レル、レル、ネ?」
「humm... In English?(ふむ、英語ならどうだい?)」
「い、イングリッシュ? い、イエス」
あぁ、頑張って対応している真帆をもっと見ていたい気がしますが……どうしましょう。
直ぐに助けるよりも、もう少し見守った方が真帆の為になりそうですし……。
「Would you call in your master?(店長を呼んでくれないかい?)」
……てんてんの知り合い?
そういえば、てんてんは外国にいたんでしたっけ? その時の友達でしょうか?
「ええっと、うじゅー、うじゅー、うちゅーマスター?」
「humm...アー、テンチョ?」
「へっ!? て、店長さん。店長さんですか?」
「オー、テンチョ」
「ええっと、店長を呼べってことですよね? すみません! 私、何か失礼を!」
……そろそろ可哀想になってきました。
お客さんの方も、左に持った細長い硝子棒をクルクルと、困った様子です。
「Do you know him?(てんてんと知り合いなのですか?)」
「Oh, Yes. He is my old friend.(ああ、あいつとは古い友人なんだ)」
「わっ、華さん、英語、かっこいい……」
そういう真帆はとってもかわいい。
「Please wait a moment.(少々お待ちください)」
「え、あれ、華さん?」
「てんて……店長を呼んできます」
「え!? あ、やっぱり……はい、お願いします……」
なにやら勘違いしている様子。
でも落ち込んでいる真帆もかわいいので、あえて放置しちゃいましょう。
ところで、厨房に入るのは初めてです。どんな様子なんでしょう。
「……丸井、さん? どうした、の?」
途中でキッカさんに呼び止められました。
「てんてんの友人がいらっしゃったので」
「……友人? ちょっと、待って、ね?」
「はい、分かりました」
なんだろうと目をぱちぱちする私の横を、キッカさんがてくてく歩いていきます。
どうやらホールに向かうようです。キッカさんとの共通の友人なのかな?
とりあえず追いかけます。
ホールに出たキッカさんは、彼の姿を見付けると、とても驚いた声を出して両手で口元を覆いました。
「どうしたんですか?」
「……」
あら、聞こえてないのかな?
不思議そうに彼女の横顔を見ていると、やがて他の国の言葉でなにやら呟き始めました。
少ししか分からないけど、多分イタリア語です。
ええっと……なんで、来た、彼が、彼を……目的……長い……うーん、単語しか分からない。
「あの、大丈夫ですか?」
二度目の問いにも、返事はありません。
代わりに、少しだけ遅れて、キッカさんは人名と思しき言葉を呟きました。
「Daniel......(ダニエルさん……)」