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伊国少女の恋愛事情(終)

「キョウ、も、オツカレサマ、だよ?」


 私と彼は、偶然、本当に偶然、同じお店で実務課程を過ごすことになった。

 毎日朝から夜まで彼は職人として、私は経営者として、それぞれの職場で働いた。

 労働への対価としてお金が与えられる代わりに、扱いは他の誰とも変わらない。

 あまりにも力が足りなれば、解雇される可能性だってある。

 

 遊ぶ時間なんて無い。

 だけど、自由な時間はいくらかある。

 そして週に二度、合わせて六時間だけ、彼と過ごせる時間がある。

 その時間を利用して、私は日本語を学んでいた。


「はい、キッカさんこそお疲れ様でした」


 この時間は、彼にも可能な限り日本語で話してもらうことにしている。

 本格的に勉強を始めてから早くも一ヶ月。

 彼に教えてもらっているおかげか、簡単な会話程度なら出来るようになった。

 だけど、まだアクセントがぎこちないように思える。

 日本のアニメを参考にして練習しているけど、耳で聞くのと口にするのは違う。

 そもそも日本語と他の言語では音の違いが大きくて難しい

 ……頑張らないと。


「キョウ、は、オミセ、の、アイサツ、だよ?」

「……お店の、挨拶?」

「イラッシャイ?」

「……はい、分かりました」


 学校にいる間は私が彼にいろいろ教えていたから、こうして逆の立場になるのは感慨深い。

 それから、彼の理解力はすごい。

 少ない言葉でも伝えたいことを的確に察してくれる。

 ……ずっと一緒にいたから、かな。


「それでは、まずは役目を決めましょう」

「ヤクモコ?」

「やくもく。そうですね、まずは俺が店員になるので、キッカさんがお客さんになってください」


 コクリと頷く。

 ――こんな具合に、勉強は進む。


「テンチョ、オキャク、サマ? ヨンデル、よ?」


 これは、店長を呼べと言われた場合の練習。


「……意味は伝わりますが、店長です」

「てん、ちょ?」

「店長」

「てんちょ」


 日本語における長音が、私の苦手分野らしい。

 よく聞けば少し違うのが分かる。

 分かるのに、なおせない。

 きちんとした日本語を発音しようとして無駄な力が入るのか、ひとつの音が短くなってしまう。

 と、自己分析は出来るのに、どうしてか正しい音が出せない。

 ……頑張らないと。


 この二年間で、たくさんの失敗と、少しの成功を経験した。

 ここで学んだことは、きっと一生忘れない。

 だけど、振り返った時に浮かんでくるのは彼と過ごした時間ばかりだ。


 ひとつ年上の、男の人。

 日本人で、両親がいないから常識が欠けていた。

 だから私が少しずつ教えることになったけど、いつの間にか立場が逆転していた。

 だけど本質的なところは変わらなくて、大きな成果を出したと思ったら道具の片付けを忘れていたり、調理室で寝ていたりと、しっかりしているようで小さな失敗を繰り返す。

 その度に私は、使った物は片付けなさい、ちゃんとベッドで寝なさいと親のようなことを言った。

 いろいろ変わっても、こういうところはずっと変わらなかった。


 二年という時間は、とても短かった。

 毎日が挑戦の連続で、遥か遠くにあるゴールに向かって、ひたすらに走り続けた日々だった。



 そして、学生として経験出来る最後のイベントが始まった。



 久しぶりに出会ったアリスとダニエルさんは、少しだけ大人びて見えた。

 メールやSNSを使って連絡は取り合っていたけれど、やはり顔を見ると会話が弾んだ。

 しかし再会を喜ぶ時間は少ししかなくて、直ぐに卒業課題が始まった。

 課題は二つ。

 ひとつは、最高のチームを決めるコンテスト。

 それから、最高の一人を決めるコンテスト。

 

 この二つのコンテストは、卒業生が名前を売る為の大きな舞台だ。

 毎年ここで優秀な成績を残した人が、その名前に大きなアドヴァンテージを持ち、卒業と同時にプロの世界で活躍している。

 二年前にスイスのホテルで行った品評会とは比べものにならないくらい大きな意味を持つ。


 私はチームでのコンテストにのみ出場する。

 パティシエとしての道から外れた私のやるべきことは、確実に優勝出来る戦略を考えることだ。


 私のアイデアが、少なからず結果を左右する。

 それはつまり、皆の将来を少しだけ背負ったようなものだ。

 だけど、不思議と緊張しなかった。


 きっと、この二年間で培った自信と、みんなの力。

 なにより、ずっと一緒にいた彼のことを信じているからだろう。


 課題は、私達が最初に行ったものと同じ内容だった。

 ただ、その規模は桁違いだ。

 訪れるお客さんの数は、毎年一万人を超えている。


 ただし、ルールは変わらなかった。

 制限時間は二時間。

 最も多くの商品を提供したチームの勝利。

 なお、今回から商品券などの実物ではないものは商品と認められないそうだ。

 なんだか歴史に名を刻んだ気持ちになる。


「さて、俺達はどうすればいい?」


 ダニエルさんの一言と一緒に、みんな目が私へ向けられた。

 その表情は、自信に満ち溢れている。

 ……これが、みんなで挑む最後の課題。


「やることは単純です――」


 このチームは、とてもバランスが良い。

 それぞれが卓越した個性を持っている。

 なにより私にとって大切な存在だ。

 だから絶対に優勝したい。

 それだけではなくて、後に語り継がれるような結果を残したい。

 

 

 そして、課題が始まった。

 機械的なアナウンスではなく、プロの実況者による開始の合図と同時に作業が始まる。


 私達の作戦は、以下の通りだ。

 まず、作るものは数を重視したクッキーではなく、ケーキ。

 ナーダが生クリームを作り、スポンジや目に見えない部分はアリスが、そして仕上げをダニエルさんが行う。

 こうして、世界一美味しそうで、世界一美味しいケーキが、ありえないくらい早く出来上がった。

 それでも数は足りない。

 他のチームに比べれば、ずっと少ない量しか作ることができない。


「あははっ、いやーキッカすごいこと考えたよねー」


 目で追うのも難しいくらいの速さで作業を続けながら、アリスが言った。


「ああ、久しぶりにワクワクするよ。どうだろう、俺は卒業したら店を開くつもりなのだが、雇われてみないか?」

「すみません。先約があるので」

「あははっ、やーいダニー振られたー」


 ――量は、関係ない。

 作った全ての商品が売れるわけではないのだから。

 

 会場に訪れるお客さんは一万人以上。

 対して商品を提供するのはたったの五チーム。

 時間は僅か二時間。

 お客さんの立場で考えれば、食べられないかもしれないという不安があるだろう。

 必然的に最も興味を持ったチームの列に並ぶはず。

 

 そこで私は二つのことを考えた。

 まずは圧倒的な質で話題を集めること。

 さらに不安を取り除くことで人を集めること。

 

 その為に用意したのは、引換券だ。

 これは商品としてカウントされない。

 だけど、これを提供した数だけ他のチームからお客さんを奪うことが出来る。

 それに引換券であれば、常に列を動かす事が出来る。

 お客さんの立場で考えた時、食べられないかもしれないという不安の中で常に動いている列を見れば、自然とそこに並んでみようと思うだろう。


「といっても、数が必要なことは変わらないでしょうね」

「うえーん。あたしもう疲れたよー」

「少し静かにしてくれないか? 集中できない」


 楽し気な声とは裏腹に、三人の表情は真剣そのものだった。

 

 あっという間に時間が進んでいく。

 私は、最初の商品が完成した後はずっと会場にいた。

 こんなところまで立場が逆になっている。

 それを考えたら、少しだけ笑ってしまった。


 笑える余裕があったのは、全てがうまくいったからだ。

 狙い通り、お客さんは私の列に集中した。

 本当に、狙い通り。

 一人も並んでいない場所が現れたほどだ。

 

 これはきっと、後に語り継がれるだろう。

 それから明日のコンテストにおいて、みんなのアドヴァンテージになるはずだ。

 ……役に立てた。

 

 とても嬉しくて、心が躍っていた。

 何もかも上手くいっていた。

 果たして、私達のチームは二位に圧倒的な大差をつけて優勝した。

 

 調理室に戻ると、皆はぐったりしていた。

 扉を開けて直ぐの所で、ダニエルさんとナーダが並んで作業台に背を預けている。

 

「お疲れ様です」

「ほんと疲れたぁ……」


 作業台に突っ伏したアリスが、顔を伏せたまま、だけど楽しそうに言う。


「そこのバカ二人、途中から、なんか、ヒートアップして、笑い疲れちゃった……」

「疲れた理由はそれですか」


 思わず笑ってしまった。

 やっぱり、アリスはアリスだ。


「……なぁキッカ、味よりも、見た目の方が好評だっただろう?」

「……いえ、味の方が、好評でしたよね?」


 この二人も、変わらない。

 お客さんの声はいくらか聞こえていた。

 商品を見た時に、神業だと声高に叫ぶ人がいた。

 商品を口にした時に、生きててよかったと叫んだ人もいた。


「引き分けです」


 言うと、二人は同時に息を吐いて、静かに笑った。


「ねぇキッカぁ、あたしおなかすいたぁ。どこかで何かおごってぇ。ステーキがいぃ」


 この猫撫で声は初めて聞いた。

 ちょっと、その、ちょっと。


「残念ですが、外は大雨です。大人しく残ったお菓子を食べましょう。それに、引換券の分のケーキを作らないといけません」

「えぇ、まだ終わらないのぉ?」


 話しながら、懐かしいなと感じた。

 それと同時に、少しだけ寂しくなった。

 きっと、こんな会話が出来るのはこれが最後だ。


 ――実際に、こんな会話が出来たのは、これが最後だった。


 大きな音と共に、地面が揺れた。

 それは近くに落ちた雷が原因だった。

 そのせいで、物が落ちた。

 作業台には、まだ道具が残っていた。

 もちろん、刃物も。



 それは音もなく、ダニエルさんの右腕を切り裂いた。



 その後のことは、あまり覚えていない。

 出血に驚いたアリスが悲鳴を上げて、隣にいたナーダは戸惑っていた。

 だけど当の本人は落ち着いていて、私が救急車を呼んだら大袈裟だと言って笑った。

 しかし病院に着いた後で事態は一変する。

 ダニエルさんには、後遺症が残った。

 右手が、少しだけ不自由になってしまった。

 それは生活には困らない程度だったけれど、ダニエルさんにとっては利き腕、つまりパティシエとしての最大の武器を失ったことになる。

 当然、翌日に開かれたコンテストも欠場した。


 この結果に、最も動揺したのはナーダだった。

 自分がきちんと片付けなかったせいで、親友の未来を奪ってしまった。

 そういって、彼は自分を責めた。

 

 病院に行った際、ダニエルさんは面会を断った。

 その時に言った言葉は、顔を見たくない、その一言だけ。


 それからのナーダは、荒れていた。

 精神を安定させる為に、薬が欠かせなかった。

 いつも何かに怯えていて、不安定で、見ているだけでも辛かった。

 ダニエルさんは会ってくれなくて、フランスの店に就職が決まったアリスとは少しずつ疎遠になった。

 私に出来ることは、彼の傍にいることだけだった。

 彼は私の実家で預かって、私はお店の手伝いをした。

 薬が効いている時は、彼もパティシエとしてお店を手伝った。

 お菓子を作っている時の彼は、どうしてか落ち着いていた。

 ただ、刃物は扱えなくなってしまっていた。


 お店が休みの時、私はずっと彼の近くにいた。

 相変わらずダニエルさんとは連絡が取れないけど、彼の症状は驚くほど早く回復した。

 その代わり、とても不安定で、人格はすっかり変わってしまった。

 俺は死んだ。

 なら、今ここにいる自分は、何なのだろう。

 彼からこの言葉聞いた時、涙を堪えるのはとても難しかった。


 あるとき、日本から連絡が来た。

 卒業課題が始まる少し前に手配していたお店が、ついに完成したとのこと。

 


 そうして日本に来てから半年。

 彼は、てんちょは、少しずつナーダと呼んでいた頃に戻っている。

 

「……」


 鳴明街るめいまち、夏の売り上げ大会。

 手に持ったチラシの一番上に、そう書かれている。

 この街にある全てのお店に配られていて、文字通り売り上げを競うイベントだ。

 単純な売り上げ、上昇率、利益、お客様満足度。

 項目は様々だけど、これは、学生時代に行ったコンテストに似ている。


 バイトの子達と関わることで、彼は少しずつ昔に戻った。

 ならきっと、きっかけがあればいいのだ。

 だからきっと、これがきっかけになる。

 

「……頑張らないと」


 ポツリと、イタリア語で呟いた。

 私の時間は、あの時から止まっている。

 私達の時間は、あの時から止まっている。


 だから、頑張らないと。

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