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伊国少女の恋愛事情(3-5)

 

 そんな熱を冷まそうと、水風呂と書かれたお風呂に入った。

 とっても冷たい。

 だけど、いろいろと冷やすには適温だった。


「…………」


 いや、もう少し冷たい方が嬉しいかもしれない。

 

「……どうしよ」


 いったいどんな顔をして会えばいいのだろう。

 彼はそれほど気にしていない様子だったけど……いやそれはそれでどうなの?

 そもそも、どうして更衣室に?

 後悔しない為って何? バカじゃないの?

 そんなの普通の人なら絶対に……そうだ、普通じゃないんだった。

 言葉遣いだとか、食事の仕方だとか、そういった類の事は教えてきた。

 でも、全く教えていないことがひとつ。

 ……だけど、こんなの教えられない。


「あ、キッカみぃっけ。あははっ、水風呂に入ってたんだ」


 聞こえた声に、私の思考は一時中断させられた。


「そういえばぁ、ん? なに? あたしの手なんか掴んで、えっ、ちょっと、わっ――」


 大きな音と共に、アリスが水風呂へ飛び込んだ。


「冷たいっ! ちょっとキッカなにするの!?」

「アリス、温泉に飛び込むのはマナー違反ですよ?」

「キッカが引っ張ったんでしょ!?」

「ほらアリス、温泉は肩まで浸かるのが一般的なんですよ?」

「やだよ冷たい。ちょっと、まって、ほんと、冷たいっ」

「それと、お風呂に顔を付けて十まで数える習慣があるそうです。やってみましょう」

「ごめんキッカ、悪気は無かったの。ちょっと、その、面白そうかなって――」

「いーち、にー、さーん……あら? 三の次は何でしたっけ?」

「あははっ、だからごめんってばぁ」

「あ、まだ顔を出したらダメですよ? もう一回初めからです」

「ちょっと、げほっ、ほんとに、待って――」




「……死ぬかと思った」


 アリスから笑う余裕が失われたところで、私はようやく三の次を思い出した。

 ぴったり十まで数えた後すぐに水風呂から出て、緑の湯という、表面が緑色であること以外には変わったところの無いお風呂に移った後、アリスは身を小さくして、ガチガチと歯を鳴らしながら言った。

 

「はぁ、温かい温泉は良いものですね。ところで、何か言いましたか?」

「あ、ううん。あははっ、はは……ごめんね?」

「まったく。やっぱりアリスの仕業でしたか」

「……えっと、主犯はダニーだよ?」

「ダニエルさんがあんなことするわけないでしょう?」


 この期に及んで言い逃れようとするなんて……まぁ、アリスだから仕方ないかな。


「五年前から、何も変わっていませんね」

「あはは、そんなに簡単に変わらないよ。でも、ナーダは随分と変わったよね? あ、変えられちゃったのかな?」


 む。この雰囲気、まさかからかおうとしてる?

 そうはいかない。


「彼は普通になっただけです」

「うん。随分キッカ好みの男になったよね」


 やっぱり……怒られたばかりなのに、まったく。

 そう何度も思い通りの反応なんてしてあげないんだから。


「そうですね。昔に比べたら、随分ましになりました」


 笑顔のまま、アリスが口を一の字にする。

 さて、そろそろお説教――


「あとは、エッチな事を教えてあげるだけだね☆」

「お、教えられるわけないでしょ!?」


 はっ、しまった。

 ……悔しい、とっても楽しそうな顔してる。


「会えるのは今日と明日、それから三日後の朝、その次は二年後か……二年もあったら、きっと色んな人が教えるんだろうなぁ。ナーダってそこそこ魅力あるし」

「……そ、そんなこと」


 ダメダメ落ち着いて。

 これはアリスがからかおうとして言っているだけ。

 気にしない気にしない……。


「それとも、キッカ先生が教えちゃう? まだ一晩残ってるよ?」

「やめてください。下品です」

「……キッカは教えるつもり、ないの?」


 アリスが距離を縮めてきたので、その分だけ離れる。

 彼女は楽しそうな表情のまま、また距離を詰めた。

 諦めて近付くことを許すと、アリスは私の腕に身体を密着させた。


「……だったら、あたしが教えちゃおうかな」

「バカなこと言わないでくださいっ!」

 

 思わず立ち上がると、飛び散った水がアリスの口に入ったのか、彼女は少しむせた。

 だけど、直ぐに楽しそうな声で笑う。

 ……くぅ、からかわれているって分かってたのにっ!


「何度も言っているように、彼に対して恋愛感情なんて持っていません」


 ゆっくりと緑色の湯に身を沈める。

 直ぐに肩まで入って、顎も入れて、口も入れる。

 

「あははっ、まぁあたしはどっちでもいいんだけどね。でーも、彼と一緒に居られるのは、あと少しなんだよ? あたしだってそう。キッカと一緒にいられるのは、あと少しだけ。これでも寂しいんだよ?」


 目だけを動かして、アリスを見た。

 急に真面目な話をされて、少し戸惑う。


「ねぇキッカ。キッカは、卒業した後のこと考えてる?」

「……」


 顔を上げると、あちこちを漂う湯気が見えた。

 そのままの姿勢で、呟くようにして言う。

 

「実家に戻って、両親のお店を手伝おうと思っています」


 ……嘘だ。本当は何も決めていない。

 あっという間に過ぎた時間。

 私は、ただ必死だった。

 

「せっかくここを卒業して、わざわざ親の店を手伝うの?」

「……アリスは、どうするんですか?」

「あたし? うーん。未定かな」


 当たり前のように、彼女は言う。


「自分で店を開くつもりもないし、この店で働きたいって思うことも無い。あ、でもダニーとかナーダは自分で店を開きそうだから、そこに雇われるのは面白そうかなって思うよ」


 珍しく、彼女は大人びた表情を見せた。

 目を細めて、さっき私がやったように何も無い空間を見上げる。


「お菓子を作るのが好き。だからパティシエになりたい。五年前、あたしが思ったのはこれだけ。それから今日まで、とっても楽しかった。そのせいで、いまさら考えさせられるんだ。この楽しい時間が終わったら、どうしようかなって」


 それはアリスにしては珍しい、どころか、初めて見る寂しそうな表情だった。

 

「ねぇキッカ。今より楽しい時間なんて、あるのかな?」


 簡単に返事なんて出来ない。

 それくらい、驚くくらい、重みのある言葉だった。

 だけどアリスは直ぐにいつもの表情に戻ると、楽しそうに笑う。


「あははっ、なぁんてね。冗談だよ」

「……」

「あ、あはは。ちょっとキャラじゃなかったかな? 引かれちゃった?」

「……いえ、関心しています」


 アリスは、私なんかよりもずっと考えていたんだ。

 いつも笑っている人。

 作業が早い職人。

 一番の親友。

 いちばんの……なんて、彼女のこと、デリケートな部分は何も知らないくせに。


「いつか、教えてください」

「なにを?」

「アリスのこと。いろいろ」

「……やだ、キッカ、そっちだったの?」


 あらぬ誤解を受けたところで、足音が聞こえた。

 当初の四人が揃ったことで、私とアリスの会話は中断。

 いや、彼女達が来なかったとしても、ここで終わっていたかもしれない。


 それから雰囲気は一転して、楽しい時間が流れた。

 ……先のこと、か。




 温泉から出た後、更衣室の前で正座していた彼を連れてホテルの外へ出た。

 まだ太陽は見えないけれど、だいぶ明るい。


 お説教は、ほんの数分で終わった。

 直前にアリスがあんな話をしたせいか、なんだか、言葉が出てこなかった。

 だけど彼へのダメージというか、内容としては十分だったようだ。


「……はい、もう二度と、女性の更衣室へは入りません」


 とってもしゅんとした表情。

 ……そんなに厳しいこと言ってないのに。


「ごめんなさい。少し言い過ぎたようです」


 彼にも大事な予定が残っている。

 これが原因で失敗されても困るので、とりあえず元気を出してもらおうと言葉をかける。


「いつか言いましたが、一度は許します。知らないことは、仕方ないので」

「……怒って、いませんか?」

「はい。きちんと謝罪して、改めて頂けるのなら、それで良いのです」

「……よかった」


 嬉しそうな顔。

 なんだか様子がおかしいなと思っていると、彼は照れたように笑った。


「もしかしたら、このまま渡せないかもと思いました」


 渡す? と小さく首を傾ける。

 彼はコクリと頷き、ポケットから小さな箱を取り出した。

 ピンク色の可愛らしい包装……これって。


「今迄の、感謝の気持ちを込めて……えっと、用意しました」

「……私に?」

「はい。受け取って頂けませんか?」


 その時、ちょうど昇り始めた太陽が彼を明るく照らした。

 私はゆっくりと手を伸ばし、それを受け取る。


「……あけてもいいですか?」

「ええ、もちろん」


 ……これは。


「……指輪?」

「はい。あの時、欲しそうにしていたので」

「あのとき?」

「初めてアリスの誕生日プレゼントを買いに行った日です」


 アリスの……そうだ、思い出した。

 この指輪、あの時の指輪だ。

 確かに私は、この指輪を見ていいなって思った。

 だけど、この指輪……。


「……こんな、高価な品、どうやって」

「昔からあいつ、いえ、オーナーのお店で働いていたので、お金だけは持っていました」

「……でも、そんな、私なんかに」

「迷惑でしたか?」

「そんなことっ」

「なら、受け取ってください」


 ……そんな言い方されたら、断れない。


「ありがとうございます」


 あんなに前のこと覚えてたんだ。

 驚いた。

 私の誕生日には、お菓子を作ってくれるだけだったから、プレゼントなんて、これが初めてだ。


「大切にします」

「……はい、喜んでいただけたようで、良かったです」


 ……どうしよう。


「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

「なんでしょう?」


 小さな声で言うと、彼は不思議そうな表情で返事をした。


 ――会えるのは今日と明日、それから三日後の朝、その次は二年後。


「あなたは、卒業したあと、どうするんですか?」

「はい。店を開こうと思っています」

「お店を?」

「はい。卒業したら直ぐに店を開いて、日本一にします」


 日本一、にっぽん……そうか、日本に行くんだ。


「……出来るんですか?」

「はい?」


 勝手に、口が動く。


「お店を開くって、あなた、座学の点数は平均程度でしたけど、経営だとか、そういったこと、ちゃんと出来るんですか?」

「……そ、それは、努力します」


 こんなことを言う理由が、自分でも分からない。

 だけど、私の口は止まらなかった。


「努力している間に、潰れないといいですね。お店」

「……だ、大丈夫、大丈夫です。たぶん。おそらく」


 ……違う、本当は分かっていた。

 理由なんて、とっくの前から決まっていた。


「はぁ、仕方がありません。どうしてもというなら、私が手伝ってあげてもいいですよ」

「……え? いま、なんと?」


 きっと、あの時から。

 彼への誤解が解けた時から。

 調理室から、走って逃げた時から。


「ちゃんと給料が払えるのなら、手伝ってあげてもいいですよ」

「……はい。キッカさんが手伝ってくれるなら、とても心強いです」


 私は――




 彼との話を終えて部屋に戻ると、満面の笑みを浮かべたアリスに迎えられた。


「ねぇキッカぁ、何を話していたのぉ?」

「……」


 私はアリスの横を通り抜けて、自分のベッドに持っていた鞄を置いた。

 この鞄には着替えと、タオルと、それから大切な物が入っている。


「はぁ、温泉でも言ったけど、あと少ししかないんだよ?」

「……」


 もうひとつの鞄から、今日のプレゼンで使う資料を取り出した。


「ナーダのことぉ、好きなんでしょぉ?」

「うん、好き」

「もうチャンスは残って……え?」


 アリスの声を無視して、資料に目を向ける。

 もう時間はあまり残っていないけれど、少しでも質を上げたい。

 そして、彼と同じお店で働きたい。少しだって離れたくない。

 ……パティシエではなく、経営者として。


 彼の傍に居たい。


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