伊国少女の恋愛事情(3-2)
ホテルがあるスイスへと移動するバスには、二十人の学生と数人の職員が乗っていた。
職員も学生も、それぞれの視点からホテルに着いた後の事を考えている。
その表情は多様なれど、真剣だという点で共通していた。
しかし、考えていることは少しずつ違う。
特に、ある三人が考えていることは他とは大きく毛色が違っていた。
このバスにおいて唯一アジア系の人種である彼は、隣に座る生粋のドイツ人と、真剣な表情でホテルに関する書物を読んでいた。
ヨーロッパでは珍しい和室のあるホテルは、ちょっとした観光名所らしい。
高所に位置するホテルまでの道は荒れていて、車で移動する者に特有の疲労感を与える。
しかしホテルに着くと、まず息をのむような絶景に目を奪わる。
直前までの森林は嘘のように消え去り、どこまでも広がる緑色の草原と雪に彩られた山、そして雲一つ無い青空を背景にした東洋風の建物が観光客を迎えるのだ。
そして近くにある源泉から湯を引いた温泉に入った時、誰もが天国にいるのかと錯覚する。
だが、そんなことはこのバスに乗る誰にとってもどうでも良い情報だった。
それは温泉に関する記述を凝視する二人にとっても同じこと。
「……なんてことだ」
とても深刻そうに、ダニエルは呟いた。
「……見た目は日本式なれど、そのルールは西洋式、ということですね」
ナーダもまた、小さな声で呟いた。
ヨーロッパにも温泉はある。
ただ、その文化は日本とは少し違う。
ほとんどの温泉は混浴で、水着を着用するのが常識だ。
それはこのホテルにおいても例外ではなかった。
どころか、知らないで訪れた人の為に新品の水着を提供するサービスまである。
如何にして目的を完遂するか。
そもそも、この場合における目的とは何なのか。
それを考える二人の表情は、このバスにおいても異質な程に真剣だった。
異質というならば、定期的に笑みを浮かべる彼女もまたそうだろう。
ここ最近、彼女は憂鬱だった。
ずっと玩具、もとい仲良くしていた彼が常識的な人間へと教育されてしまったことが原因だ。
代わりにキッカをからかうことで楽しんでいたが、正直物足りないと感じていた。
このまま実務期間が始まるなんて耐えられない。
二年間はくすくす笑える程度のネタが欲しい。
だから、今日のアリスはテンションが高い。
きっと何かある。あるに違いない。
その期待は、これから始まる本来の目的への緊張を無にするほど大きかった。
ホテルに着いた後、まったく間を置かずに品評会が始まる。
それは単純に、準備から完成まで、文字通り全てが評価の対象となるからだ。
まず注目を浴びたのはアリスだった。
彼女の驚異的な作業スピードは、多くの目を奪った。
悪く言えば雑な、良く言えば無駄の無い動き。
そうして出来上がったお菓子は、だけど手間暇かけて作られた物に劣らない。
当然、彼女は高評価を得た。
負けじと他の学生も個性を発揮し、品評会は大きな盛り上がりを見せた。
品評会が一段落したのは午後三時。
このあと学生達は各々の部屋へ行き、五時間程度の休息を取る。
その間に、優秀な人材を求めて訪れた人々は誰に声をかけるかを考える。
そういう意味で、学生にとっては気の休まる時間ではないだろう。
だが、そもそも緊張していない学生にとっては関係無かった。
「……どうする? 今のうちに温泉の構造を確認しておくか?」
「……そうですね。しかし、今はまだ人の目があるので、一度部屋に戻った後にした方が」
祈るような表情をした学生達に紛れ、彼らはこそこそと話し合う。
その違和感に最も早く気付いたのは、同じく緊張とは無縁のアリスだった。
「アリス、早く戻りましょう」
「うん。そうだね」
妙に楽しそうなアリスを見て、手応えがあったのかなと、キッカは思った。
客観的に見てもアリスは注目されていたし、むしろ自分の心配をしなければ、とも思った。
自分のパティシエとしての武器は安定感。それを短時間でアピールするのは難しい。
もうひとつの武器ならともかく、まぁ、それがアピール出来るのは明日だ。
次の準備をしなくては……。
だから、アリスの様子について深く考えたりはしなかった。
それから数分後。
部屋から出たアリスは、偶然にも温泉の前で腕を組むナーダを見つけた。
「ね、何を企んでるの?」
期待たっぷりに声をかける。
「……どうやってノゾキをしようかなと」
「ノゾキ……? それって、日本語?」
まさかと思いながらも脳裏に浮かんだ可能性を口にすると、ナーダはコクリと頷いた。
アリスは、その言葉を知っている。
発案者であるダニエルに漫画を提供したのは彼女だからだ。
「……えっとぉ、ノゾキって、何するの?」
そのうえで問い直したのは、まだ信じられなかったからだ。
「女性が入浴している所を見る行為だそうです」
この返事を聞いて、アリスが笑いを堪えられるはずがなかった。
ナーダの背をペチペチ叩きながら、苦しいくらい笑う。
「どうしたんですか?」
「あははっ、やっぱり、アンタ、最高」
いつも期待以上のボケを見せてくれていた彼が常識人になってしまい、アリスは少なからぬ悲しみを覚えていた。
だがこの時、重大な見落としをしていたことに気が付いた。
彼に常識を教えたのは、キッカなのだ。
まさか性知識まで教えるだろうか、いやありえない。
「いやぁ、てっきりアンタのことゲイなんだと思ってたよ」
「ゲイ?」
「なぁんでもない。あははは」
妙に上機嫌なアリスの様子を不思議に思いながら、ナーダは本来の目的に意識を戻す。
そこで、ふと浮かんだアイデアを口にする。
「アリス、更衣室の地図を描いてきていただけませんか? 簡単でいいので」
持っていた紙とペンを差し出す。
アリスは迷わず受け取ると、更衣室へ向かった。