伊国少女の恋愛事情(3-1)
人が変化を感じる瞬間というのは、決まって何かの節目なのだと思う。
毎晩見る月でさえ微妙な変化には気付けなくて、いつのまにか半分だったり真ん丸だったりする。
この部屋にも少しずつアリスの私物が増え、だけど片付けてほしいなと感じるのは私のベッドの上に知らない荷物が置かれていた時だけで、最近は足場が無いなぁと感じることすら……いつだったかな、アリスに注意するのを諦めたのは。
「修学旅行~!」
この学校での生活は、基本的に同じことの繰り返し。
あることを勉強して、練習して、また新しいことを学ぶ。
それは淡々としていて、だけど友人やライバルがいたからか、刺激的な時間に感じられた。
そんな時間に大きな節目があるとするならば、それはきっと明日に控えたイベントのことだ。
「アリス、早く寝ないと寝坊しますよ」
「だって修学旅行だよ!? 修学旅行!」
少し前からアリスが言っている「修学旅行」とは何だろう。
確かに、私達は明日から学校の外に行く。三泊四日で。
だけどそれは旅行というより、出張という言葉の方が近い意味合いを持っている。
この学校で五年間パティシエとして学んだ私達が、現場で働くプロに自らの能力を見せる。
言わば品評会のような催しに参加するのだ。
学校は八年制で、六年目と七年目は実務、つまりはどこかのお店で実際に働く。
どのお店で働くかは、直前に開催される品評会に左右される。
八年目には卒業試験という名のコンテストに参加し、名前を売る。
このコンテストから逆算するならば、明日の品評会は私達の人生を大きく左右する重要な分岐点と言えるだろう。だから、決して旅行などというお気楽なイベントではない。
「キッカはテンション上がらないの?」
「私は、緊張しています」
現在学校に残っている同期は二十人。
明日の品評会に訪れた偉い人たちは、目に止まった人に声をかける。
それは逆に、声をかけられない可能性もあるということ。
「でも、修学旅行だよ?」
だというのに、アリスは子供の様にはしゃいでいる。
「その、少し前から言っている修学旅行とは何なのですか?」
「修学旅行! 日本語で言うと、シュガクリョコっ!」
「……シュガクリョコ?」
「そう! 明日みたいなのを日本ではシュガクリョコって呼ぶんだよ!」
そうなんだ。
……あれ、それだけ?
「あー、興味なさそうな顔してるー」
「いえ、そんなことは」
「あのねキッカ。修学旅行はね、恋のイベントなんだよ?」
「……恋の」
「あははっ、いい反応」
嫌な予感がして、さっとアリスに背を向けた。
「あたしの統計によるとね? シュガクリョコでは、コイバナとか、とっても盛り上がるんだよ」
「コイバナ? どんな花なんですか?」
「あははっ、花じゃなくて話だよ」
くすくすと笑い声。
ちょっとだけ恥ずかしい。
この部屋では、ちょっとした日本ブームが起こっている。
私が少し勉強しているのと、アリスが日本の漫画に夢中なのと、まぁ、そんな感じの理由がある。
「……明日は、そんなことをしている余裕は無いと思います」
「明日から泊まるホテル、男子と女子の部屋は同じ階にあるんだって」
「……知っています」
「あたしナーダ達の部屋に夜這いしちゃおうかなぁ」
「バカなこと言わないでください夜這いだなんてそんなの下品です最低です。もしも職員さんに発覚したら問題になって他の人達にも迷惑をかけます。そもそも明日は私達の人生を左右する大事な日なのだから、そんな浮いた考えは捨てて集中すべきです」
「あははっ、キッカこわーい」
むむむと唇を噛む。
アリスとの付き合いは、もう短くない。
これはきっと、からかわれている。
「まったく、早く寝ましょう」
「あははっ、楽しみだなぁ。キッカの告白シーンが見られちゃうかも」
「だから何度も言っているようにあの人とはそういう関係ではなくて本当に全然まったくそういう関係ではないのでそういうことを言うのはやめてください。確かに一緒にいる時間は長いですがそれはあの人に常識を教える為であって言うなれば師弟の関係なので誓って恋愛感情だとかそういった類の感情は――」
「あははっ、やっぱりキッカ面白い」
「アリス~! 早く寝なさい!」
同時刻、彼女達と同じようにベッドの上にいたナーダは小さくクシャミをした。
「まだ起きていたのか」
その音を聞いて、ダニエルは天井を見ながら声を出した。
「ダニーこそ」
「目が冴えてしまってな。ところで風邪か? 明日は大事な日だ。体調が悪いなら早く寝た方がいい」
「いえ、絶好調ですよ?」
「……そうか」
会話が途切れ、少しだけ無音の時間が続いた。
その間に、二人はいろいろなことを考えた。
五年という時間を共に過ごし、競い合いながらも、互いに協力してきた。
だがチームとして過ごす日々は終わり、これからは別々の道を歩んでいく。
行き先は同じかもしれない。
だけど歩む道はきっと交わらない。
それが生み出すのは大きな高揚感と、決して小さくはない寂寥感。
「……思えば、あっという間だったな」
「そうですね」
「こんなタイミングで言うのはおかしいかもしれないが、俺は、ナーダに出会えてよかったと思っている」
思わぬ言葉を受けて、ナーダはダニエルに顔を向けた。
ダニエルは変わらず天井を見たまま、少しだけ嬉しそうに言う。
「知っての通り、俺のお菓子は味が悪かった。この学校に来る前からの課題だったのだが、ナーダと出会わなければ、ずっと不味いままだったかもしれない」
「……いえ、ダニーならきっと、自力で乗り越えていましたよ」
「そうかもな。だが、同じような課題を抱えたナーダを見てライバル意識を持ったのは事実だ。努力を続けるナーダを見て負けじと頑張ったのもまた、事実だ」
「……それを言うなら、此方こそ同じ気持ちを持っていました」
「ふん、それは光栄だ」
ダニエルにつられて、ナーダも静かに笑った。
「俺は、パティシエになる」
少しだけ声のトーンを上げて、ダニエルは続ける。
「これは昔からの夢だ。正直、この学校は踏み台くらいにしか思っていなかった。だが今は違う。良き仲間と出会い、競い合った日々は、俺にとってかけがえのない宝物だ」
その言葉を聞きながら、ナーダもまた思い出す。
お菓子を作り、意見を出し合い、またお菓子を作り、意見を出し合う。
そんな何の変哲も無い日々。
少しずつ形を変えながら何度も繰り返した日々が、もう少しで終わってしまう。
誰かに語ったところで、きっとどこにも面白味のない日々が、どうしてか愛おしい。
「……本当に、素晴らしい時間でした」
「ふん、だが本番はこれからだ。そうだろ?」
「ええ、そうですね」
「俺は自分の店を持ちたい。ナーダはどうだ?」
「自分の店……良いですね。なら俺も、自分の店を開こうと思います」
「ほう、それはいい。だったら勝負だ」
「勝負?」
「ああ。より大きな店を作った方が勝ち。単純だろ?」
「……ええ、それは面白いですね。ただ、評価の基準が難しいような気がします」
「俺はドイツで一番の店を作る」
「……では、俺は日本で一番の店を作ります」
先に一番と認められた方が勝ち。
言葉にせずとも、互いに理解した。
条件はまるで違う。
だけど一番という言葉の持つ重みは、目指す場所は、きっと同じだ。
「ところで、アリスの影響でいくつか漫画を読んだのだが……」
「漫画? ダニーが?」
「意外か?」
「ええ。さておき、それがどうかしましたか?」
「明日のイベント。日本ではシューガクリョコーと呼ぶらしいな。見たところ、青春の日々において最も輝くイベントのひとつのようだ」
「……ええ、そうですね」
「ある哲学者は言った。もし人生の終わりに青春があったら、誰も後悔しない。なぁ、ナーダ。俺は後悔したくない」
言葉の意図が分からず、ナーダは首を傾げた。
「明日のホテル。なんと貸切だ」
「ええ。とてもお金がかかっていそうですね」
「しかも、和式で、オンセンというものがあるらしい。知っているか?」
「ええ、温泉なら、向こうにいたころ何度か入った事があります」
「そうか。そして、日本にはノゾキという文化があるらしいな」
「……のぞき、ですか?」
「漫画を読んでいて思ったんだ。ノゾキという行為をする時、若者達はとても輝いていた」
「……そうなんですか」
「そして、思ったんだ。あれこそ青春だと」
「なるほど。よく分かんないけど、面白そうだな」
静かに、二人の気分が高まっていく。
気付けばダニエルは拳を握りしめ、ナーダは長い間意識してきた丁寧な言葉遣いを忘れ、頬に笑みを浮かべていた。
「どうだ、ナーダ。やってみないか?」
ダニエルは体を起こし、ナーダに向かって手を伸ばした。
それを見て、ナーダも体を起こす。
パチンと、手と手が合わさる音がした。
「……楽しもうぜ」