伊国少女の恋愛事情(2-6)
……眠たくなってきた。
せめて彼よりは長く練習しようと思っていたけれど、そろそろ辛い。
ギュッと目を閉じて、時計を見る。
わ、もう少しで十二時だ。
この学校に来てから、こんな時間まで起きていたのは初めてだ……きつい。
そんな私とは対照的に、彼は始めた時と同じ表情で手を動かしている。
なんて体力バカ。
そういえば少し前、深夜に目が冴えてしまった時にも彼がここでお菓子を作っているのを見た。
あの時は確か……え、ナーダさんっていつ寝てるの?
しかも、今日が特別というわけでもなさそう……え、本当にいつ寝てるの?
「……ん?」
「なんでもありませんっ」
いけない、じーっと見過ぎた。
集中しないと……大丈夫、集中すれば、きっと、眠気も……。
「おーい、大丈夫かー?」
絶対に、彼よりは長く……。
「おーい、キッカ?」
ダメ、私には、寝ている時間なんて…………。
この数ヶ月、成長出来ていると思っていた。
そこに突き付けられた評価は、だけど受け入れられないものではなかった。
頑張っているのは私だけじゃない。
今ダメだったなら、次はもっと頑張ればいい。
あの会話を聞くまでは、そう思えた。
おまえがこのチームで最下位だ。
つまり、お前がお荷物ってわけだな。
頼むから、もっと頑張ってくれよ?
黙れ、覚えておけよ。次は絶対に負けない。
字面とは違って、じゃれあうような和やかな雰囲気だった。
だけど、お荷物という言葉が私の胸を貫いた。
嫌だ。
お荷物になんて、なりたくない。
「……あ、いけない」
目が覚めて直ぐに夢を見ていたと気付いた。
とても気分の悪い夢。
ほんの数時間前の記憶だ。
急いで時計を見ると、まだ十二時を少し過ぎたところだった。
よかった。たぶん、十五分くらいしか寝てない。
……あれ? なんだか、時計の位置がいつもより高いような……。
あ、そうか、私、床に……背中には、壁?
これは、布団……タオル?
なんで?
「お、よかった直ぐ起きた」
今のは、日本語?
……ああ、そうか。
「無理するな少し。寝る前に戻る方がいいぞ部屋、また」
相変わらず下手な英語。
これでも最近は少しまともになったけど。
えっと、部屋に戻れってことだよね?
……ダメだ、頭がぼーっとして上手く脳内変換できない。
「大丈夫?」
「……問題ありません」
パンと頬を叩いて立ち上がる。
おかしな睡眠のせいで頭と体が重いけど、眠気は少しましになった。
「そか、そりゃよかった」
この人、なんで平気な顔で起きていられるの?
ここまで来ると敬意が芽生える。
「いやぁ、キッカが寝落ちしたときは焦ったよ。軽かったから運ぶのは問題ないけど、部屋が分かんねぇから」
……まったく期待していなかったけれど、本当にデリカシーが無い。
そもそも女子寮は男子禁制です。
「そういや、寮ってなんで男女で分かれてるんだろうな。寮にいる生徒って全部で二百人くらいだろ? ひとつで十分じゃね?」
違う、デリカシーの前に常識が無いんだ。
……はぁ、なんか、慣れちゃった。
「それとさ、女の子の身体って柔らかいのな。ビックリした」
「そろそろ黙りませんか?」
「なんで? まぁ、いいけど」
これは本当に素で言っているのかな?
まったく、どういう育ち方をしたらこうなるんだろう。
違う。余計な事を考えている暇は無い。
集中しよう。
せめて、この人よりは長く練習しないと。
……だけど、いつまでやっているんだろう。
なんだか、すっごくニヤニヤしてる……。
あの様子だと、このまま朝まで続けていそう。
なにそれ、課題はどうするの?
……聞いてみようか。
「……いつまで続けるんですか?」
「ん? んー、三時くらいかな」
「課題はどうするんですか?」
「その後やる」
「それでは、寝る時間が」
「二時間くらいあるだろ?」
「……はぁ、だから授業中に居眠りすることになるんです」
「安心しろ。だんだん寝なくなってるから」
……大物というか、なんというか。
「貴方はもう少し……」
いつもの調子で言いかけて、口を閉じた。
私に彼をとやかく言う資格は無い。
「いえ、なんでもありません」
他人の事よりも、自分の事を考えないと。
私には、余裕なんて無いんだから。
……でも、何をしよう。
何が悪いのか分からないのに、何をすればいいんだろう。
手を止めて、少し汚れたままの道具と材料を並べ見て、見て、ひたすら見る。
だけど頭の中は空っぽで、自問への答えは、いつまで待っても現れない。
「キッカってさ、お菓子が出来た時どう思う?」
唐突な質問に、私は少し驚きながら顔を上げた。
そこにはいつもと変わらないヘラヘラとした表情。
だけど、その雰囲気はいつもと少しだけ違っていた。
「多分、安心してるんじゃないか?」
これまで考えたことの無い内容だった。
でも、言われてみればそうかもしれない。
お菓子を作るときは、とても集中する。
だから何事もなく完成した時、私は安心しているのかもしれない。
そこまで考えて、頷いた。
「それじゃないかな? 原因」
「……どういうことですか?」
「キッカのお菓子って、面白くないんだよ」
文字通り、私は言葉を失った。
何か硬いもので叩かれたような衝撃を受けて、意識も揺らいだ。
彼には常識が無い。
同時に遠慮が無い。
そのせいで空気が読めない。
それはつまり、嘘が吐けない。
真っ直ぐな評価は、どんな皮肉よりも深く心に突き刺さった。
「だってほら、いつも美味しいだろ?」
子供のように無垢な言葉で、彼は続ける。
「いつも同じ味、見た目、レシピに忠実なお菓子。それって凄いことだと思うけど、だから面白くないっていうかさ……ほら、食べる前に、もっと言えば作る前に、どんなお菓子が出来るか分かっちゃうだろ?」
「……だから、つまらない?」
「うん。機械とかでいっぱい作るならそれでいいと思うけど、人が作るものって、そういう所が面白いっていうか、魅力だろ? って、あいつが言ってた」
「あいつ?」
「えっと……オーナー?」
今まで流していたけれど、本当にオーナーとどういう関係なんだろう。
「まぁ、根拠はここなんだよ。ほら、あの評価って多分あいつが決めてるだろ?」
彼は腕を組んで、うんうん納得したように頷く。
「だから、キッカも面白いお菓子を作ればいいんじゃねぇかな?」
……面白いお菓子。
「ほら、ダニーのお菓子とか食べるまでドキドキするじゃん。アリスのお菓子だって、あの短時間でまともな味になるわけねぇだろって思いながら食ったら普通に美味しくてビックリするだろ?」
確かに、彼の言う通りだ。
二人の作るお菓子は、いつも食べるまでドキドキする。
「……そう、ですね」
「ちょっと冒険してみたら?」
「冒険?」
「うん。何かレシピに無い材料を加えるとかさ」
「……なるほど」
少し前まで何も見えなかった所に、明かりが灯ったような気がした。
やるべきことが分かったような気がする。
「どうする? 今から始めるなら、付き合うよ」
彼は少し嬉しそうに言った。
その表情は、いつもと同じヘラヘラとした表情。
私は、どうしてか直視することが出来なかった。
「どうかした?」
「……いえ」
これは、罪悪感に近い感情だろうか。
なんだか、もやもやする。
「……どうして」
「ん?」
どうして、私のことを真剣に考えてくれるのだろう。
「私は、貴方に酷い態度をとってばかりです。なのに、どうして……」
彼は、不思議そうな表情で首を傾けた。
それから、当たり前のように言う。
「だって、好きだから」
「……え?」
「うん。アリスが言ってた。なんかさ、悩んでるお前を見たら、何かしてやりたいって思って……そんときに、どうしてこんな風に思うのかなって考えたんだよ。それで悩んでたらアリスがどうしたのって」
「えっと、あの……」
「昔からお菓子作りは好きだったけど、人を好きになったことは無かった。いやはや、いいもんだな。もっと早く知りたかったよ」
えええ、突然なに? どうしちゃったの?
「一人で作るより誰かと作った方が楽しいなんて知らなかった。まったく、何時の間にか好きになってたらしい。このチームのみんなのこと」
……あ、もしかして、ライク?
アリスのバカ、ビックリした。
「どうした? 俺なにか変なこと言ったか?」
「……なんでもありません」
恥ずかしい気持ちを押さえつけながら言う。
「……てっきり、貴方には嫌われていると思っていました」
「え? なんで?」
思わず呟いた言葉が、どうやら聞こえてしまったようだ。
仕方なく、話を続ける。
「さっきも言いましたが、私は、貴方に酷い態度をとってばかりです。確かに、貴方にも落ち度はありますが、時には理不尽だったり、妙に厳しかったこともあったと思います……だから、嫌われていても、仕方ないかなと」
「……うーん、正直に言うとさ、嫌いって感覚がよく分からないんだよ」
「分からない?」
「うん。確かにキッカを見ると怒られるかもって身構えることはあるけど、これが嫌いって感覚なのか?」
「……それを私に聞かれても」
「だよな。あはは、わりぃ。ほんと、お菓子のこと以外は全然わからなくて」
どこか照れたような態度で、彼は言った。
いや、あれは恥ずかしがっているのかもしれない。
彼には、常識が無い。
それは常々思っていたことだ。
その理由が、どうして今、無性に知りたくなった。
「日本では、どういう生活をしていたんですか?」
「どうって言われても……ずっとお菓子を作ってた……かなぁ?」
「学校へは行っていないのですか?」
「んいや、ちゃんと行ってたよ? なんだっけ、最低限の教養は身につけろってあいつに言われたから、勉強もちゃんとしてた。多分。いや、英語はバッチリ話せるし、頑張ってた方だと思う」
また、あいつ。
「……オーナとは、どういう関係なんですか?」
「前に言ったと思うけど、育て親だよ?」
「それは、お菓子を教えてくれた人、という意味ですか?」
「それもあるけど、なんて言えばいいのかな……あ、義理の親?」
本当の親はと言いかけて、口を閉じた。
聞いてもいいのか、分からなかった。
「いや待てよ、親ってのはおかしいかな? ……保護者? いやそれじゃ同じか……」
彼は様々な言葉を呟く。
そのひとつひとつは、曖昧な言葉だった。
だけど前後の文脈というか、これまでの情報から、なんとなく察せる。
想像するのは難しいけど、でもこれなら、少しは彼の常識が無いことに納得できる。
「……ナーダさん」
「ん?」
思えば、彼のこの表情は出会った時からずっと変わらない。
常識は無いけど、悪意も無くて、むしろ、良い人。
そんなの、とっくに分かっていた。
「……教えて、頂けませんか?」
「何を?」
きっと私は、意地になっていたんだ。
アリスは言った。
あたしなら、第一印象で嫌いになったら、そのままずっと嫌い。
そんなの、私だって同じだ。
口では違うといっても、やはり最初の印象は強く残ってしまう。
彼に歩み寄ろうと口にしながら、何処かで踏みとどまってしまっていた。
だからきっと、このとき初めて、ようやく、私は一歩踏み出した。
「……お菓子作りですっ、代わりに、私が常識を教えてあげます!」
彼は微笑んで、
「うん。よろしく」
私に向かって手を伸ばした。
「……よろしくお願いします」