伊国少女の恋愛事情(6)
隣り合うベッド。
互いに布団に入って、電気を消した。
それでもカーテンの隙間から入り込む月明かりのせいで部屋は少し明るい。
目を閉じてから随分たった。
なのにまだ、瞼に当たる光がハッキリと感じられる。
眠れない。
それは月明かりのせいか、妙に頭が冴えているせいか。
私は眠ることを諦めて、目を開いた。
カーテンに映った月は水面に揺れているかのように朧で、手を伸ばせば届きそうだ。
それを見ていると、イタリアの騙し絵を思い出す。
窓のある家だと思って購入したら、実は絵だったという有名な話がある。
人間の目なんて曖昧なもので、簡単に騙すことが出来る。
曖昧なのは目だけではなくて、人はあらゆるところで錯覚する。
それは経験が生むものだ。
お菓子を見て美味しそうだと思うのは、似たようなお菓子を食べて美味しいと思った経験があるからだ。
私達は思考の大部分を経験に任せている。
だから「初めて」に出会った時は、知っている何かに重ねて考えるんだ。
あれはまるで――
彼のような人を見たことがある。
だけど彼と出会ったのは初めてだった。
私が錯覚してしまったのは、きっとそのせいだ。
彼だけじゃなくて、隣で寝ている彼女も……。
「……あははっ、やっぱり起きてた」
しっかりと目が合った。
「やー、いつまでも寝息が聞こえないなーと思って。大正解?」
月に照らされて薄らと見えるのは、蒼い瞳と金色の髪。
ヨーロッパでは珍しくない。
だけど彼女ほど笑う人は見たことが無い。
「アリスさんは、どうしていつも笑っているの?」
「え? なに急に」
「不思議に思ったから」
「それはほら、楽しい時に笑わないともったいないじゃん」
「……いつも楽しいの?」
「うーん? うーん……うん。そうだね、あははっ」
少し、考えるような間があった。
それが私にとっては意外だった。
いつも笑っていて、何を考えているのか分からない。
もしかしたら何も考えていないのかもしれない。
だけど何も考えていない人なんているわけがなくて、そんなことに今更気付けた。
「じゃあさ、あたしも聞いていい?」
「なんですか?」
「ナーダのこと、嫌い?」
……どうなんだろう。
確かに、彼に対して良い印象は持っていなかった。
それはアリスさんの目にも伝わってしまうくらい態度に出てしまっていたようだ。
だけど今は、それほどの悪印象は持っていないように思える。
少なくとも、遠くからぼんやりと見るのはやめて、少し近くで見てみようとは思い始めている。
「……あははっ、すごいね、キッカ」
考えていると、不意にアリスさんが笑った。
私が首を傾げると、彼女はもう一度笑って答える。
「だって、明らかに嫌ってたじゃん。でも今は嫌ってないでしょ? それ、すごいよ」
体を少し動かして、上を向く。
「あたしだったら、一回嫌いになったらそこで終わりだもん」
私は、もう一度カーテンの月を見た。
最初の印象が全て、アリスさんの考え方は良く分かる。
だけど、それは少し違う。
「アリスさんだって、最初は彼のお菓子を笑っていました」
なのに、一度食べた後はまるで違う印象を抱いた。
美味しいと叫んで、もっと食べたいと言った。
それと同じだ。
食べてみなければ、味は分からない。
近付いて見なければ、形は分からない。
「……あははっ、素敵。でもね、私は最初から面白いなって思ってたよ?」
首だけ回して、得意気な表情を見せる。
その子供っぽい態度が少しおかしくて、私は小さく笑った。
するとアリスさんも一緒になって肩を震わせる。
「なんか、キッカの笑ってるところ初めて見たかも」
「私も、初めて笑ったかもしれません」
「あと、ちゃんと話したのも初めてだよね」
「はい、そうですね」
ここに来てから一週間。
いきなり退学がかかった課題を課せられ、必死にお菓子を作った。
だから私は焦っていたんだと思う。
一緒のチームになった人達の事を、ぼんやりとしか見ていなかった。
「……ごめんなさい」
「んー? なんで謝るの?」
「……たくさん、迷惑をかけたから」
「あははっ、許さない」
彼女は、笑顔のまま続ける。
「許してほしかったら、ナーダと仲直りしなさい」
「……アリスさん」
「それから、あたしの事はアリスって呼ぶこと。さんとかいらない」
彼女の話す言葉。
それは、少し雑な英語だ。
言葉遣いだとか、そういうテストをしたら落第してしまうようなものだ。
だけど、そこには沢山の優しい気持ちがこもっている。
彼女の笑顔を見ながら、私はそんな風に思った。
「……分かったよ、アリス」
「うん。よろしくね、キッカ」
それはまるで、初めて会った人に言っているかのようだった。
だから私も、同じように返事をする。
「はい。よろしくね、アリス」
近くで見なければ分からないことがある。
近くで見なければ、分かった事にはならない。
だから私はまだ皆の事を何も知らない。
でもそれは当然で、だからこれは始まりなのだと思う。
これから互いの事を知る為に、少し歩み寄る。
そんな、他人よりも一歩だけ近付いた関係には、名前があったような気がする。
「おー、この部屋、月が綺麗だね」
アリスにつられて、私も月に目を向けた。
少し窓が開いていたのか、吹き込んだ風がカーテンを揺らしている。
一際強い風が吹いて大きくカーテンが揺れると、その形がはっきりと見えた。
「……はい。本当に、綺麗ですね」
――キッカ編・プロローグ(終)