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伊国少女の恋愛事情(3.5)

「ところでナーダ、それなに?」


 彼の作ったものは、一応お菓子らしい。

 私には白いブロックにしか見えないけど。


「パンナコッタ」

「ふざけないで!」


 私は思わず立ち上がっていた。

 パンナコッタはイタリア発祥のお菓子で、父が作ったものを何度も食べた。

 大好きで、たくさんの思い出があるお菓子。


「そんなのパンナコッタではありません!」


 それは決して、あんなカクカクした立方体ではない。

 私が彼を睨んでいると、彼女はお腹を抱えながら、彼の肩に手を置いた。


「……この、角砂糖が……パンナコッタ……やめて、おなか痛い」


 何が面白いの?

 こんなのパンナコッタへの冒涜なのにっ!


「……えっと、そんなにおかしい? ほぼレシピ通り作ったんだけどな……」

「待って、ふっ……どんなっ、レシピ見たらこうなるの? もう、ほんと、やめてっ……」

「笑ってないで、とりあえず食ってみろよ」

「あーうんそうだね。どうやって食べればいいの?」

「こう手でつかんで、ひょいっと」

「手でっ、掴めるパンナコッタ……やめてっ、もうムリ」


 彼女は体を震わせながらブロックを手に取り、口に入れた。

 途端に、動きを止める。

 きっと声も出ないくらい不味かったに違いない。

 ピタリと表情を固めたまま両手を頬に当て――幸せそうに目を細めた。


「ナーダ、これ全部食べてもいぃ?」


 ……うそ、美味しかったの?


「ダメ。あとの二つはダニーとキッカの分」

「えぇ……じゃぁ、もっと作ってよぉ」

「突然なんだ。なにその猫撫で声」


 あのブロックが美味しい? そんなわけ……。


「ナーダ、俺もひとつ貰うぞ」

「おう、どうぞ」


 続いて、ダニエルさん。

 難しい表情でブロックを掴み、口に入れる。

 そして彼女と同じように表情を固め、やがて困惑した様子で目を見開いた。


「どうだ? 結構いけるだろ?」


 ダニエルさんは、相変わらずヘラヘラとした表情で言う彼を見て、静かに目を閉じる。


「……次は負けない」


 そして少し悔しそうにしながら、力強いドイツ語で言った。


「え? ごめん、なに?」

「驚いたと言ったんだ。この角砂糖が、思ったより美味しかったからな」

「だろ? ほら、キッカも食べてくれよ」


 彼はブロックが乗った皿を私に差し出す。

 やっぱり、どう見てもブロックだ。

 こんなの絶対にパンナコッタじゃないし、とても美味しいとは思えない。


「そんなもの、私は食べません」

「……やー、まいったな」


 ハッキリ拒絶すると、彼は頭をかきながら日本語で何かを呟いた。

 なんと言ったのか分からないけど、彼の表情を見ていると馬鹿にされたような気分になる。


「キッカ、それ食べないならあたしが貰うよ?」

「どうぞ、好きにしてください」

「わーい! はむっ……んっー! 最高!」


 大袈裟に騒ぐ彼女を見て、ダニエルさんは呆れたような表情をしていた。

 二人の間にいる彼は、空になった皿を見ながら少しだけ口角を上げた。

 此の期に及んで、まだ笑えるらしい。

 ……嫌いだ。

 本当に、大嫌いだ。




 その日の夜は静かだった。

 ルームメイトの彼女が何処かに行っているから、この部屋には私しかいない。

 私は窓際に置いた椅子に座って、月を見ていた。


 イタリアを出てから、まだ一週間も経っていない。

 それなのに、家を出るときに感じた何かは、もう残っていない。

 だから、いくらか欠けた月が、妙に明るく見える。

 

 ダニエルさんは、やはり真面目な人だった。

 味は残念だったけれど、見るだけで強いこだわりが伝わってきた。

 その向上心や真剣さは、食べてくれた人の声を聞く態度からも感じ取れた。

 素直に、私は刺激を受けた。


 それに比べて、彼女が作ったお菓子は、本人と同じでいい加減な品だった。

 確かに早く作ることは大切だ。

 ひとつのお菓子にかけられる時間は決まっていて、お客さんも早く食べられた方が喜ぶと思う。

 私は限られた時間の中で精一杯のお菓子を作りたいと思うけど、いくらか手間を省いて時間を優先するというスタイルも、理解は出来る。

 それによって生まれる味の違いが多くのお客さんに伝わらないことも理解は出来る。

 理解は出来る。

 だけど、納得は出来ない。

 それはきっと、父の店でいろんなパティシエを見てきたからだ。

 真面目で誠実な人もいたけれど、ほとんどの人は自分が最優先だった。

 お客さんの悪口を言う人、上手くいかなくて道具にあたる人。

 でも、彼らが作ったお菓子は美味しかった。

 それはきっと、誰もがパティシテとしてのプライドを持っていたからだ。


「……だけど」


 やっぱり、父の作ったお菓子が一番だった。

 理由は分かっている。

 それはきっと、お客さんも同じだと思う。

 まったく同じお菓子でも、好きな人が作ったお菓子の方が美味しい。

 

 だから。


 彼が作ったお菓子が美味しいはずがない。

 食べたいとも思わない。

 

「……はぁ」

 

 腹が立った。

 どうして?

 ……どうして?

 しばらく考えて、私は答えを出せなかった。

 

 第一印象が悪かった。

 その後も悪かった。

 それだけだ。

 それなのに、どうしてこんなに?

 

「……」


 もう一度、短い息を吐いた。

 父が言っていた。

 お菓子は嘘を吐かない。

 ダニエルさんとアリスさんが美味しいと言ったのなら、きっと本当に美味しかったのだろう。

 そして、美味しいお菓子を作るために、どれだけ努力しなければならないかは、よく分かっている。

 ならきっと、彼も立派な職人なんだ。


 まだ出会って間もない。

 これからきっと、多くの時間を共に過ごす。

 だったら、彼という存在を受け入れるしかない。

 そうでなければ、この学校にはいられない。

 私には夢があるんだ。

 それはパティシエのお嫁さんなんて可愛らしい夢じゃなくて、堂々と、パティシエになりたい。

 その一番の近道は、ここを卒業すること。

 父と母も応援してくれている。

 これはチャンスなんだ。

 たった四十人にしか与えられなかったチャンス。

 このチャンスが欲しくて、だけどダメだった人達がどれだけいる?

 私が手に入れたのは、そういうものなんだ。

 だったら、気に入らないとか、そんな子供みたいな理由で無駄にするなんて馬鹿げてる。


 彼の悪意を感じたことは無い。

 あの時のナイフも、きっと驚いて手が滑っただけだ。

 どちらが悪いという話をすれば、トツゼン大きな声を出した私が悪い。

 たまたま私が危ない目にあったけど、仮にあれが拳銃で、銃口が彼に向いていたら?


「…………よしっ」

「え、何が?」


 アリスさんが、扉を開けたまま不思議そうな顔をしている。

 ……ちょっと恥ずかしい。


「なんでもありません。どこに行っていたんですか?」

「暇つぶしぃ」

「……そうですか」

 

 彼女はいつも笑顔だ。

 とりあえず、それだけは分かった。


「ねぇキッカ」

「どうかしましたか?」


 珍しく、彼女から声をかけてきた。

 月明かりに照らされた表情は、夜の部屋でもハッキリと見える。

 だけど、その感情は読み取れなかった。

 それは付き合いが短いからなのか、何も考えていないからなのか。


「……あははっ、なんでもない。おやすみ」


 そう言って、彼女はベッドに飛び込んだ。

 ……そこ、私のベッド。




 それから一週間はあっという間だった。

 チームで試行錯誤して、どうやって課題に挑むか考えた。

 多くの意見を出し合った。

 私は努めて、彼とも会話するようにしていた。

 相変わらずヘラヘラしていて、なぜか一日に一回パンナコッタ擬きを作っては私に勧めてくる。

 頭では、それを食べた方が良いことは分かっていたけれど、どうしてか食べられなかった。

 

 一度、ダニエルさんに聞かれたことがある。

 どうしてナーダを毛嫌いしているのか。

 私は答えられなかった。

 だから、熱意が感じられないとか、そんな言葉で誤魔化した。

 ダニエルさんは考え込むような表情をして、やがて小さく頷いた。

 そして「俺も最初はそう思っていた」と呟いた。

 なぜか、ダニエルさんの彼への評価は高い。

 そのことに疑問を抱きながらも、時は流れていった。

 

 そして、その日が訪れる。

 まだ薄暗い早朝、なんだか目が冴えてしまった私は、ふらふらと歩いていた。

 落ち着かない。

 今日やるべきことは決まっていて、単純に、お菓子を作るだけだ。

 だけど、その結果によっては退学になると考えたら、とても冷静ではいられなかった。

 

 やがて、調理室キュイジーヌの前に辿り着いた。

 調理室はチーム毎に割り振られていて、ここは私達に与えられた一室。

 今日まで一週間、ほとんどここで過ごした。

 

 四面ある壁の一面を埋める冷蔵庫には豊富な食材。

 残る三面には、オーブンと道具、流し台、それから保存用の冷蔵庫。

 中央には、大きな四角い作業台。

 

 それらを頭に浮かべながら、私は扉を開けた。

 そして、目を疑った。

 

 昨日きちんと片付けたテーブルには、いくつかの道具が転がっていて、どれも汚れている。

 ふと音がして、恐る恐る床を見ると、彼が居た。

 作業台に背を預け、ところどころ生クリームの付いた調理服を着たまま……寝ている。

 

 あらためて、私は言葉を失った。

 何をしているのか、どういうことなのか、まるで理解出来なかった。


 ――よしっ、と両手を握りしめて、決めたことがある。

 この一週間、少しずつ、頑張ってきたことがある。

 これから共に過ごすチームメイトとして、彼を理解して、受け入れよう。

 私は頑張ってきた。

 

 その結果が、これだ。


「……ぁ、あれ? キッカ? ……やっべ、もう時間か?」


 目を覚ました彼が、慌てて立ち上がる。

 

「……もう、ムリ」

「え、なに?」

「あなたと一緒になんて、私には無理です! 絶対に認めない!」

「ええっと、わりぃ、英語で言ってもらえるか?」


 ……理解できない。

 どうして本気で怒っている人に対して、そんなヘラヘラした笑顔を浮かべられるの?


「えっと、怒ってる?」

「…………もう、いい」


 私は一歩だけ彼に近付いて、しっかりと彼の目を見た。

 そして、ゆっくり丁寧な英語で話す。


「今日の課題、あなたは参加しないでください」 

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