夢見る乙女の青春事情(11)
その日、学校中で騒ぎが起こった。
自殺したはずの生徒――水瀬瑞希――と、テスト以外では登校しないはずの丸井華が、揃って登校したからだ。
三年の教室が並ぶ廊下に、二人が立っている。
その周りには、こっそりと顔を覗かせる生徒達の姿がある。
「……お久しぶりですね、水瀬さん」
「……お久しぶりですね、丸井さん」
一触即発の雰囲気に、事情を知る者も知らぬ者も息を飲んだ。
「私は、貴女に負けない」
ゆっくりと、水瀬は声を出した。
その言葉を受けて、数人の生徒が唇を噛む。
この期に及んで、勝ち負けを口にする水瀬の神経が理解できなかった。
自分の行いを忘れたのかと、それでもなお、勝ち負けという言葉を使うのかと。
だが、対する華は、どこか余裕を見せながら言った。
「それなら、勝負をしましょう」
「……勝負ですって?」
「ええ。明日から始まる球技大会。そこで文字通り、勝ち負けを決めましょう」
二人の間に、言いようのない緊張が走る。
「……気に入らない。やっぱり、その態度が気に入らない」
水瀬は手を握り締め、
「いいでしょう。種目は何になさるの?」
「生憎、一対一の種目は卓球とテニスしかありません」
ならば卓球かと水瀬は思った。
それと同時に、つまらなそうな顔をする。
なぜなら卓球は参加人数が多く、当然ながら経験者も参加する。
そして数ある競技の中でも、より経験者と未経験者の差が出る種目だ。
よって二人が当たる前にどちらかが負けてしまう可能性が高い。
「なので、テニスで勝負しましょう」
その言葉に、今度こそどよめきが起こった。
水瀬は驚き呆れ、果てには笑いがこみ上げた。
「……馬鹿にしているの?」
その言葉通り、馬鹿にしているとしか思えない発言だった。
水瀬は小中高とテニスを続けていて、その実力も経験に見合ったレベルだ。
現に、高校二年の時に全国大会まで勝ち進んだ実績がある。
対して、華は授業で学んだ程度の経験しかない。
「お返事は?」
だが、まるで勝利を確信しているかのように言う。
「……叩きのめしてやる」
その声に、数人の生徒はビクリと身を震わせた。
そして水瀬が振り返ると、途端に周りは静かになる。
華は見送って、脱力するように大きく息を吐いた。
「……あの、丸井さん」
「あら、山本さん」
ごく自然な笑顔で、華は返事をした。
その顔を見て、山本には多くの思いが込み上げてくる。
「……あの、丸井さん……あの、私っ……」
だが、華は彼女の口に指を当てて、静かに首を振った。
心の中で「謝るのは私の方だ」と呟いて、いっそ柔らかい笑顔で言う。
「球技大会って、飛び入り参加出来ましたっけ?」
間の抜けた言葉に、山本はキョトンとして……つい堪え切れず、笑った。
そして三日後。
きちんと手入れされた芝生の中庭で、二人の女生徒が向き合っていた。
それを囲むようにして、百は下らないであろうギャラリーの姿がある。
「とりあえず、決勝までは来たようですね」
左手に持ったボールを地面にバウンドさせながら、水瀬は声をかけた。
余裕たっぷりの笑顔は絶対の自信から来るもので、それを裏打ちする実力が彼女にはある。
「ええ、思ったより才能があったようです」
同じくらい余裕のある表情を見せる華は、その実、とても緊張していた。
それを落ち着かせるようにして息を吐き、腰を沈めてラケットを構える。
対する水瀬は、見るからに不機嫌な様子で舌を打ち、ボールを握り締めた。
審判役として立つ生徒が、二人の様子を見て開始を宣言しようとする。
だが水瀬はそれを遮り、華に向かって言った。
「せっかくだから、景品を付けませんか?」
「……景品?」
「ええ。敗者は勝者の言いなりになる。如何ですか?」
「はい、面白いですね」
水瀬としては、ほんの冗談のつもりだった。
ただの挑発。
しかし華は、にっこりと微笑んで、即座に了承してしまった。
会話を聞いて、観客は一気にどよめく。
「……ムカつく」
水瀬の表情を見て、一部の生徒は反射的に口を閉じた。しかし、その恐ろしい睨みを受けても華の余裕は崩れない。
「あら、そんな表情をしていては、小皺が増えてしまいますよ?」
まさかの挑発に、水瀬は声を上げそうになった。
ギリギリのところで自制し、ぞっとするほど冷たい目を審判役の生徒に向ける。
「……し、試合開始です!」
宣言を受けた直後、水瀬は天高くボールを投げ上げた。
そして真っ直ぐに体とラケットを伸ばし、最も高い位置でボールを打ち抜く。
もはや芸術の域に達したフォームから放たれたボールは、華の真横を通り抜けた。
反応すら出来なかった華に、乾いた笑みが浮かぶ。
「あら、急に静かになりましたね」
その反応を見て、水瀬は心底楽しそうに言った。
それに呼応するようにして、ギャラリーの一部が歓声を上げる。
だが華は挑発を無視して、ふっと息を吐き、再び真剣な表情でラケットを構えた。
「……ムカつく」
そして、二度目のサーブが放たれる。
この試合は3ゲーム先取。
テニスの場合4ポイントで1ゲームとなり、次のゲームではポイントがリセットされる。
始まってから一分と経たないうちに、水瀬は1ゲームを取ってしまった。
あと8ポイント、彼女は心の中でカウントダウンを始める。
そして試合前に決めた景品を思い出し、いっそ醜悪な表情を浮かべた。
「……」
サーブの権利は華に移り、彼女はボールを見つめながら小さな呼吸を繰り返す。
「あらあら、そんなにボールを見つめても、何も変わりませんことよ?」
水瀬の煽りも、今の華には聞こえていない。
……勝たなきゃ。
その言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けている。
私がここに立っているのは、いろんな人のおかげだ。
沢山の迷惑をかけた。
だから絶対に勝たなきゃいけない。
……勝たなきゃ、勝たなきゃ。
いつしか手が震え、どんどん視界が小さく暗くなっていく。
大きく高まった心臓の鼓動が耳まで届き、より呼吸が乱れていく。
そして、彼女の手からボールが転がり落ちた。
直後に水瀬が声を上げて笑う。
だがそれすら聞こえない華は、慌てた様子でボールを追いかける。
しかしボールは彼女が拾う前に、地面から姿を消した。
「……どうぞ」
顔を上げると、そこには――
「……頑張ってください」
たくさんの、思いがあった。
「落ち着いて」
「負けないでください!」
「一度深呼吸しましょう」
「頑張って!」
「掌に金と書いて飲み込むといいそうですよ」
「信じています!!」
自分のせいで傷付けたはずの人々が、けれど口々に応援の言葉を言う。
そのひとつひとつが、真っ暗だった華の視界を明るく照らしていった。
ボールを受け取り、コートに戻る。
「……あらあら、今のうちに降参してしまった方が賢明ではなくって?」
その煽りは、はっきりと華の耳に届いていた。
そのうえで華は返事をしない。
彼女を応援する人々は、祈るような気持ちでコートに注目していた。
そして次の瞬間、今日一番のどよめきが起こる。
「……あなた、なにして」
華は、先ほど水瀬が見せたのと同じように、ボールを天高く投げ上げた。
そして、水瀬と全く同じフォームでボールを打ち抜く。
放たれたボールは、呆気にとられる水瀬の真横を通り抜けていった。
「……ふぃ、フィフティーン、ラヴ」
得点を告げる声と共に、大歓声が沸き起こる。
そして水瀬がショックから立ち直れないまま、次のサーブが放たれた。
二回目も三回目も、動揺のせいか水瀬のラケットは何も無い空間で音を鳴らす。
「ふざけないでっ!」
四度目、ついに打ち返されたボールは、しかしネットに当たって水瀬側のコートを転がった。
これでゲームは振り出しに戻る。
もはや悲鳴と区別が付かなくなった大歓声に苛立ちを覚えながら、それでもまだ水瀬には余裕があった。
あんなのまぐれだ。
仮にそうでないとしても、自分のサーブが止められる事はあり得ない。
ならば、先行である自分が必ず3ゲーム先取できる。
だが、その予想は直後に裏切られた。
水瀬が放ったサーブを、なんと素人であるはずの華が打ち返したのだ。
そしてボールは再び呆気にとられる水瀬の横を通り過ぎていく。
……ありえない。
「このっ!!」
動揺で無駄な力の入ったサーブは、ネットに止められ地面に落ちた。
「フォルト!」
「分かっています!」
ネットに当たった事を宣言した生徒に向かって、水瀬は大きな声を出した。
そして苛立ちながら放たれたサーブは、またしてもネットに当たって跳ね返った。
ダブルフォルト。二度のサーブミスで、華に得点が入る。
次も、その次も。
完全に調子を崩した水瀬のサーブはネットを越えられず、2ゲーム目は華が獲得した。
……ありえない。
恨めしいほど耳障りな大歓声の中、再び心の中で呟く。
同時に、少し前の事を思い出していた。
一週間ほど前、水瀬の元に現れた男に向かって、彼女は言った。
ざまあみろ。私の勝ちだ。やはり私の方が優れている。
いいえ、まだ勝負はついていません。
小さく首を振った男の言葉を鼻で笑う。
だが男は、逆に水瀬を嘲笑うようにして言う。
彼女は必ず学校に行きます。
……それがどうしたの?
今は二人とも学校に行けていないけれど、今度は貴女だけが学校に行けないことになる。
完全に、貴女の負けだ。
くだらないと吐き捨てるように言いながらも、水瀬は憤りを覚えた。
そんな彼女の幼い精神を煽るようにして、男は言葉を続ける。
そして、
では次の月曜日、必ず登校してください。
その言葉に、水瀬は頷いた。
それを確認すると、男は要は済んだとばかりに振り返った。
その背中に向けて、水瀬は自信たっぷりの言葉を投げかける。
勝つのは私だ。
いいえ、貴女は絶対に勝てない。
だけど男は、より自信に満ちた表情で言葉を返した。
その時の腹立たしい顔が、どうしてか今になって思い出される。
「サーティ、ラヴ!」
華が放つ二度のサーブが、共に水瀬の横を通り抜けた。
……ありえない。
あと2ポイントで、自分は負ける。
……そんなこと、ありえない!
「私が負けるなんて、絶対にありえません!」
叫んだ水瀬の横を、しかしボールは無情にも通り抜けていった。
マッチポイント。
観客は今日一番の盛り上がりを見せ、あと一点コールが始まる。
「うるさい! 黙りなさい!」
ついに、水瀬は観客に向かって声を上げた。
だが、その声は誰にも届かない。
どころか、こんな言葉が返ってきた。
「お前が黙れ!」
「そうだそうだ!」
呆然とした水瀬の手から、ラケットが零れ落ちた。
すると彼方此方から笑い声が聞こえる。
それに対して、文句を言う者などいなかった。
当然である。
彼女は、あまりに多くの生徒を手にかけた。
故に当然の報いなのだ。
この間にも、観客のボルテージは上がっていく。
観客の中には、しかし何人か水瀬側の生徒がいるはずだが、彼女達に止める術などなかった。
誰も止められない。
貴女は絶対に勝てない。
不意に、頭の中に憎たらしい言葉が浮かんだ。
……私が、負ける?
ありえない、その思いとは裏腹に手が震え始める。
そしてよろよろとラケットを拾おうとしたとき、一際大きな声が聞こえた。
「静かにしなさい!」
たった一人の言葉が、大歓声の中、響き渡った。
思わず水瀬も手を止め、声の主に目を向ける。
この場にある全ての目を集めた華は、すっかり勢いを失った観客に向かって言った。
「マナーも守れない愚か者に、他者を非難する権利はありません」
テニスには、プレイ中には声を出さないというマナーがある。
そんな至極真っ当で、だけど場違いな指摘が、この場においては強い力を持った。
ほとんどの生徒が、華が水瀬から受けた行為を知っている。
その当人が、庇ったのだ。
異を唱えられるわけがない。
「……どういうつもり?」
静寂が訪れたテニスコートに、小さな声が投げかけられた。
「私は当然の事を言ったまでです」
「……バカにしているの?」
「まさか。ただ、集中できなかったから負けた等と、みっともない言い訳を聞きたくなかっただけです」
挑発を受けて、水瀬の中で完全に何かが切れた。
「……後悔させてやるっ」
異様な緊張感の中、試合が再開される。
水瀬の表情には、一切の油断が残っていない。
集中し、睨み殺さんばかりに華の動きを見ている。
華は想像以上のプレッシャーに頬を引きつらせながら、次のサーブを放った。
果たして、水瀬はいとも簡単に打ち返す。
「フォーティ、フィフティーン」
そして一言も発さないまま、ラケットを構え直した。
本気になった水瀬との実力差に、華は冷や汗を流す。
消えない重圧に難儀しながらも、大きく息を吸って、次のサーブを放った。
その直後、華は右足に熱を感じる。
水瀬の打ち返した球が、脛に直撃したのだ。
もちろん、偶然ではない。
ただでは済まさないと、研ぎ澄まされた水瀬の表情から、度し難い悪意が滲み出る。
次は左足。
「デュース!」
その次は腹。
「ブレイク!」
うずくまる華にラケットを向けて、水瀬は高らかに声を上げた。
同点になった場合、二連続で得点した者がゲームを制する。
そして、次に水瀬が得点したとき、事実上の勝敗が決するだろう。
本気になった水瀬にサーブミスはありえず、華がそれを止められる可能性は極めて低い。
この場にいる全員が、それを悟っていた。
だから、ふらふらと体をくの字にして立ち上がった華に、今日一番の緊張感を持った目が向けられる。
痛い。
だけど、それだけ。
「…………」
目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。
浮かんでくるのは、ほんの少し前の光景。
ふと、横から何かを感じた。
目を向けると、ギュッと目を閉じて、祈るように手を合わせる姿が見えた。
……あぁ、そうだったんだ。
小さく空を仰いで、脱力する。
……やっぱり、私が悪かったんだ。
あの頃、皆は辛そうな顔をしていた。
だけど私は理由を考えようとはしなかった。
だって、自分も辛かったから。
理不尽な行為の数々は、とても耐えられるようなものではなかった。
だから、私は考える事を放棄した。
自分が悪いと結論付けて、何も考えなかった。
仕方ないと、我慢することを選んだ。
……ごめんね。
やっと理解できた。
……みんなも、辛かったんだね。
「ついに諦めましたか?」
水瀬さんが楽しそうな顔でこっちを見ている。
とても、かわいそうだと思った。
――もう一度チャンスが与えられるとしたら、華はどうしますか?
……てんてん、やっと分かったよ。
私は逃げていた。
彼女の悪意から逃げていた。
結局、我慢するばかりで何もしなかった。
だから今度は逃げない!
歯を食いしばって、ボールを投げ上げる。
そして、ゆっくりとしたサーブを放った。
手前に落ちるサーブは水瀬の意表を突く。
「デュース!」
水瀬がやったように、ラケットを向けて高らかに宣言する。
一瞬の静寂の後、観客から悲鳴のような大歓声と拍手が起こった。