夢見る乙女の青春事情(10)
私は考える事を止めた。
悪い事ばかり考えるから。
それはダメ。
良い子になるの。
…………
……………………
………………………………
その日、テストが始まる一時間前にも関わらず、教室には全ての生徒が揃っていた。
華は一番後ろの、廊下際の席に座っている。
その隣で、華をじっと見つめる生徒がいた。
彼女は、普通の高校生だ。
家が少し裕福な事を除けば、何の特徴も無い。
成績は平均より少し上で、運動は少し苦手。
二年の終わりまで吹奏楽部に居て、そこそこ真面目に取り組んでいた。
たまに泣いて、よく笑って、それなりに友達がいる。
本当に、ごく普通の高校生だ。
彼女には忘れられない過去があった。
一年の終わりに、理不尽ないじめを受けた。
丸井華という生徒に嫌がらせをしろ、さもなくば、もっと酷い事をするぞ。
それは友達の名前で、だけど彼女は逆らえなかった。
恐怖があったし、こんな命令をした生徒の親は強い権力を持っていて、従わなければ両親に迷惑をかけてしまうかもしれなかった。
だから、心の中で謝りながら嫌がらせをした。
丸井華は、気にしないでと笑った。
理不尽な行為を受けているのは自分なのに、それをした友人の事を心配したのだ。
私は大丈夫です。待っていてください。必ず、なんとかしてみせます。
その言葉に、甘えてしまった。
それから一年間、二人が学校に来なくなるまで、ずっと甘え続けてしまった。
嫌がらせを強要した生徒は自殺して、丸井華は笑わなくなった。
そのことに、強い罪悪感があった。
テストの日にだけ登校する華に、声をかける事は出来なかった。
まだ、彼女に嫌がらせを続ける人がいたから。
それは一年前に比べれば、とても可愛らしいものだけれど、まだ続いているという事実が体を縛り付けた。
もしもまた自分が標的になったら、その恐怖には勝てなかった。
だけど、きっかけがあった。
必死になって、頭を下げる人達がいた。
そこで、自分と同じ思いの人が多くいると気付けた。
ごくりと喉を鳴らして、彼女は決意する。
「……あの、丸井さん」
…………
……………………
………………………………
あれ、何か聞こえた。
「……丸井、さん。お久しぶりです」
………………?
なに?
話しかけられているの?
…………
……………………
あ、返事をしなきゃ。
「はい、お久しぶりです」
…………ダメ。
もっと元気よく、笑顔で返事しないと。
「……ねぇ! 丸井さん、数学が得意ですよね? よろしければ、教えていただけませんか?」
あれ、また違う人だ。
「はい、いいですよっ! ふふ、山本さん、まだ数学が苦手なんですね」
あれ、山本さんって?
この人?
なんで、知ってるの?
「あの! 私も、ご一緒させていただけませんか?」
また違う人だ。
「ふふ、晴山さんは数学が得意だったではありませんか」
あれ、また?
晴山さんって、誰?
この人?
なんで……知ってるの?
――友達だからでしょ。
違う!
違う違う違う!
――どうして?
私が傷付けたから、私のせいで、いっぱい泣かせてしまったから!
――そっか、なら嫌われているだろうね。
そう、私は謝らなきゃいけない。
それなのに、笑って返事なんかして。
「……ぁぁ、ああぁあ」
「丸井さんっ? どうかなさいましたか?」
「……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……あぁぁあ、ああぁ」
目を閉じて、耳を塞ぐ。
それでも、消えてくれない。
「しっかりしてください!」
「大丈夫ですか?」
「落ち着いてくださいっ」
「丸井さん!?」
どうして、どうしてどうして?
なんで優しい言葉をかけてくれるの?
これは夢?
私が作り出した幻?
違う、違う違う違う。
そんなはずない。
そんな私はもういない。
悪い子の華はいなくなったんだから!
……それじゃあ、これは何?
「丸井さん、しっかりしてください」
「どうしましょう、保健室?」
「先生をお呼びした方が?」
「いいえ、私達で何とかすべきです」
なんで、どうして?
そんな疑問が消えない。
もっとギュッと耳を塞いでも、いつまでも消えない。
そして――
「やっぱり、あの方々の仰っていた通り……」
え?
あの方々?
「誰!?」
声がした方に向けて言うと、急に静かになった。
「あの方々というのは、誰の事ですか!?」
そうか、そういうことだったんだ。
誰かが何かを言ったんだ。
「……それは、その……」
そうだよね、言いたくないよね。
だって、無理矢理こんなことをさせられたんだもんね。
だって、みんな辛そうな顔をしているもの。
あぁあぁぁ、また。
また私のせいで悲しい思いをさせてしまった。
また私は、悪い子になってしまった。
こんなにも素敵な方々を……また傷付けてしまった。
いったい誰が?
きっと優しい人に違いない。
こんなお願いをするくらいだから、私なんかを見て同情してしまうような、とんでもなく優しい人に違いない。
だけど、そんな人――
お兄様だ。
そうだ、そんな人、お兄様しかいない。
「丸井さん?」
「あの、どちらへ?」
「丸井さん!」
みんな、ごめんね。
もう、ここには来ないから。
安心してね。
走り続けて、家に着いて、途端に目の前が真っ白になった。
やがて眠りから覚めるように意識が戻って、ふらっと脚の力が抜ける。
よろよろと後方の扉に背中をぶつけて、そこで気付いた。
真っ暗だった。
その暗闇を漫然と眺めていると、見慣れた風景が浮かんできた。
「……ああ、夜になったんだ」
呟いて、靴を脱ぐ。
そのまま廊下に上がると同時、勢いよく扉が開いた。
「華!」
驚いて振り向くと、お兄様がいた。
走って来たのか、息が乱れている。
どうして?
考えた途端、様々な言葉が次々と浮かんできた。
頭痛を伴う情報量に、思わず眩暈がする。
だけどそんなことには気付かない様子で、お兄様は言った。
「さきほど、バイト先から連絡があった。心配で戻って来たが……よかった、家にいたのか」
バイト?
ああ、そっか。
今日は木曜日だ。
……まただ。
てんてんにも、迷惑かけちゃった。
「……華? どうしたんだ、何かあったのか?」
お兄様、まだ私を心配してくれてる。
あ、そうだ。
確認しないと。
「お兄様……学校の皆さんに、何か言いましたか?」
「え?」
「お兄様ですよね。他に、いませんものね」
「華、何を言って?」
「どうしてあんなことしたんですか?」
「華、落ち着きなさい」
「みんな困っていたではありませんか」
「違う、そんなことは」
「違いませんっ」
「違うんだ、聞いてくれ」
「これ以上! 私を悪い子にしないでください!」
「……華」
ああ、お兄様に酷いことを言ってしまった。
理不尽に怒鳴ってしまった。
私が悪いのに。
「ごめんなさい」
無理矢理お兄様の横を通り抜けて、家の外へ飛び出した。
後ろから声が聞こえる。
お兄様が追いかけているんだ。
だけど追いつかれる事は無かった。
それは私の足が速いのではなくて、きっとお兄様が疲れていたからだ。
それほど必死に、家まで駆けつけてくれたのだろう。
「……ごめんなさいっ」
決して届かない謝罪をして、無我夢中で走り続けた。
靴も履かずに走っているから、とっくにソックスが破れて、足には冷たい感覚が伝わっている。
足が痛い。
頭が痛い。
息が苦しい。
気が付くと、目の前に行き止まりがあった。
そこに手を付いて、しゃがみ込む。
急に心臓が暴れだして、胸が苦しくなった。
ふと既視感を覚えて、周りを見る。
間違いない。
私は、ここに来たことがある。
ここで、てんてんに出会った。
……ああ、楽しかったな。
あの店でバイトを始めてからの、夢のような日々。
みんな優しくて、素敵な人達だった。
私は考える事を止めて、そこに逃げ込んだ。
恋する乙女になって、楽しい日々を過ごしたんだ。
だけど、もう夢から覚めてしまった。
あれは全部うそ。
王子様なんていない。
恋なんてしていない。
楽しくなんかなかった。
全部、私が見ていた夢だったんだ。
「……あれ?」
涙が流れた。
「……どうして?」
どんどん溢れてくる。
「……なんで?」
止まらない。
我慢しても、止まらない。
次から次へと、零れ落ちていく。
ぽたり、ぽたり。
小さな音がどんどん大きくなって、やがて狭い空間に反響した。
……違う。
ふと、それが涙によるものではないと気付いた。
……足音だ。
気付いて、体中が震えた。
……まさか、そんなはずない。
ゆっくりと、振り返る。
そこには――
「どうして?」
あまりの驚きに、涙も止まった。
「……誠也さんから、家を飛び出したと聞きました」
そんなことじゃない。
どうしてここにいるの?
お店は?
「もしも、過去に戻れるなら……そんな風に考えたことはありませんか?」
「……え?」
どういう意味?
「もう一度チャンスが与えられたとしたら、華はどうしますか?」
……そっか。
てんてんは学校に行けって言いたいんだ。
お母様と同じ。
逃げないで、立ち向かえって言いたいんだ。
「……違うよ、私は逃げてなんかいません」
「では、何を?」
「……私は、罰を受けているの」
そう、これは罰。
悪い子には、罰が必要。
「……全部、私が悪いから。だから、当然の事なの」
「それは違います」
やっぱり、てんてんは優しいな。
ううん、みんな優しい。
「……もういいよ。優しくしないで」
だけど、もう終わり。
「……私、バイト辞めます」
もう全部、おしまい。
「……今迄ありがと。いっぱい迷惑かけてごめんなさい。もう二度と会うことは無いだろうけど、元気でね」
私の事は、忘れてね。
「……ばいばい」
精一杯の笑顔を作って、別れの言葉を言った。
それから、俯いたまま動かない彼の横を通り抜ける。
妙に冷たい風が吹いて、歩く度にズシンとした衝撃が胸を叩いて、止まっていた涙が、また流れ出した。
少しだけ足を止めて、また歩き出そうとした時、肩を掴まれた。
ゆっくり振り向くと同時に、私は言葉を失った。
「……てんてん?」
とっくに見慣れたと思っていたのに、目の前にいるのが誰なのか本気で分からなかった。
こんな顔、初めて見た。
「逃げたって、後悔しか残りません」
だから少し遅れて、言い返す。
「……違います。私は逃げてなんかいません」
「いいや華は逃げている」
「逃げてません! これは罰なんです……私が犯した罪に対する、相応の報いなんです!」
彼の手を振り払って、思い切り叫ぶ。
「私が、殺してしまったから……っ! 私のせいで、私のせいで!」
そうだ。
私のせいで、彼女は自殺することになったんだ。
私がもっと良い子だったなら、
私がもっと利口な子だったなら、
彼女が死ぬことは無かった。
だから彼女を殺したのは私で、その罪は、償わなくちゃいけないんだ。
「彼女は、生きています」
「……え?」
不意を突かれて、だけど直ぐに首を振る。
「そんなウソいらないよ。てんてん、もういいよ。もういいでしょ?」
てんてんは黙って首を振ると、一歩だけ私に近付いた。
「次の月曜日、彼女は学校に来ます。直接会って約束しました」
「……どういうこと?」
「華も、学校に行ってくれませんか?」
「……だから、どういうこと?」
「そこで彼女と話し合ってください」
よく見ると、彼の手足は震えていた。
「自分も、酷く後悔していることがあります」
よく聞くと、その声も震えていた。
「やり直せるなら、今でも考えています」
その目には、涙が見えた。
「貴女にはチャンスがある。だったら挑戦するべきだっ」
そして、大きく息を吸う。
「本当に罪を償いたいなら、逃げるな!」
初めて、彼は大きな声を出した。
雷に打たれたような衝撃を受けて、ぐらぐらと、何かが揺れる。
私は……。
「分からないよ」
彼は返事をしてくれない。
ただ、私の事を見ていた。
その目は、これ以上の言葉は必要ないと言っている。
「私は、どうすればいいの?」
やっぱり、彼は返事をしてくれない。
まるで自分で考えろと言われているかのような気分だった。
……違う。
彼には分からないんだ。
この先が、分からないんだ。
「ひどいよ!」
言いたい放題で、後は人任せ。
そんなのってない。
私は、非難するつもりで睨み付けた。
だけど彼の眼は僅かばかりも揺らがない。
そこで、ようやく気付いた。
彼は、私を信頼しているんだ。
自力で答えを見つけられると、信じているんだ。
「……っ!」
背を向けて、思い切り走り出す。
どうしよ。
私はどうすればいいの?
生きてるってどういうこと?
挑戦しろってどういうこと?
分からない、何にも分からないよ!
走って、走って、何時の間にか自分の部屋に居た。
ベッドに顔を埋めて、分からないと叫び続ける。
ずっとずっと、叫び続けた。
金曜日の夜、スタリナの事務室で鈍い音がした。
「ふざけるな!」
店長から話を聞いた誠也は、彼の胸倉を掴んで壁に叩きつけた。
だけど店長は目を逸らさずに言う。
「……ふざけてなんかいません」
その言葉に、誠也は強く歯を食いしばった。
「どうして、そんなことを言ったんだ!?」
妹は傷付いていた。
今にも壊れてしまうなくらい、傷付いていた。
そんな状態の妹に「逃げるな」と言った男の事が、誠也はどうしても許せなかった。
「……信じたから」
誠也は怒りに体を震わせ、彼を力任せに投げ飛ばした。
そのまま何も言わずに店を出て、妹の元へ向かう。
だが部屋の鍵は閉じられていて、声をかけても、返事はいつまでも聞こえてこなかった。
翌日も、
その次の日も、
妹は部屋から出てこなかった。
そして月曜日。
誠也は途方に暮れながら、仕事に向かおうと玄関まで歩いた。
最後の角を曲がると、長い廊下の向こう側に制服姿の人物が見えた。
まさかと思いながら、誠也は駆け寄る。
「……華、おまえ」
驚きを隠せない様子で、後ろから声をかけた。
「……あら、お兄様? ということは、もう七時くらいですか? ……困りました」
華は振り返らず、途切れ途切れに言った。
誠也はパニックに陥っている頭を必死に落ち着かせ、考えた。
妹は何をしているのか。
決まっている、学校に行こうとしているのだ。
だがどうして?
思い当たる原因は、あの男しかない。
「華、無理をするな」
「……大丈夫です」
「いいんだ。あの男に何を言われたのか知らないが、おまえは逃げてなんかいない」
「……大丈夫ですっ」
見ていられなかった。
その声を聞いただけで、彼女が無理をしているのが分かってしまった。
見ると脚はがくがくと震え、肩が小さく上下している。
それだけで、誠也は胸を締め付けられたかのように苦しくなった。
「華、無理に学校に行く必要は無いんだ」
「……いいえ、違います」
華は小さな声で言う。
「……私は、ずっと目を逸らしていたんです。考えないようにしていただけだったんです。学校に行って、みんな優しかった。お兄様も、お母様も……あの人も、私の事を真剣に考えてくれていた。なのに、私は考えようとしなかった。自分が悪いからって言い訳して、辛いことから逃げていただけなんです」
「そんなことは無い。おまえは悪くないんだ」
誠也は彼女の前に立って、そこで続く言葉を失った。
「私、もう逃げたくない!」
くちゃくちゃに顔を歪めて、
歯を食いしばって、
駄々をこねる子供のようにみっともない叫び声。
なのに、誠也は瞬きすら忘れてしまうくらいの衝撃を受けた。
逃げたくないと言った妹は、兄の横を通り抜けて扉を開ける。
そして、さも毎日繰り返してきたかのように、口を開いた。
「行って来ます」
そのまま、一歩、外へ。
誠也は、見送ることしか出来なかった。
一歩、また一歩、妹はゆっくりと前に進む。
日の光を浴びた背中が、少しだけ大きく見えて、じわじわと歪んでいった。
「……行ってらっしゃい」
そして、さも毎日繰り返してきたかのように、妹を送り出した。