夢見る乙女の青春事情(8)
丸井誠也は急ぎ足で家に向かっていた。
その様子は大きさな成果を上げた社会人のようでもあり、宝物を見つけた子供が親に自慢したくてウズウズしているかのようでもある。
「華!」
靴を脱ぎ捨てながら、真っ先に妹の名前を呼ぶ。
長い廊下を駆け抜け、ノックも忘れて妹の部屋の扉を開け放つ。
「華! 聞いてくれ!」
果たして、妹は部屋に居た。
だがその姿を見て、誠也は言葉を失ってしまう。
「あ、お兄様だぁ。どうしたんですかぁ?」
彼女は、笑っていた。
まるで幼い子供のような、とびきり無垢な笑顔を浮かべていた。
両手には小さな人形が握られていて、足元には玩具の家と家具が並べられている。
「今ねぇ、おうち作ってるんですよぉ?」
誠也が足元の玩具に目を向けているのに気付くと、華は楽しそうに言った。
「リリサちゃんとリリカちゃんは双子ちゃんなんです。二人はとっても仲良しだから、お部屋はひとつなんですよぉ?」
頭の中が真っ白になって、息をすることすら忘れた。
そんな誠也に向かって、華はとてとてと駆け寄る。
そして少し俯きながら、伏し目がちに言った。
「どうですか? 華、上手にできましたか?」
その瞬間、誠也の全身に電流が走った。
ぞっとして、思わず後退る。
「お兄様?」
一瞬、妹の姿が揺らいで見えた。
ずっと背の低い、幼い妹の姿が、目の前にいる妹に重なって見えた。
覚えている。
あの頃の妹は、よく甘える子だった。
頭を撫でてやると、照れたように笑う。
その姿を鮮明に覚えている。
つい昔の癖で手を伸ばすと、彼女は無邪気に笑い、頭を差し出した。
そこで、誠也の手が止まる。
「……華、何があった?」
「ん? 何もないですよ?」
きょとんとした目、表情、喋り方、仕草、その全てが、まるで演技に見えない。
「……お兄様?」
呆然としていると、華は急に不安そうな顔をして、まくしたてるように言った。
「どうして辛そうな顔をしているんですか? 華、何か悪いことしましたか? 華は悪い子ですか?」
誠也は、ただ困惑するばかりで返事が出来ない。
すると華は泣きそうな顔になって続けた。
「やっぱり華は悪い子なんですね、華のせいで、みんなが、華が悪い子だから、みんなが、みんな……あぁ、あああ、ああぁああ」
「華!」
咄嗟に妹を抱き寄せて、無理矢理に頭を撫でる。
「そんなことない。華は良い子だよ。とっても良い子だ」
幼い子供をあやす様に、優しく言う。
「……ほんとですか?」
「ああ、もちろんだ」
「……よかったぁ」
安心したような声を出して、誠也の胸に頭を擦り付けて甘える。
誠也は、自分の表情を見られないように、さらに強く頭を撫でた。
「あのね、華、良い子に戻ったよ。悪い子の華をやっつけて、良い子に戻ったよ」
「……ああ、華は良い子だ」
「うん! 華、もっと良い子になる! もっと良い子になって、もっといっぱいお兄様に褒めてもらえるように頑張るの!」
「……ああ、頑張れ」
「お兄様? 泣いてる?」
「……いや、これは咳を堪えているんだよ」
「お兄様、風邪ですか?」
「……かもしれない。移すといけないから、部屋に戻るよ」
「大丈夫ですか……?」
「……ああ、それじゃあ、また」
顔を見られないよう慎重に華から離れて、背を向ける。
そのまま走り出したい衝動を堪えながら、努めて落ち着いた足取りで、廊下を歩いた。
自分の部屋に向かうつもりは無い。
どこかに行くつもりもない。
ただ、妹の傍にいることが辛かった。
「……あそこまで、追い詰められていたのか」
二度目の角を曲がった所で、立ち止まって呟いた。
「……くっ」
歯を食いしばって、壁に拳を当てる。
そのまま崩れ落ちて、逆の手で目を覆った。
「……すまない、華。気付けなかった……気付いて、やれなかった」
原因の調査、相談、解消。
そんなことよりも、何よりも先に妹と話すべきだった。
「……すまない、許してくれ」
たった数分の会話で分かってしまった。
もう、手遅れだ。
「……違う」
まだだ。
まだ可能性は残っている。
立ち上がって、ある場所へ足を向けた。
「……彼なら、もしかしたら」
華を見たとき、もうダメだと思った。
手詰まりだった。
自分のやった事に意味なんて無かったと気付いて、頭の中が真っ白になった。
自分には、どうすることも出来ないと悟った。
だけど、まるで異なる考えを持つ人物ならば……。
彼は自分とは違う何かを考えていた。
それが何なのかは分からないが、今はそれに縋るしかない。
「……華」
やるべきことが決まり、不思議と体に力が戻った。
まだ諦めるには早い。
いや、手段が残されていなくたって、諦めてなんかやらない。
大切な妹なんだ。
絶対に、諦めない。