夢見る乙女の青春事情(7)
広い部屋に、お母様と二人。
食事を始めてから十分が過ぎたけれど、テーブルマナーを守りながらの食事は遅々として進んでいない。
会話は無く、二人の距離も、飲み物を溢しても届かないくらいに離れている。
いつも通り。
昔から、賑やかな食事という経験は無い。
ときどき会話があっても、お母様の「学校はどう? 勉強は?」という一言か二言の問いに返事をするだけ。
客観的に考えたら、険悪な関係かもしれない。だけど、私は険悪だと感じたことは無い。
尊敬しているし、母の誕生日を祝わなかった年は無い。
先程から、お母様は何かを言おうとしている。
それを読み取れるくらいには、良好な関係だと思っている。
「今日は、期末テストでしたね。学校へは行きましたか?」
「はい、勿論です」
予想していた問いに、一切の間を作らず即答した。
あの出来事について、お母様が学校と話し合った結果、私はテストで合格点さえ取れば卒業資格が得られるそうだ。
だけどきっと、お母様が気にかけているのは違う事で、当然、返す言葉も用意してある。
「……学校へ行くのは、苦痛ではありませんでしたか?」
「はい、問題ありません」
「……そうですか」
精一杯の微笑みをたたえて言ったけれど、お母様の表情は晴れない。
それで会話は終わり、互いの視線は手元の料理に戻った。
あまり味が分からない。
そう思いながら食事を続けていると、ふいにお母様の方から音が聞こえた。
つい珍しくて顔を上げると、手を止めて悲しげな笑顔を浮かべたお母様と目が合う。
「……華、無理に学校に行く必要はありません。けれど、もう貴女を苦しめていた人は、そこにはいないのです」
胃が押し上げられるような感覚に、息を止めて抗う。
「華、重ねて無理強いをするわけではありませんが、高等学校の生徒でいられるのは今だけなのです。だから……ほんの少しだけ、逃げずに向き合ってはくれませんか?」
「……ごちそうさま」
「華、待ちなさい……」
お母様の声を無視して、自室まで早足で歩いた。
「……私は、逃げているのでしょうか」
そんなことないと心の中で否定して、鍵をしめる。
真っ暗な部屋をすたすた歩いて、パソコンを立ち上げヘッドホンで耳を塞いだ。
私は、逃げてない。
マウスを操作して、ぐちゃぐちゃのデスクトップ上に表示された小さな矢印を動かす。
画面を埋め尽くすのはテキストファイルやゲームのショートカット。ここには、誰かが夢見た理想が詰まっている。
例えばそれは、恋心。
いま画面にあるテキストのほとんどは、この三ヶ月の間に私が綴った恋文だ。
恋をしている間は、いろんなことを忘れられる。
とても幸せな気持ちになれる。
だけどこれは逃げじゃなくて、言うなれば、支え。
逃げ出さない為に、心に栄養を与えているのだ。
ふと目に入ったショートカットに矢印を当てて、ダブルクリックする。
画面が一瞬だけ暗くなり、ゲームが起動した。
有名な声優さんの声で、タイトルが読み上げられる。
私は「はじめから」を押して、ゲームを始めた。
これからエンディングが流れるまで、私はこのゲームの主人公でいられる。
まるで違う環境で、違う考え方をして、違う人生を送る女の子に、ほんの一時だけ生まれ変われる。
この女の子には、ちょっとしたトラウマがあるらしい。
流れから察するに、この物語は王子様と共にトラウマを克服するという話だろう。
「……いいな」
羨ましいな。
そう思ってしまった瞬間から、私は私に戻った。
そこで起きている出来事を画面の外から眺めて、淡々と読み進めていく。
物語は、どんどん先に進む。
無感情に、無感動に、私を置いて進んでいく。
ふと、画面が停止した。
いや、私の手が止まったのだ。
私の手を止めたのは、ヘッドホンから聞こえてきた声で、その声は、今は文字となって画面上に表示されている。
しばらく漫然と眺めて、やがて私の体が震え始めた。
その瞬間、ゲームと現実が重なった。
私は椅子から転がり落ちて、四つ這いになってパソコンから離れる。
いつの間にかヘッドホンも外れて、ずっと続いていたゲームの背景音楽が聞こえなくなった。
代わりに、パソコン内で動くファンの音だけが、耳鳴りのように聞こえてくる。
体を丸めて、膝を抱えて、耳を塞いだ。
ガチガチと歯のぶつかり合う音が頭の中で響く。
……だめ、我慢しなきゃ。
どうして?
どうして我慢するの?
……辛くて、苦しいから。
どうして?
どうして辛いの?
……私が、悪いことをしたから。
そっか。
じゃあ仕方ないね。
……うん、仕方ない。
だから我慢しなきゃ。
全部私が悪いんだから。
大丈夫。私は耐えられる。
「……もうやだ」
我慢できないよ辛いよ苦しいよ。
王子様、いつになったら助けてくれるの?
何処にいるの?
「……てんてん」
思い浮かべたのは、大好きな人。
バイト先の、雇い主。
ちょっぴり無口な店長さん。
「……ごめんね、てんてん」
迷惑なのは気付いている。
それでも甘えてしまうのは、貴方が優しいから。
あの場所が、優しいから。
「……ごめんなさい」
恋をしている間は、幸せになれる。
そうじゃない時は、辛くて苦しい。
だから私は無理矢理に恋をした。
だから私は幸せになれない。
てんてんと両想いになる日なんて訪れない。
だって私は、恋なんかしていないから。
…………。
「……あはは……はははは……」
気付いちゃった。
考えちゃった。
「あははは、あはははははは」
笑って、笑って、咽せたら息を吸って、また笑う。
何回も何回も、しょっぱい息を吸い込んでは、笑う。
声が出る限り、笑い続ける。
今日、私は学校に行った。
テストを受けて、帰った。
誰とも話さなかった。
誰とも目を合わせなかった。
ただ、机の中に一枚の紙が入っていた。
笑いながら、それを思い出す。
それは偶然にも、さっきゲームで見たのと同じものだった。
その声が、頭から離れない。
どんなに大きな声で笑っても、耳を塞いでも、いつまでも聞こえてくる。
人殺し。