夢見る乙女の青春事情(6)
「妹の様子は如何でしたか?」
「……自分が見た限りでは、普段と変わりませんでした」
今日も訪れた誠也さんを事務室に案内して、話し合う。
最初こそ背筋をピンと伸ばしていた誠也さんも、徐々に余裕が失われてきたのか、今は机に肘をついて、組んだ両手に額を押し付けている。
ふと顔を上げると、此方の目を見て、苦い表情を浮かべながら目を伏せた。
「申し訳ありません。本来は身内で解決すべき問題を……持ち込んでしまって」
そう言った彼の手は小さく震えていた。
彼は、出来ることなら独力で解決したいのだろう。しかしそれは困難で、妹と関わりがあるというだけの人物に頼らざるを得ないことが、悔しくて仕方ないのだろう。
その思いが、華を大切に考える気持ちが、痛いほど伝わってくる。
「……顔を上げてください」
目線だけ上げた彼の表情は、硬い。
「……自分も、貴方の半分くらいは、華を大切に思っています」
見開かれた目が、品定めをするかのように細められる。
やがて目を閉じると、静かに呟いた。
「妹が懐いている理由が、少し分かったような気がします」
次の瞬間、彼は机に身を乗り出すと、表情に悪戯心を浮かべて言う。
「私は一割の気持ちで妹の為に死ねますが、見積もりが少し甘いのでは?」
「……はい、少しだけ甘かったかもしれません」
長い間があって、彼は初めて声を出して笑った。
そのまま背もたれに体重を預けると、とてもリラックスした様子になる。
「面白い。どうやら、貴方には不思議な魅力があるようだ。実に興味深い」
子供のような笑顔を浮かべたかと思うと、瞬時に真剣な表情に切り替わる。
「さておき、今は妹の話をしましょうか」
それは今日ここに来たばかりの時と同じ真剣な表情で、だけど自信に満ちた凛々しい表情だった。
「さっそくですが、私の意見を聞いていただきたい」
淀みなく、口を開く。
「客観的に見て、華は完全な被害者です。理不尽な行為によって、学校に行けなくなってしまった」
自分の伝え聞いた話が事実ならば、彼の言う通りだ。
華は完全に被害者であり、彼女には一切の非が無い。
「それはつまり、恐怖によるものでしょう。ですが、あまり良くない言い方ですが、元凶は、もうこの世にいません。ならば、あとは本人次第だと思うのですが、如何でしょうか?」
その通りだと思いながらも、どこか腑に落ちない。
「……少し、違うような気がします」
曖昧に否定すると、彼はパンと両手を打ち鳴らして得意気な表情を浮かべる。
「私も同じ考えです。いやはや、先程の言葉は母が言ったことなのですが、妹はその程度の弱い人間ではありません」
気を良くしたのか、いくらか声のトーンが上がる。
「つまり、まだ問題が残っていると考えるのが自然でしょう。よって、それを取り除いてやれば良いと思うのですが、貴方はどう思いますか?」
華が学校に行けないのは、恐怖のせい。
だが、彼女は実在しない恐怖に負けるほど弱くない。
故に、まだ学校には恐怖が残っている。
頭の中で彼の言った事を反芻して、なるほどと思う半面、どこか矛盾しているように感じた。
「どうやら、引っかかる部分があるようですね。分かりました。私も再考してみます」
考え込む姿から否定的なニュアンスを読み取ったのか、彼はいくらか声のトーンを落として、顎に手を当てた。
二人して考え込むと、場は異常な静けさに包まれる。
……自分は、何処に疑問を抱いたのだろう。
彼女は弱くないのに、恐怖のせいで学校に行けない。
ならば、その恐怖というのは、相当の恐怖でなければならない。
そこまで考えて、何か違うと感じた。
男達が真剣に考え事をする事務室の外で、未来とキッカは壁に背を預けながら聞き耳を立てていた。
事務室から聞こえてくる声が途絶えてから暫くして、未来は壁から離れた。
その背中を追いかけて、キッカも足を動かす。
二人は、無言のまま店の外に出た。
「……なに?」
足を止めて、振り返る。
「えっと、いいの?」
何か言わなくてもいいのか。
「……あんたは?」
「わたしは、いい、よ?」
聞き返されて、キッカは即答する。
未来は「ふーん」とつまらなそうな声を出して、振り返り歩き出した。
その背中を追いかける。
「……なに?」
「かえる、よ?」
途中まで、同じ道。
「てんちょの、こと、信頼してるみたい、だね?」
特に前振りもなく声をかけると、未来は足を止めた。
その横を数歩通りすぎて、キッカも足を止め振り返る。
「……べつに」
呟くように言って、早足で歩いた。
キッカも歩調を合わせて、それに並ぶ。
「……なに?」
「べつに?」
未来はムッとして目を細め、それを見てキッカは小さく笑った。
「何か思い浮かびましたか?」
静かに首を振って、何も浮かばなかった事を示す。
長考の間、断片的な考えが浮かんでは、その形が整わないままに消えていった。
何かが引っかかっている。
なのに、その何かがどうしても分からない。
「では、何を考えていましたか?」
彼は質問を変え、真剣な目で此方の表情を窺っている。
恐らく、明確な答えは求められていない。
何が引っかかったのか、何処に疑問を覚えたのか、彼は彼自身には思い浮かばない意見を求めているのだ。
その点について、自らに問い直す。
考えて、考えて、ようやくひとつの答えを見つけた。
それは単純に、自分と彼の考えが全く異なるということだ。
言葉にするならば、
「……前提が、間違っていると思います」
「前提、ですか」
言ってから、ただの否定だと気付く。
果たして、誠也さんは頭を抱えて重々しい息を吐いた。
「……すみません、忘れてください」
誤魔化すように言って、だけど返事は返ってこなかった。
見ると、彼は高速で口を動かして何かを呟いている。
それは、次々と浮かぶ考えを精査しているかのようで、やがて口の動きが遅くなり、止まった。
「……なるほど」
彼は呟いて、小さく頷く。
どうやら結論が出たようだ。
「ありがとうございます。おかげで、一歩前進しました」
そして顔を上げ、思わぬ言葉を口にする。
「恐らく、妹を苦しめた、いや、苦しめている人物が自殺したというのは、真っ赤な嘘だ」
「……嘘?」
「はい。まずは、その人物についてですが、裁判に負けた後、自責の念に耐え切れず自殺したという事になっています。事情が事情ですので、葬儀は身内だけで行われたそうですが……貴方が仰るとおり、前提がおかしい」
ピンと人差し指を伸ばして、
「ひとつ、彼女が妹に手を出したのは、自らの地位を上げる為です」
「……地位?」
「はい。あまり馴染みの無い考えでしょうが、自分が一番でなければ気が済まないと考える人は少なからず存在します。ようは、プライドが高いのです」
その声が、徐々に怒りの色を見せる。
「つまり、そのちっぽけなプライドを満足させる為に、華を……そんな傲慢で愚かな人間が、果たして真っ先に自殺など考えるでしょうかっ?」
机に乗せられた拳は強く握りしめられ、小刻みに震えている。
「そんなことはありえない!」
ありったけの力で叫んで、荒々しく肩を上下させた。
その憤りを押さえつけるようにして身を縮ませ、長く深い呼吸を繰り返す。
「……失礼、取り乱しました」
彼は申し訳なさそうに呟くと、あらためて大きな息を吐く。
それから立ち上がって、早口に言った。
「すみません、直ぐに情報を集めます。また、何か分かり次第連絡します」
トンと、思ったよりも静かに閉じられた扉を見つめて、数秒間は息をするのも忘れていた。
やがて時計の針が動く音によって意識が引き戻され、全身が緊張していたことに気付く。
脱力して、直前に彼が言っていた事を思い出す。
なるほどと思ったし、その怒りにも共感できる。
だけど、それでも――やはり前提が間違っているという感覚が、どうしても消えなかった。