金髪少女の母親事情(終)
その日は眠れなかった。
母親の浮気が原因で両親が離婚。
精神的に衰弱した母親を支えるも、後に蒸発。
そこに追い打ちをかける出来事。
自分なんかが聞いても良い話だったのかと考える度に、唇を強く噛んだ。
逃げる事は許されない。
考えなければならない。
関わってしまった責任がある。
彼女が怒っていた理由は分かった。あの親子の関係が昔の自分に重なって見えたのだろう。大まかな話を聞いただけでも胸が痛んだのだ。当人の心情は察するに余りある。
だが自分がすべきは同情なのだろうか。すまなかった、知らなかったのだと謝罪する事だろうか。
否だ。彼女は強い。
逃げずに、きっと泣き言ひとつ言わずに立ち向かったのだ。それを踏みにじるようなことは許されない。
そのうえで、自分は何をすべきか――
時間が流れるのはあっという間だった。
気付けば朝で、何時の間にか日が沈んでいた。
矢野さんとはあれ以来なにも話せていないが、バイトにはきちんと来てくださっている。
だた、彼女は黙々と仕事をして帰るだけで、何も言ってはくれない。声を掛けても返事は無い。
「……矢野さん」
更衣室から出てきたところに声をかける。彼女は目も合わせず横を通り過ぎた。
予想通りの反応だ。仮にこのまま放置したなら、そのうち時間が解決してくれるのだろうか。いや、そもそもバイトと店長というだけの関係なのだから、いつか自然消滅するだろう。そう考えると、ここで自分が何かする意味は無いのかもしれない。厄介事に手を出さず、自然消滅させる方がきっと楽なのだ。
そうだ、ここで逃げるという選択をする方が客観的に見て自然なのだ。彼女もきっとそれを望んでいる。
だから踏み込むのは、きっともう客観的に考える事なんか出来ないせいだ。
「お母さんのこと、聞きました」
ちょうど出入り口に手を伸ばしていた矢野さんが、ぴたりと動きを止めた。
「……は?」
久しぶりに声を聞いたような気がする。
「先日、妹さんと、お婆さんが来ました」
舌打ちして、伸ばしていた腕を下ろした。
ゆっくり振り返った彼女の突き刺さるような視線を受ける。だが不思議と、怖いとは思わなかった。
「矢野さんが怒っていた理由は分かりました」
もう一度舌打ちして、あのババアと呟いて息を吐く。
「んで? だからなに?」
ふいに、口元が緊張する。
言葉に詰まったわけじゃない。それは昨日のうちに、いや、この瞬間までにきちんと準備してある。だがいざとなると、やはり考えてしまう。本当に、この答えで良いのだろうか。
「さっさとしてくんない? みく暇じゃないんだけど」
ゆっくりと、自分を落ち着かせるように息を吸う。
「だから……謝りましょう」
彼女はぱちぱちと瞬きをして、
「は?」
と、心底意表を突かれたような表情で言った。
この反応を見ると、やはり間違ったのかと泣きそうになる。だが、もう解を出してしまったのだ。このまま続けるしかない。
「ともかの母親に、謝りましょう」
「意味分かんねぇし。なんでみくが」
「矢野さんには確かな根拠があったのかもしれませんが、彼女の立場になって考えれば、理不尽な罵倒を受けたとは思えませんか?」
「……知らねぇよ。つか、しつけぇし。べつにどーでもいいじゃん。もう終わった事だし」
「それは嘘だ。ともかの事をどうでもいいだなんて思えるはずがない」
自分にしては珍しく堂々とした声が出た。そのせいか彼女は驚いたような表情を見せた。
「貴女が、とても優しい表情でともかを見ていたのを覚えています」
彼女は目を伏せると、髪を弄りながら呟く。
「……うるせぇよ」
その子供が拗ねたような態度は、もうそのまま答えだった。
やはり彼女はともかの事を気にしている。これだけは確認しておきたかった。
これで、言える。
お腹に力を込めて、覚悟を決める。
前提から間違っているかもしれないけれど、これが、自分の出した答えだ。
「いい加減にしなさいっ」
なんとか声は裏返らなかった。
確かに矢野さんは強い。
当時中学生だった彼女が、自らの境遇に一人で立ち向かったのだ。それは並大抵の事じゃない。そこらの大人なんかよりもよっぽど凄い。
だが、だからこそ、彼女には限界がある。
一人でやるのは悪い事じゃない。むしろ尊敬すべき事だ。だが一人で頑張れば頑張るほど、一人でしかいられなくなる。困った時に人を頼れなくなってしまう。いずれ限界が訪れる。
そんな時、道を示してやるのが大人の役目だ。だけど彼女には親がいない。道を示してくれる先駆者がいない。
自分は決して優れた人間じゃない。
だけど、間違っていると感じるくらいは出来る。
なら、それを口にするには少しの勇気があれば足りる。
「貴女がやっているのは、母親と同じだ」
直前まで状況が掴めていないような表情をしていた矢野さんの目が、ギロリと細められた。
「……ふざけんなよ」
「同じだ。何も説明せず、一人よがりな行動で周りに迷惑をかける」
「違う!」
「どこが?」
「……」
言葉に詰まる。きっと、一番それを感じているのは、彼女自身だからだ。
「謝りましょう」
「謝らない。みくは悪くない」
「謝りましょう」
「うっせーばか! ほっといてよ! あんたには関係ないじゃん!」
「そんなことはありません。もう関わってしまったのだから」
いつもより何倍も鋭い目で睨まれる。だけど目を逸らすわけにはいかない。
「なにそれキモい。あんたただの店長じゃん。で、みくはただのバイト。プライベートな所まで関わってくんなよ!」
「なら、最初からともかを預けたりしなければよかった」
「……ロリコン」
予想外の言葉に一瞬だけ戸惑って、直ぐに意味を理解する。
「いいえ、ともか以上に、貴女の事が大切だ。そうでなければ、そもそもあんな頼み事は断っています」
「……意味わかんない」
「感謝しています。貴女のおかげで、まだこの店がある。大切な場所を守ってくれた貴女に、少しでも恩返しがしたい」
出てきた言葉は用意してあったわけじゃない。
「貴女が苦しんでいるのに、無視する事なんて出来ない」
「だから意味分かんねぇよ! さっきから偉そうなことばっか、バカにすんな!」
力強く言いながら、此方に詰め寄った。
身長差のせいで見上げられる形になっているけれど、まるで遥か高い所から見下ろされているような感覚だった。そしてこれが、自分と矢野さんの差なのだろう。
「……その通りだと思います」
「じゃあもう黙ってろよ!」
「それは出来ません」
まさに雲の上の存在だ。手を伸ばしたって到底届かない。そんな事は分かっている。
だからこそ声を届けるのだ。精一杯背伸びして、伝えるのだ。
「せめて、貴女の涙くらいは止めてやりたい」
矢野さんはグッと口元を引き締める。
「……泣いてない」
その言葉は、弱々しく震えていた。
そうだ、これまでの言葉は用意してあったわけじゃない。ここまで彼女と対峙して、まとも口を利けるなんて思っていなかった。
だけど臆せず声を出せたのは、この涙のせいだ。
「……謝りましょう」
「やだ!」
駄々をこねる子供のように叫ぶ。
「絶対やだ! みくは悪くない!」
「……それは少し違います。悪いから謝るのではありません」
「じゃあなんで」
「……話をするために、謝ることもあります」
「話?」
「はい。矢野さんにしか伝えられない言葉があります。ともかの為に、なにより、貴女自身の為に、それを言うべきだ」
彼女は目を伏せると、一歩下がった。
暫くそこで俯いて、やがて口を開いて、だけど閉じる。
それから振り返ると、そのまま扉へ向かった。
扉を開いて、動きを止める。
「……いってらっしゃい」
きっと勘違いでは無いと信じて言葉をかけると、彼女は音を立てて扉を閉めた。
彼女は自分なんかより強い。
やるべきことが決まれば、後は自身の力でどうにかしてしまうだろう。
いや、呆れられてしまっただけという可能性もあるが……大丈夫だろうか?
緊張が解けたせいで、一気に体の力が抜けて、その場にへたりこんだ。背中から嫌な汗が出てくる。
本当に、大丈夫だろうか?
自分は、彼女に道を示すことが出来たのだろうか? 怒らせただけではなかったのだろうか?
……考えても仕方ない。
今はただ、信じよう。
次の日の午後五時くらい、珍しく来客があった。
一人の若い女性客で、髪は黒く、真っ直ぐに伸びている。
「……いらっしゃいませ」
彼女は一瞬だけ目を合わせると、直ぐにショーケースに目を移した。
そして、品を指さす。
「……アップルバイを、おひとつ?」
頷いて、次の品を指さす。
リングドーナツ、チョコレートケーキ。
アップルパイと合わせて、三点。
彼女は一言も発さないまま商品を購入し、そのまま帰った。
純粋に売れた事を喜びつつ、ふと思う。
誰かに似ているような気がした。
ぼんやりと外を見ながら、もやもや。
たっぷり三十分くらいかけて、そういえば、フランスではチョコレートケーキのことをガトーショコラと呼んでいた事を思い出す。
そんなちょっとした異文化交流がおかしくて、思わず頬が緩んだ。
さっき智花達と話をしてきた。言いたい事は全部言ってやった。ちゃんと伝わったと思う。あとは智花が頑張るだけだ。
逃げんなよ。ちゃんとママのこと、叱ってやれよ。ちゃんと、私は私だって、言ってやれよ。
あっちの事情とか、あんま知らないから、見当違いのこと言ったかもしんないけど……多分、大丈夫だ。
最後に智花の目を見た時、そう思った。
さておき、むしゃくしゃする。
あのバカのこともそうだけど、何より自分の事だ。
そもそも、あのバカには、そこまでムカついてない。
ムカついてるのは、嬉しかったとか思ってる自分の事だ。
今まで、ずっと一人で頑張ってきた。
みくは強くなったんだ。
なのに、あのバカに怒られて、安心しちゃってる。
自分の事を真剣に考えてくれたことを、喜んじゃってる。
だからむしゃくしゃする。
あまりにもイライラするから、とりあえず、買ってきた洋菓子から適当にひとつ選んで口の中へ突っ込んだ。
悔しいけど、やっぱり美味しい。
それは甘くて、ちょっぴり苦い、チョコレートケーキだった。
以上、金髪少女の母親事情でした。
少しでも心がぴょんぴょんしていただけたなら幸いです。
謎の黒髪美少女が買った物には意味があります。