金髪少女の母親事情(5.5)
普段通りカラスの行水というわけにはいかず、たっぷり時間をかけてから部屋に戻ると、ちょうどともかが眠ったところだったらしい。
少し膨らんだベッドに手を乗せた矢野さんが、口元に指を当てながら振り返った。
頷いて、椅子に座る。
矢野さんは一度ともかを振り返ると静かに立ち上がり、机を挟んだ向かい側に座って息を吐いた。
「なーんか、無駄に疲れた」
「……お疲れ様でした」
「てめぇのせーだ。ばーか」
「……すみません」
ともかを起こさないように、小さな声で話す。
矢野さんは体を後ろに倒すと、ともかに顔だけ向けて言う。
「けど、まぁなんつーか……子育てって、こんな感じなのかな」
「……子育て?」
「おー。親の気持ちっての? すっげぇ疲れるけど、それなりに楽しいっていうか……こんなんなら、ずっと続けていたいよなって思って」
その何気ない一言に、妙に緊張してしまう。
彼女の横顔が、まだ少しだけ湿っている髪が、妙に艶やか見えてしまう。
いけない、と首を振った。
「なにしてんの?」
「……いえ、その、眠気を払おうと」
「ダウト」
見破られてしまった。
「なに? もしかして変なこと考えてる? キモ」
髪をくるくるしながら、そっぽを向かれてしまった。
これから大事な話をするというのに、我ながら情けない。
すみませんと謝りかけた時、矢野さんが何かに気付いたように目を見開いて、バッと振り返った。
そのまま勢いで机を叩き、直ぐにハッとして後ろを見る。
ともかが寝ていることを確認すると、なんとも言えない表情をしながら振り向いた。
「……そういう意味じゃないから」
俯き、肩を小刻みに震わせている。
「みくは、思ったこと言っただけっていうか、べつに、あんたととか、そういう意味じゃなくて……勘違いしてんじゃねぇよ」
「……すみません」
怒られているはずなのに、妙に照れる。そんな雰囲気になってしまう。
「……」
「……」
深夜、ともかが寝ているとはいえ、ほぼ二人きり。そして沈黙。
いけない、他の事を考えなくては……そうだ、矢野さんからは嫌われているのだった。そう考えれば、変な気など起きようもない。
全て自分の勘違いなのだ。
矢野さんは、発散できない怒りに震えているだけ。
この雰囲気はただの自意識過剰。
だって彼女は、
「……分かっています。矢野さんに嫌われていることは、理解しています」
自分で言って、少し胸が痛む。嫌われるというのは、良いものではない。
矢野さんは少しだけ顔を上げると、口元を緊張させながら目を逸らした。
「なにそれ、なんか、みくがいじめてるみたいじゃん……」
「……いえ、そんなことは」
「てか、言ったじゃん」
「……?」
「すっごく嫌いってわけじゃない。これ、嘘じゃないから」
「……」
何か言おうと動かした口から、何も出てこない。
口を閉じて、唇を噛む。
「……ともかについて、聞かせてください」
なんとか話題を変えようと絞り出した言葉は、少しだけ震えていた。
矢野さんは息を吐くと、気持ちを切り替えるようにして上を向いた。
そして、先程までとはまるで違う表情を見せる。
「智花のこと、どう思った?」
「……どう、とは?」
「そのままの意味で」
「……大人しい、子供だなと」
「他には?」
言われて考える。この二日間ずっと一緒にいたが、特別おかしいと感じた事は無い。
あえて述べるなら、兎だろうか。周りの人の協力によって服は日々変化しているが、あの兎だけは変わらない。今も抱いて眠っている。
「普通の子だって、思わなかった?」
頷く。
「そこが、おかしいとこ」
「……というと?」
「智花とは、電車の中で会った。なんつうか、自称家出?」
「……家出」
あんな小さな子が?
「そ、おかしいっしょ?」
「……はい。あんな小さな子が」
「ちげぇよばーか」
少しだけ俯き、
「なんで普通の子供が家出してんだよ」
言われてハッとした。
ともかが中学生くらいで何か問題のある子ならば家出をしても自然だが、そうではないのだ。
「……何が、あったのでしょうか」
「な、おかしいだろ。そこで、探偵みくちゃんは智花のママに会ってきました」
ピっと人差し指を立ててさらりと言った。
なんて仕事の早い人なのだろう。
「智花、家出は初めてじゃないらしい」
驚いた。
「……母親は、どのような方でしたか?」
矢野さんは短い間だけ目を閉じて、僅かに俯きながら言う。
「ふつー、普通だったよ。みくの知ってる、普通のお母さんって感じ」
「……では、父親の方に問題があるのでしょうか」
「いや、違うと思う」
ゆっくりと首を振り、
「多分だけど、智花のパパ、もういないんじゃねぇかな」
彼女は少しだけ悲しそうに、とても真剣な声で言った。
「……訳を、聞かせていただけますか」
「勘」
「……どういうことでしょう?」
「だから勘だよ勘。直感。シックスセンス」
それに通ずる何かがあったということだろうか? 出来ればそれを説明していただきたいのだが、その気は無いらしい。よっぽど話し難い内容なのだろうか。
仮に、矢野さんの感が当たっていたとして、それが家出の原因になるのだろうか。
父親がいなくて寂しいという気持ちは理解できる。だが、母親と本人が正常なのだから、家出の理由にはならないはずだ。
何か他の原因があるに違いない。
……どんな? どんな事があれば、小さな女の子が何度も家出をする?
原因は考えるまでもなく家庭の事情だ。
だが親にも当人にも問題は無い。
母親は矢野さんが、ともかは二日間一緒にいることで確認できている。
となると父親……いけない、同じ考えを繰り返している。
何かが欠けている。原因を特定するには、何かが足りない。
「……矢野さんは、どう思いますか」
それを確かめようと、実際に母親と話した矢野さんに問う。
彼女は考え込むように目を伏せ、やがて小さく首を振った。
……当人にも親にも問題は無い。それでも、小さな女の子が家出する程の事情。
「……二人は、どんな会話をしているのでしょう」
考えた末に呟くと、矢野さんは少しだけ驚いたような顔をした。
個々が普通だからといって、二人でいる時も普通とは限らない。自分も矢野さんも、それぞれの外面しか知らないのだ。
「ねぇ、なんでそう思ったの?」
「……親子の仲が、気になったので」
言葉にして、考えていたことがスッキリした。結局、気になったのはこの部分だ。
「そっか。みくも気になったから、さっき聞いてみた」
「……なんと言っていましたか」
「パパの話だってさ」
吐き捨てるように言った。なんだか不機嫌だ。
「……他には?」
恐る恐る問うと、察しろとばかりに目を細められた。相当に怒っているらしい。
先程から、具体的な部分をはぐらかされてばかりだ。話し難いということは理解出来るが、これでは何も分からないし何も出来ない。なにより、矢野さんの考えていることが分からない。
彼女は、どうしたいのだろう。
「……何か、手伝えることはありますか?」
言うと、矢野さんは何故か呆れたように口を開けた。
「あんたさ、怒ったりしないわけ?」
「……なぜ?」
答えると、彼女はいっそ呆れた表情で苦笑いした。
怒る……母親の事だろうか。ともかと父親の話をしていることしか知らないというか、流石にそれだけで怒れなんて無茶な要求は……などと考えていると、矢野さんが前髪をくるくるしながら「あー」と声を出した。
「そういうことじゃなくて、なんていうか……なんでもない。忘れて」
「……分かりました」
こんな言われ方をしたら気になってしまうが、忘れろと言われれば従うしかない。
「えっと、なんだっけ、手伝い?」
「……はい」
「んじゃ、今度ともかのママ呼ぶから、付き合って」
あっさりと言って、
「いるだけでいいから」
「……はい。では、明日にでも」
「いやいや、店どうすんだよ」
「……キッカさんに、お願いします」
「べつに、月曜休みっしょ? その日でいいよ」
「……しかし、こういう事情なので」
「いーよ、迷惑かけたくないっつーか、いまさらだけど」
「……迷惑なんかではありません。もう、こうして関わってしまったのだから、出来る限りの事はさせてください。いえ、個人的に、してあげたいと思っています」
共に過ごした時間は短いけれど、もうともかの事を他人だなんて思えない。出来る事があるのなら、してやりたい。
誠意を持って矢野さんの目を見続けると、やがて大きく息を吐いた。
「わぁった。じゃー明日。時間は、五時くらいでいい?」
「……はい。場所はどうしましょうか」
「このマンションの近くに公園あったっしょ? あそこで」
「……分かりました」
明日の午後五時に、近くの公園。
「ん、じゃー決まりで」
しっかりと頷く。
会話が終わり、思ったよりも緊張していた体から力を抜くと、自然と息が漏れた。
それは矢野さんも同じなのか、正面から同じタイミングで音がした。
「なに?」
「……いえ」
なんだかおかしくなって彼女を見ると、鋭く睨まれた。
逃げるようにして目を逸らした先に時計があった。見ると、二時を少し過ぎたところ。
「……このあとは、どうしますか?」
「どーって、眠い。すぐ寝る」
「……分かりました」
目蓋を擦りながら立ち上がった矢野さんに続いて立ち上がる。
時間も時間だ。家まで送っていこう。そう思って外に向かうと、後ろから声を掛けられた。振り向くと、ベッドに手を置いた矢野さんが、とても眠そうな目で此方を見ていた。
「なに、まさか帰れとか言うつもり?」
「……」
声が出なかった。
パジャマ姿を見た時から、まさかとは思っていたが、果たして泊まるつもりだったらしい。
「……いえ、どうぞ、ごゆっくり」
「なにきょどってんの、キモ」
言いながら、静かにともかを跨いでベッドの奥に行くと、そのまま布団に入った。
確かに、この時間に帰れという方が不自然なのかもしれない。考えてみれば、寝床を提供するだけなのだし、何もおかしいことはしていない。意識過剰なのだ。
自分に言い聞かせるようにしながら寝る場所を考えていると、ふいに矢野さんが声を出した。
「なにしてんの、まだ入れるっしょ」
ビクリとしながらベッドの方を見る。確かに、無駄に大きなベッドは、まだ一人分くらいのスペースを残していた。
冗談だろうか。壁の方を向いてしまっているから顔が見えないので、判断に困る。
「べっつに、寝るだけでしょ。間にともかいるし。あと、床とかで寝られると、なんか気分悪いし」
わりと悩んで、
「……では、失礼します」
「ばーか。あんたのベッドじゃん」
こそこそと布団に入って、ベッドの縁に取り付けたリモコンのボタンを押して電気を消す。
「……おやすみなさい」
「おー」
妙に緊張してしまっている自分と違って、矢野さんは眠いという感情しかないようだ。
そのことに安堵しつつ、どうしても高まってしまう鼓動を静める為に明日の事を考える。
当の本人であるともかは、疲れていたのかぐっすりと眠っているようで、小さな寝息が規則正しく聞こえてくる。
いろいろ疑問があるというか、どんどん増えているけれど、明日には、少しは解決するのだろうか。
そして、自分には何か出来る事があるのだろうか。
無いなら、それでも構わない。
とにかく、ともかにとって良い方向に事が進みますように。
すっかり静まり返った空間で、小さな寝息を背にしながら、ずっと、そんなことを考えていた。