洋菓子店の経営事情(3-4)
「キッカさん、本日の売り上げは如何ほどでしたか?」
閉店後、私服に着替えた華は事務室で作業をしているキッカに声をかけた。
「少し待って、ね」
言って、手元にあるノートパソコンを操作する。
華は少し近寄って、画面をのぞき込んだ。
「59万8400円……これは例の売り上げも含んだ額ですか?」
「うん、そう、だよ?」
「お店だけだと、どうなりますか?」
「57万2200円、だよ」
「……あまり変わっていませんね」
「うん。でも、丸井さんの、おかげで、少し伸びた、よ?」
「いえ。ところで、ゼアレクの売り上げはどれくらいなのでしょう?」
「……たぶん、百万円以上、だよ」
「ひゃく……」
二人はパソコンに表示された数字を見ながら、難しい顔をする。
「ごめん、ね。お店のこと、なのに」
「とんでもありません。私も、勝ちたいと思っていますから」
グッと拳を握りしめて見せる。
キッカは少しだけ困った表情を浮かべて、ありがとうと小さく言った。
「もうさ、値上げするしかなくない?」
突然の声に、二人は少しだけ驚きながら振り向いた。
「矢野さん、いつのまに……」
「わりと前。で、どう? 値上げ」
未来の提案を受けて、キッカは思案顔になる。
……現在の需要を考えれば、値上げによる売り上げ向上の可能性は高い。
だから個人的には賛成。
でも、今の値段は彼と話し合って決めたものだ。あまり変えたくない。
「私は反対です! 安いから毎日来られるっておねえちゃ、お客さんが言ってました!」
二度目の不意打ちに、今度は三人揃って振り向く。
「値上げつっても、ほら、また消費税上がるじゃん?」
「でもでも、法人税は下がるってテレビで言ってました!」
「いやここ個人経営っしょ? 関係なくね?」
「…………」
表情を固めて、ぱくぱく口を動かす。
「反対です!」
苦し紛れの一言。
未来は無視してキッカに話を振った。
「で、どう?」
「……てんちょ、と、相談する、よ? ありがと」
「ん。そういやあいつは?」
「明日の準備、だよ?」
準備? と未来が眉をしかめる。
「ケーキです! スポンジを作って置いて、一日寝かせると美味しくなるんですよ! ふふん」
「…………あいつ何時間働いてんの? 過労死するんじゃね?」
未来の呟きに、今度はキッカが得意気な表情で答える。
「学生の頃、は、もっとだった、よ?」
だから大丈夫、と胸を張る。
ふーんと言いながら、未来は心の中でパティシエってマジブラックと呟いた。
「……せっかくなので、皆さんでいろいろ考えませんか?」
会話が途切れたのを見計らって、華がパンと両手を合わせながら言った。
他の三人はそれぞれ違うことを言いながら、頷く。
果たして、店長を除いた四人による『作成会議』が始まった。
「では、思い付いた方から、どんどん意見を出しましょう」
言い出しっぺの華が、ホワイトボードの前に立って言った。
他の三人はいつもの席に座って、うーんと呻る。
「新メニューとか、どうですか?」
「あー、限定とか言ってぼったくんの? いいんじゃね?」
「違います! そうじゃなくて、こう……」
わたわたと、両手を振りながら自らのイメージを伝える言葉を探す。
「お客さんに喜んでもらえるようなやつです!」
残念ながら、出てきたのは抽象的な言葉だった。
なんとか意図を汲み取ろうと華が頭を働かせるよりも早く、キッカが返事をした。
「ちょっと、難しい、よ?」
「どうしてですか?」
「作るのは、てんちょ、一人。メニューが増えると、たいへん、だよ?」
「……そう、ですね」
しょうぼりと、真帆は肩を落とした。
彼女を元気付けるようにして、華が次の言葉を紡ぐ。
「では、新たなアイデアではなく、今あるものを生かすアイデアが求められるということですね」
「けど値上げはさっき言ったから……別の案って、なんかある?」
「そうですね……キッカさんのアイデアのおかげで、回転率はこれ以上無いくらいですし、他となると……」
言葉は続かず、華は唇を噛んだ。
と、しょんぼりしていた真帆が、ふと思ったことを口にする。
「かいてんりつって、なんですか?」
思わぬ一言に、華は笑った。
「あれっ、知らないとダメな言葉でしたか?」
「いえ、ごめんなさい」
涙目になった真帆に向かって、華は微笑みかける。
「分かり易く言えば、お客さんの待ち時間のことです。今より短くするのは難しいので、他のアイデアを考えようとしていました」
「なるほど。ごめんなさい、こんな質問してしまって……」
「いえ、おかげで肩の力が抜けました」
華と同じように、キッカと未来も脱力した。
少しリラックスした様子で、キッカが続ける。
「やっぱり、今あるもの、かな?」
「そうですね。何か商品になりそうなもの……」
「うーん、金になるものか……」
「お客さんが欲しがるもの……」
何か無いか、四人は目を閉じて、営業中の映像を思い浮かべる。
「……結城、さん。おねえちゃん。一回、百円」
「いや待てこらキッカ。落ち着けし」
「でも、お客さん、喜びそう、だよ?」
「キャバクラじゃねぇかっ」
ないない、と未来が手を振る。
「……矢野さん。罵倒。一言、百二十円」
「便乗すんなバカ」
「ですが、ほとんどそれを目的に来ているお客様もいるように思われます」
「ここ洋菓子店! てか喫茶店! そういう店じゃねぇからっ!」
トン、トンと、人差し指で少し強めに机を叩きながら抗議する。
「……店長さん。サイン。一枚、二千円」
「たけぇよっ」
「安いですよ! 私なら一万円以上出せます!」
「てめぇが欲しいだけじゃねぇか……」
頭を抱えつつ、未来は真面目な意見を出そうと頭を働かせる。
「普通に、もう一個どう? とか言って押し売りすればいいんじゃねぇの?」
「「「おおぉぉぉ……」」」
未来は右手を握りしめ、ゴンと椅子を叩いた。
それから不機嫌そうに言う。
「そういや、敵の店はどんな感じなの?」
「敵って……ゼアレクですよね?」
「そ。誰か行ったことねぇの?」
「一応、あります」
「は? なにこの裏切者」
「違います! 店長さん一筋です!」
「はいはい。で、どんな感じだった?」
「ええっと――」
広くて綺麗なお店で、見た目の良いお菓子がいっぱい。
そんな内容を、かいつまんで話す。
「それから、びっくりするお値段のお菓子がありました」
「どんな?」
「ええっと、確か一日十個限定で……なんと、二万円」
「は? なにそれ誰が買うの?」
「開店後一分以内に売り切れるそうです……」
「マジかよ……」
未来と同じように頬を引きつらせながら、華が少し明るい声で言う。
「数量限定ということなら、可能なのでは?」
「店長さんの限定商品……すっごく食べてみたいです!」
「あいつ、なんか作れんの?」
未来の問いを受けて、キッカの頭の中にいくつかのお菓子が浮かぶ。
「……小さな、お菓子なら、いっぱいある、よ?」
浮かない表情。
学生時代にチーム戦で作った四角いパンナコッタや、アマレッティ。
売れそうなお菓子は有るけれど、どれも数量限定と銘打って売り出すような品じゃない。
「てんてんへの負担を考えると、難しいですね……」
「結局そこかよ……もうムリじゃね?」
「みく、もう少し、考える、よ?」
「……あーい」
完全に流れは停滞へと向かっていた。
そんな中、真帆は最初のアイデアについて考え直す。
「あ、あの……」
控えめに挙手をした真帆に、三人の視線が集まった。
彼女はまだ考えがまとまらないまま、たどたどしく話し始める。
「みんなで作れば、いいんじゃないですか?」
「はぁ? それじゃ誰が接客するんだよ」
「そうじゃなくて、えっと、クッキーとかを事前に作っておいてですね……」
「みく達でってこと? それ売れんの? みく免許とか持ってないよ?」
「め、免許とかいるんですか……?」
「管理者が、一人、いれば、問題ない、よ?」
「……ふふん」
「……うざ」
こんな具合に、彼女達はかなり遅い時間まで話を続けた。
傍から見れば楽しそうに、でも本人達は途中で扉が開いたことにも気付かないくらい真剣に。
彼は少しの間だけ彼女達を見守り、何も言わずに店から出た。
季節の割に冷たい風で熱くなった右腕を冷やしながら、空を見上げた。
相変わらず、綺麗に星が見える。
「……ようやく出てきたか」
なんとなく、予感していた。
「……お久しぶりです。ダニー」
二度目の再会。
だけどこれは、初めての再会でもあった。
「やっとまともな話が出来そうだ……嬉しいよ」
「ええ、自分も同じ気持ちです」
昔と同じように、二人は簡単な英語で話を始める。
「あらためて聞こう。約束は、覚えているな?」
「……ええ、もちろん」
「言ってみろ」
「自分の店を持って、日本一にする」
「ふん、どうやら苦戦しているようだが?」
「返す言葉もありません」
静かな夜の街、とある路地。
二人の声だけが反響する。
店長は……ナーダは、ダニエルから目を逸らさずに言う。
「本当に、ごめんなさい」
「それは、何について謝っている?」
「自分のせいで、ダニーの利き腕を奪ってしまった……」
「……そうか」
少し、予想外の反応だった。
ダニエルは空を見上げ、深く息を吸う。
「お前は、俺が恨んでいると思っていたのか……」
そのまま自嘲するようにして笑い、静かに言う。
「あの時、俺はお前たちの面会を拒絶した。それは事実だ。だがそれは、お前を恨んだからじゃない。ただ、顔を見せたくなかったからだ……みっともない姿を見せたくなかったからだ……」
「……」
明らかになった真実を前に、ナーダは言葉を失った。
そんな友人の顔を見ながら、ダニエルは続ける。
「だから、おまえを恨んだのはその後だ。俺は約束を守る為に、必死でリハビリを続けた。どうにか動く左腕を使って……死にもの狂いだった。その間、おまえのことが気になっていたよ。だが、ちょっとした噂すら耳に入らない。どうしても気になって日本に来てみれば、あの様だった」
だけどそれは、
「俺が原因だったんだな……」
「そんなことはありません。ただ、自分が不甲斐なかっただけです」
「……そうか」
そう言って、目を閉じた。
そのまま長い間、彼は動かなかった。
ナーダはダニエルを見たまま、言いようの無い緊張感に唇を噛む。
やがて、額に滲んだ汗が頬を伝い、地に落ちた。
まるでそれが合図だったかのように、ダニエルは口を開く。
「……決着を付けよう」
きっと他にも言いたい事はあった。
そのうえで、彼はたった一言、最も伝えたかった言葉を口にした。
ダニエルが目を開き、二人の視線がぶつかりあう。
ナーダは何も言わず、ただしっかりと頷いた。
返事は、それで十分だった。
ダニエルは一瞬だけ満足そうな表情を見せて、振り返った。
そのまま何も言わず、路地を後にする。
気付けば、八月も残り三週間。
ゼアレクとスタリナ。
売り上げ大会という、同じ舞台で競い合う。
昔はライバル同士だった。
今は、明らかな差がある。
だけど二人とも、そうは思っていない。
……自分も、今日はもう少し残ろう。
ダニエルが去ってから数分後、ナーダは厨房へと足を運んだ。
途中で賑やかな声に頬を緩めた後、ふと表情が元に戻らない事に気が付いた。
理由は分からないけど、ただ、どうしようもなく――楽しい。