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散華月

作者: 叢雲アキラ

 ――出来る事は全部やってきた。

 私を馬鹿にした奴等を見返す為に、必死で勉強した。

 都で皇帝に仕えてる親戚のお兄さんが、試験の年に特別に持ってきてくれる科挙の問題も、毎回得点八割以上キープ出来るようになった。

 まあ、私は女だから実際の試験は受けられないし、意味なんて無いのは判ってる、けど。

 今では十代後半にして村長の補佐を務める私を迂闊に馬鹿にするような奴は、少なくとも表立っては誰もいない。

 それだけで十分だ――




 月明かりの下、金糸は天の川の如く風に揺らめく。

 少女――扈星蘭こ・せいらんの美しいその髪も、濡れ羽の髪を美となすこの国では奇異の象徴でしかなかった。

 金と赤の髪色は『赤毛』。かつて妖魔の多くが有した髪色だから醜いと、不気味だと嘲られ、蔑まれる。

 たったそれだけの事。害も為さない星蘭はそれだけで、周囲の嘲笑を受けた。

 まだ、そんな周囲を見返すだけのものを持っていなかった頃、星蘭は度々、村の近くの山中に足を運んでいた。正確には、其処にある泉に。

 魚も棲まぬ程に澄んだ水は、しかし星蘭には有難かった。飲めば蟠りが芯から清められる思いがした。浴びれば苛立ちが瞬く間に流される気がした。星蘭にとってこの山中の泉とは、自らにこびりつく穢れを洗う場所なのだ。

 口に含んで喉を潤す。そして身を洗い清めようと、自らの服に手を掛けようとして――止めた。

 近くの茂みが音を立てる。

(誰かがいる……?)

 屈んでいた身を起こし、立ち上がる。静かに振り向き、ざわめきの方を見た。

 のそり、影が姿を見せる。月明かりに照らされ顕になったその姿に、星蘭ははっと息を呑み、刮目した。

(虎っ!?)

 月光に映えるは黄金の毛並み。唯大きく逞しい巨躯。辺境の山中ではあれど、それは確かに、王者の風格を纏っていた。

 そう言えばと思い出す。この山では数年前まで、星蘭の村に立ち寄らんと、或いは村を去らんとする旅人達が、猛虎の被害に悩まされていたと。

(でも、あれは……!)

 聞いた話では、既に虎は退治された筈。しかし目の前の現実を、怜悧な星蘭は認めないわけにもいかなかった。

 もし本当に襲いかかられた場合は無駄だと知りながらも、星蘭は身構えた。逃げ出したい衝動を堪え、彼女が張れる精一杯の虚勢であった。

 だが次の瞬間、星蘭は再び刮目した。


「これ娘、左様に怯えずとも良い」


 ――喋った。虎が。

「……は……」

 幾ら聡明な星蘭でも、こればかりは流石に自分の耳を疑い。

 寧ろ、聡明であるからこそ、戸惑って。

「はああああああああああああああああっ!!?」




李瓏り・ろうだ。辺境の民とて名は知っておろ?」

「……左将軍様、なのよね」

「うむ、宜しくして良いぞ。ははははは」

「はは……」

 ――何か胡散臭い上に偉そうな奴だ。

 それが、国の左将軍・李瓏を名乗る虎への第一印象であった。

「おや、その顔は信じておらぬな」

「ええ、まあ」

 嘘を吐いたところでどうにもなるまいと、素直に言ってやる。

 豪放な性質なのか、虎は怒らず、寧ろからからと楽しそうに笑った。

「はっはっは、素直で宜しい。人並み以上に知恵をつけ、科挙に挑まんとするような若人は小賢しくなっていかんがな、ぬしは違うようだ」

「え、何でそれを知って……」

「少なくともうぬの十年以上は生きている。見抜けぬものかよ、はっはっは」

「……はは……」

 この虎が笑うと星蘭まで一緒に笑わなければいけないような気になるのは何故だろう。若干引き攣った苦笑しか返せなかったが。

「しかしぬしにとって、得体の知れぬ虎の言葉等信じられぬのも至極尤も、道理である。ましてや我とぬしは言葉を交わした事も無いのだからな」

「それは、確かに」

 声がその李瓏のものと判れば、信憑性もあろうものなのだが。

「娘、我の姿絵を見た事はあるか? 或いは、人伝に容貌を聞いた等」

「ああ、姿絵位なら」

 武人にしては涼しげな風貌の美丈夫だと注釈があった気がしたが、絵ではよく判らなかった。

 寧ろ、印象に残っていたのは深紅の髪色の方。それは星蘭の持つ淡金色のそれと同じで、奇異の目を向けられるもの。それでも、注釈は勿論、絵を見た者達も、彼の髪についてとやかく言う者はいなかった。それが、酷く印象に残っていた。

(試験を受けられるわけでもないのに、科挙の問題解き始めたのもそれを見てからなんだよな……何か癪だから言いたくないけど)

 何らかの実力があれば、そしてそれが認められれば、口さがない者達の批評等、少なくとも表向きには容易く撥ね除けられるのだと知った。ある意味李瓏は星蘭の目標なのだ。

 ともあれ、虎は星蘭のその言葉を聞くと――虎だから判り難いが、ニヤリと笑った、ように見えた。

「では証明は出来るようだ」

「証明……? ってまさか」

 星蘭の思考がひとつの信じ難い可能性に辿り着き、問うや否や――虎の身体が眩い光を放ち始めた!

「うわわわわわわっ!?」

 思わず目を瞑り、白光の和らぎを感じて目を開ける――と。

 其処に、虎の姿は無く、驚くべき真実の光景があった。

「本物の……李瓏、将軍?」

「どうやら信じる気になったようだな」

 先程まで虎であった筈の男――李瓏は、絵姿をより気高く美しくした姿で、其処にいた。




「とは言えこの姿でいられるのは月の見える夜のみであるがな。しかも虎である時と違い、我から人物に言葉以外で干渉する事は出来なくなる」

 李瓏が星蘭の頭へと手を伸ばしてきた。思わず後退りそうになった星蘭だが、李瓏の手は星蘭の頭をすり抜けた。

「!?」

「触れられた感覚も無いであろ?」

 今度は頭を撫でてくる李瓏。しかし確かに、星蘭のそれより大きく、硬質なのであろう彼の手の感触は無く、温度すら感じない。

「逆にぬしが我に干渉する事は可能であるぞ。その時は我にもその感覚は伝わる」

「あ、本当だ。触れる。何で?」

 試しに彼の肩に手を伸ばすと、容貌の割にはがっしりとしたそれに触れる事が出来た。ほんのりと温みすら感じられる。

「流石に其処までは我にも判らぬなあ、はっはっは」

 李瓏のこの楽しげな笑みにも大分慣れて、星蘭もこの頃には未だ苦笑ではあるものの、自然な笑みを返せるようになってきていた。

「でもどうして、貴方は虎なんかに?」

「……数年前の事だ」

 不意に真剣な面持ちを見せる李瓏。星蘭は思わず身を強張らせた。

「知っての通り、我は皇帝に仕えその下で左将軍として国の為に戦ってきた」

 成程、将軍としてはそれは当然の事だろう。

「我には妹がおってな、ある時是非妃にと、つまり側室にと、皇帝は仰られたのだよ」

 妹は李瓏と違い、美しい黒髪を有していたと言う。その点では李瓏に不安は無かった。後は妹の気持ち次第であった。そう思っていた。

 だが、それを妬む者がいた。

「后、つまり正妻には男子がおらぬ。女子が二人いるばかりである。そんな中、側室である蔡妃が男子を身籠った。そんな彼女に妹は疎まれてな、右将軍と共謀し讒言により我を左遷させ、一族郎党諸共辺境へと追いやられてしまってな」

 ふと、李瓏が空を――月を仰ぐ。

「挙げ句、近隣の村を騒がす猛虎をこの軽装で討てば左遷は取り消すと言われてなあ」

 言われてみれば、星蘭も将軍にしては鎧も身に付けていないのが不思議だとは思っていたのだ。

 まさかそんな理不尽な仕打ちと命令を受けていたとは。

「それでこの様だ」

「……殺されちゃったの?」

「なに、唯では死なぬ。相討ちよ。はっはっは」

「笑い事じゃあないでしょうっ?」

「いや、その上虎の骸に宿り生き永らえたとあればもう笑うしかあるまいよ。はっはっは」

「……」

 李瓏は笑っていたが、今にも泣き出しそうにも見えた。

 この男は強いのだと、星蘭は改めて思う。

「さて」

 身の上話を終えて、李瓏はニヤリと笑む。星蘭は嫌な予感がした。

「今度は此方が質問する番であるな?」

「な、何も気になるような事なんて無いと思うけど……」

「いや、実に興味深い。女子の身でありながら科挙を受けているそうだな」

「じ、実際の試験は規則で受けられないから……親戚のお兄ちゃ……兄のような人に無理言って持ってきて貰った問題を解いてるだけだけどね」

「そう、それだ」

 ゆるりと星蘭を指差し声を上げる李瓏。星蘭の心の臓が一度、大きく跳ねる。

「はっきり言えば無駄な事だ。しかしぬしはそんな事は関係無しに勉学に励んでいるらしい。それは何故だ?」

「そ、それは」

「女子の身で知識を身に付けようとも、それを納得のいく形で生かす事が出来る環境を作る程、この国は女子に優しくはないぞ。ぬしとて判っておろ?」

「……っ、どうだって良いでしょう!? 皇帝の命で政治を行う立場に無ければ勉強をしちゃあいけないの!?」

 意地悪く笑む李瓏に、つい声を荒げてしまう星蘭。すぐに我に返り口を押さえるが、もう遅い。

 李瓏の笑みの所為もあるが、それよりも、李瓏本人を前にして、影響を受けたのだと言うのは矢張り、気恥ずかしかったのだ。

 しかし李瓏はくつくつと笑うと、額を押さえた。

「はっはっは、此処までにしておくとしようか。余り苛めても可哀想であるしな」

「!?」

「はっはっは!」

 心から楽しそうに李瓏が笑うものだから、星蘭は言葉を失ってしまった。

 この人は本当に名将と謳われた左将軍の李瓏なのだろうか。まさか夢オチ等ではあるまいな、とそんな考えが星蘭の頭を過った時だった。

「いやあ、久々に人と話すのは楽しいなあ! はっはっはっはっは」

「……あ……」

 楽しそうに、笑うのは。

 もう何年も、人と話していないからだと。

 気付いてしまった。

 李瓏は、虎だから。

 彼は人に疎まれ人と接する事も出来なかった。

 自分のように話が通じた人間が、一体何人いたと言うのだろう? もしいたとしても片手で数えられる程しかいないに違いなかった。

 自分は醜い『赤毛』だから。

 彼は人でなく『虎』だから。

 人に疎まれ続けてきたのだ。

 鼻の奥がつんと痛んだ。

「ところで娘よ、ひとつ頼まれてはくれぬか」

「……え、あっ、ごめんなさい、何?」

「この山中の奥深く、其処に我の骸がある。まあ既に食い荒らされ骨が残るばかりであるがな。其処までは我が先導しよう、虫や獣からも護ろう。だからぬしには、散華を頼みたいのだ」

「私が……貴方に散華を?」

「うむ、他に頼める者もおらぬでな」

 矢張り言葉を交わす者はいなかったのだ。

 余りに自分と境遇に似通う点が多いこの男を、今更放っておく気にもなれなかった。

「……待宵草で良い? 知ってると思うけど、今時期この山には、それしか花が無いから」

 星蘭が問うと、李瓏は矢張りニヤリと笑って。

「上等」




 両手に待宵草の花を抱えた星蘭が、李瓏の案内で山の奥へと踏み込むと、彼の言う通り、干からびた骨が転がっていた。

 ひび割れ、血のこびりついた頭蓋骨。欠けた骨とその欠片。そして赤黒い染みを残した布の残骸。

 それが、『李瓏という人間』であった李瓏の、成れの果てであった。

 李瓏であった李瓏はもういない。唯、李瓏であった虎がいるのみである。

 その事実に星蘭は胸が痛んだ。

「娘?」

 李瓏に呼び掛けられては我に返り、星蘭は骨の残骸の前にゆっくりと進み出、花を撒き散らした。

 淡黄色の花弁が緩やかに舞って、李瓏であった骨の上に降りる。

 星蘭も李瓏も、暫くそれをじっと見つめていた。

 どれだけ時間が経っただろうか。暫く続いた沈黙を破ったのは、李瓏であった。

「大義であったな、褒めて遣わすぞ」

「……お礼を言うのも、偉そうなのね」

 軽口を叩いたつもりが、声が震えた。

 李瓏が、そのまま消えてしまいそうで、互いに干渉出来る唯一の術である言葉によって、繋ぎ止めようとして。

「……ああそうだ娘、先程の非礼を詫びよう」

「え?」

「つい揶揄ってしまったが、期待があったのだ。我と同じではないかと」

「どういう事なの……?」

「……出世するつもり等、元より無かったのだよ。只管、やれ赤毛だの妖魔だの小煩い連中を、黙らせてやりたくてな。それが気付いたら左将軍にまで上り詰めてしまった」

「――!!」

 何も、言えなくなった。

 何処までも、李瓏の生き方は、星蘭の憧れる姿そのものであった。

 それが、その結末がそれなのか。

 だとしたら、この国に、否、世界に敗けるまいと、必死で生きてきた李瓏が、余りにも不憫ではないか。

 星蘭の双眸から涙が零れた。

「泣くな」

 苦笑して、李瓏は星蘭の頬を伝うそれを拭おうとして失敗して、苦笑を深めた。そして、その代わりに、星蘭の髪を撫でる素振りを見せる。

 李瓏から星蘭に触れる事は出来ない。それでも、星蘭は自らの有する金糸の如き『赤毛』に、温かな指が触れ、すり抜けていくような錯覚を覚えた。

 誰よりも自らが一番疎んでいた筈のそれが、今はとても大切なもののように思える。

「恐らくは、天命であったのだ。我が身可愛さに他を顧みず生きてきた、我の」

 ――違う。

 誰だって自分を嫌いながら、それでも自分が一番可愛いのだ。

 それを誰が責める事等出来ようか。

 そう、伝えたかったのに、言葉が閊えて出てこない。唯、嗚咽が漏れるのみだ。

「娘よ」

 そして李瓏は、今までで一番の優しさを湛えて。

 ――笑ったないた


われの様には、なるな」


 指が離れた。

 李瓏が踵を返す。

 星蘭は追おうとして、足を縺れさせて、出来なかった。

 李瓏は、山中の森の、その闇の中に消えてしまった。

 泣くなと言われたのに、涙が止まらない。

(だって、私)

 ――名前も、貴方に憧れていた事も、言ってない――




 やがて、星蘭は涙を拭って、立ち上がった。

 もう月は見えない。それでも、向かう先は帰るべき村ではなく、優しき虎の消えた森の中。

 散華の待宵草だけが、その顛末を知っていた――






――了――

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