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魔法が止まっても授業は終わらない ~五十二歳の辺境教官、落ちこぼれ五人に「全員で帰る手順」を教える~  作者: 他力本願寺


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第64話 授業は終わらない

魔導灯は一つだけ点いた。王都の朝を照らすには、あまりに小さな灯りだった。


 試行暦、第百十五日の朝。


 数日間にわたり王都周辺を断続的に襲い続けた大きな低下波は退き、外部魔力環境の乱れも、ゆっくりと弱まり始めていた。


 切り離された広域同期網は戻らない。だが、主中継核に頼らない低出力の独立灯や小型術具だけが、不規則な明滅を伴いながら、わずかに息を吹き返し始めていた。


 それでも、都市魔導庁の地下で計器を見つめるオスカー・ルイスの顔に、安堵の色はない。


 深部の魔力密度(M値)の基線は、低下波が去った後も以前の高水準へは戻らなかった。魔力環境全体が、一段低い位置で底を打ったまま固定されたのだ。これは、今後も再低下の波がいつ来るか分からないという、新たな常態の始まりだった。


「……一斉再始動は禁ずる。まずは給水、治癒、消火の三系統を、一つずつ慎重に戻せ」


 オスカーは疲労の色が濃い声で命じた。


 先日、彼自身の決裁によって切り離された『主中継核』の代替となる設備は、まだ存在しない。都市の広域を支えていた心臓を失ったことで、王都の産業、広域照明、そして魔導交通網は、今後数年にわたって低能力運転を強いられることが確定していた。


 かつての絢爛たる魔法文明が、奇跡のように完全復活する朝は訪れなかった。


*


 王都暫定教育・記録指揮所。


 各現場で持ち場を守り抜いた第一期生の五人が、煤と泥に塗れた姿で戻ってきた。彼らは全員生還を果たしたが、誰一人として世界を救った英雄のように誇らしげに整列することはなかった。


 彼らは無言のまま、グレン・ハルバートの机の上に、それぞれの現場で発生した『損失』の記録を積み上げていった。


 リーゼは、撤退を急ぐために見捨てざるを得なかった北区の放棄路と物資車の報告書を。


 フィオナは、寸法欄が空白だったため再始動を断念し、暗闇のまま残した設備区画の未完了票を。


 ノエルは、通信途絶で生じ、推測で埋めず白紙のまま残した数時間分の観測紙を。


 バルトは、南倉庫で変質した薬品の目録と、腐敗して失われた穀物の伝票を。


 そしてマリエルは、一枚の『死亡票』を提出した。


 その死者名簿の中には、エダ・モーンの名前が記されていた。


 グレンはその名前を見つめ、目を閉じた。彼女の死を、赤縄札が住民班を動かしたという成功談の陰に隠し、美しい教訓に仕立てて相殺することは許されない。


 マリエルは、死亡票の隣に、もう一枚の紙をそっと置いた。


「……エダさんが息を引き取るまでの介護記録です。彼女を救命列から外した後、誰が何時に保温の毛布を替え、誰が鎮痛の処置を行い、誰が最期まで手を握っていたかの実施記録です」


 救命不能と判定された後も、見捨てるのではなく、最後まで苦痛を和らげるための世話は残された。その事実を示す記録は、死亡票とは別の独立した欄として、確かに王都の公記録へ綴じられた。


 夕刻。環境局照合室にて、セラとグレンは最終的な調査報告書に共同署名を行っていた。


 その報告書には、二十三年前のユリウス・レインの『喰魔種は高魔力側へ移動する』という方向仮説が正しかったことが明記されている。だが同時に、彼が算出した中心年と低下幅の予測は『外れていた』という事実も、同じ紙面に並べて記載された。


 さらにその下には、今回の観測を支えたノエルたち現代の観測者の名と、地方で赤縄札を独自の生活語へ書き換えた無名の改訂者たちの存在、そして、観測記録として採用されなかった破損試料の棄却記録までが、隠されることなく残されていた。


「ハルバート教官」


 セラがペンを置き、グレンを見た。


「王宮は、あなたを今回の危機を最小限に食い止めた英雄として、叙勲したい意向を持っています。受けるおつもりですか?」


「断る。俺は万能の司令官じゃない」


 グレンは短く答えた。彼は称賛を拒絶して見栄えのする演説を打つような真似はせず、極めて事務的に自分の要求だけを突きつけた。


「俺はカルド分校に残り、この公開教材と失敗票の編纂責任者を続ける。その代わり、国には次の版の赤縄札を改訂するための専門的な権限と、地方からの改訂版を受領拒否せずに集約し、監査印と危険注記を付けた上で公開できる条件を保証してもらう」


 自分の名を歴史の英雄として残すより、無名の人々が手順を直し続けるための『場』を開き続けること。それが、二十年以上も友の記録を一人で抱え込み、共有を遅らせてしまったグレンなりの、確かな落とし前だった。


*


 それから、数か月の時が流れた。


 カルド分校の敷地内に新設された、第三期準備講習の教室。


 扉のすりガラス越しに、熱気を帯びた話し声が漏れ聞こえてくる。


「ですから、この印の場合はまず部屋の人数を数えて……」


 教壇に立っているのは、第一期生の五人ではない。数か月前に第二期生として指導補助の資格を得たアニカやサビナ、デーンたち、そして地方から特別に招かれた無名の実践者たちだ。彼らが今、初見の第三期の受講生たちに対して、点呼と一工程札の使い方を教えている。


 グレンは、その教室の扉の外、静かな廊下に立っていた。


 中から、受講生の一人が声を上げるのが聞こえる。


『あの、この言葉だと、うちの港の現場じゃ伝わりません。こういう風に、潮の満ち引きで言い換えてもいいですか?』


 一瞬の沈黙。もしグレンが中へ入り、「原案通りに教えろ」と一喝すれば、教室はすぐに静まり、統制の取れた正しい授業が再開されるだろう。


 グレンの手が、扉の取っ手に触れる。


 だが、彼は扉を開かなかった。


(……教官が退室した八分間を、守らなければならない)


 グレンは扉から手を離し、壁に背中を預けて腕を組んだ。


 やがて、ガラスの向こうから、教官役を務めるアニカたちの声が響いてきた。


『……分かりました。では、あなたの現場の言葉で直してください。改訂履歴の欄に、あなたの名前と理由を書き込みます』


 自分の作った完璧な手順が、見知らぬ誰かの言葉で書き換えられ、また別の誰かへと手渡されていく。魔力文明は完全には元に戻らず、この教材が完璧な完成品になる日も永遠に来ない。監査し、改訂し、再訓練を繰り返す泥臭い日々が、この先もずっと続いていくのだ。


 それでも、人はそうやって致命的な失敗を回避し、守れない場所を残しながらでも、社会を生き延びさせていく。


 教室の中から、グレンの全く知らない、泥臭くも新しい言い回しで点呼を教え合う声が聞こえてくる。


 彼はその声を聞きながら、小さく、満足そうに笑った。


 授業はもう、彼のいない場所でも続いていた。


〈魔法が止まっても、授業は終わらない 完〉

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