第58話 白紙の観測網
夕方、十五の観測欄のうち四つは白紙だった。
ノエル・アッシュは白紙を推定値で埋めず、そのまま机の中央へ置いた。
試行暦、第百八日の夕刻。王立魔力環境局の照合室。
遠話通信が断続的に不安定になる中、王都の情報を繋いでいたのは魔力を使わない『紙』と『足』だった。北門伝令御者のデーン・コールをはじめとする紙伝令班が、都市内の六つの観測点を直接巡り、局地的なC値(整合度)低下の速報や、行政上の局地空白に至った記録を汗だくでかき集めてきている。
ノエルは、持ち込まれた膨大な紙の束を事務的に仕分けていた。
彼は、都市内の短時間な「C値」の乱れを、深部地層の長期的な「M基線」の低下記録と絶対に混ぜなかった。C値の波はあくまで表層の局地的な障害を示すものであり、世界規模の環境変動の証明にはならない。
広域のM基線判定に使えるのは、地層の深さ別記録を持つ『既存十二観測井』と、『三つの独立観測所』の計十五地点から、各受取箱と中継所を経由して届く『封緘紙帯の原本』のみだ。
「……現在、三独立観測所の原本と、十二井のうち八地点分しか届いていません」
北部独立観測所分は、連絡途絶の直前に送り出されていた封緘紙帯だけが、交換馬を継いで届いていた。以後の推移は白紙のままである。
ノエルは、綴じ板に挟んだ一覧表をセラ・オルテの机へ提出した。
十五欄のうち、四欄が空白のままだった。通信途絶で馬車が遅れているのか、あるいは観測井そのものが何らかの被害を受けたのかは分からない。
以前のノエルなら、「十五地点全ての時系列記録が揃うまで待つべきだ」と主張し、報告を握り潰していただろう。だが、完全な観測を求めるあまり第一報を遅らせてしまった自身の失敗を、彼は忘れていなかった。
彼は一覧表を『観測済み』『推定』『未着(白紙)』の三列に厳密に分け、欠測を残したままセラへ提出した。伝令の口頭速報などで得られた時刻誤差のある記録は、決して秒単位の『同時証拠』としては扱わず、『推定』の列に留めた。
「白紙を過去の傾向で埋めませんでしたね、アッシュ補助員」
「はい。未着は未着です。見えないものを推測で語ることはしません」
ノエルの返答に、セラは静かに頷いた。
*
夜が明け、第百九日の未明。
泥だらけになった伝令が、息を切らせて照合室へ駆け込んできた。
「南西郊外、第九観測井の原本紙帯です! 橋の封鎖で馬が使えず、徒歩で回ってきました!」
「ご苦労様です。すぐに受領の確認を」
ノエルが封緘の二重結びと蝋印を確認し、セラの元へ運ぶ。
これで白紙は三つに減り、十二観測井のうち九地点分、そして三独立観測所の全てで、原記録が揃ったことになる。
セラは手元の計算尺を弾き、広げられた計十二地点分の紙帯の傾きを照合した。
静寂の中、彼女はペンを置き、宣言した。
「同じ設備網を共有しない三地域以上で、局地空白または同等の低整合波群が六時間以上にわたり反復しています。そして、十二観測井の九地点以上と三独立観測所で、深部M基線が『第百日の更新帯よりもさらに低い方向』を同じように示している」
その事実が意味するものは一つしかなかった。機器の個別故障や、単独の喰魔種による局地的な魔力摂食だけでは、この広範かつ同時多発的な低下傾向を説明することはできない。
「これより、原因および世界規模の周期を確定しない、複数地域の資源配分を一本化するための暫定災害呼称として……《大低潮》を採用します」
ついに、その名が公的機関の口から発せられた。
即座に作成された公報案には、セラと、暫定教育・記録指揮所に残っているグレンの連名による所見が記された。
そこには、耳当たりの良い英雄譚は一切書かれていない。
『現在の事象は、ユリウス・レインの魔力環境の方向仮説を支持する』
『ただし、同氏の算出した中心年および低下幅の予測は外れている』
『本現象が周期的なものか、根本原因が何であるかは未確定のままとする』
グレンは、友の予測が「的中した」と叫んで名誉を回復する絶好の機会を、自ら手放した。友を完璧な予言者に祭り上げることは、後世の科学的検証の目を曇らせる神話化でしかない。外れた事実は外れた事実として併記し、反証可能な仮説のまま社会へ残す。それが、友への最大の弔いだった。
*
一方、ノエルは別の机で、広大な王都周辺の地図と格闘していた。
彼が行っているのは、深層から這い上がってきた《喰魔種》の群れの移動経路の割り出しだ。
勘違いしてはならないのは、喰魔種が大低潮の「原因」ではないということだ。環境の低下による深層の餌不足が先に起こり、それに追われた生物が地上の高魔力施設へと移動してきている。彼らは、環境全体のM基線低下に伴って移動し、摂食した場所の魔力低下をさらに「増幅」させる厄介な移動災害だった。
「……北上する家畜の異常な怯え。井戸水位の急減。各地の地下から報告される擦過音。そして、高出力魔晶が配置されている施設に対する、極端に偏った移動の痕跡」
ノエルは、各現場から集まった物理的な記録を地図へ落としていく。
点と点を結ぶと、三つの大きな群れが王都へ向かってきていることが分かった。
そのうち、南から向かってくる群れの軌跡に線を引こうとした時、ノエルの手が止まった。このまま各点の報告を素直に繋げば、王都の中心部へ向けて一直線に向かう、最も美しく辻褄の合う『中央直進線』が一本引けそうだったのだ。
(この一本の線を『確実な移動経路だ』と断言すれば……)
防衛線をそこに集中させることができる。市民に「いつ、どこに怪物が来るのか」という確実な安心を与えられ、自分自身も優れた分析者として称賛されるだろう。
だが、ノエルはその直進線の要となるべき「南井」の観測点が、いまだに『未着(白紙)』であることに気づいていた。南井の原記録がないまま直線を引くのは、ただの願望による補完だ。
ノエルの脳裏に、旧坑道の調査で、グレンたちが「一番きれいな低下の線が出ている破損試料」を、汚染の可能性があるという理由だけで完全に棄却したあの日の光景が蘇った。
「見えているからこそ、使えない」
ノエルは独りごちて、最も美しい中央直進線の軌跡を、砂消しで容赦なく削り取った。
そして、欠測が存在することを前提とし、確認できた記録だけで繋いだ不格好な『三本の経路候補』の線を、分散した可能性として地図に引き直した。
一本の線に絞らなかったことで、王都の防衛・警戒に当たる貴重な班は、外れたかもしれない二つの経路へも割かれ、人手が大きく分散することになる。市民が欲しがる「確実な予言」も与えられない。
それでも、ノエルは不完全な事実を不完全なまま提示する責任を選び取った。
夜明けの光が照合室に差し込む中、ノエルが地図上に引いた三本の炭線。
そのうちの二本が、北と南から不気味な軌跡を描きながら、一つの巨大な施設の手前周辺へと収束し始めていた。
そこは、王都のすべての魔力系統の位相を合わせ、外部魔力を融通する心臓部。
巨大な『主中継核』の直下だった。




