第52話 先生のいない八分
十二枚の名札が並ぶ教室で、五人の新米教官は同時に別の答えを叫んだ。
教え手は五人いた。だが、その声を受けた受講生の中で、正しく動けた者は一人もいなかった。
王立魔力環境局による公開審査会の翌日。試行暦第九十一日。
カルド分校王都連絡所の奥に新設された『模擬設備室』には、見慣れない制服を着た十二人の男女が集められていた。
彼らは第二期補完実務班。昨夜の急告を受け、王都十二基幹現場(給水、治癒、警備、校正、物流、遠話中継など)から一人ずつ推薦されてきた既存の実務者たちだ。
彼らは第一期生のような落ちこぼれではない。それぞれが現場の最前線で働く熟練の実務者だ。だが、自分の専門外の人間に対して「魔法が止まった時の手順」を教える経験は全くなかった。
「彼らが各現場を空けられる限界は、今日から九日間だけよ」
教室の隅で、分校長のヘレナがグレンへ囁いた。王立総合実務院の本院教務局から許可されたのは、その短期枠のみ。
この九日間で、第一期生の五人は彼らを指導し、自分の現場に戻って他人に『三線票』の一工程を教示できる《暫定指導補助》の資格を与えなければならない。
「では、初回診断を開始する」
グレンの合図で、計時器の針が動き始めた。制限時間は『八分間』。
模擬設備室には、王都の給水網を模した複雑な配管と手動弁のセットが組まれている。ただし、生きた配管ではなく閉鎖された訓練用の水路であり、万が一の誤操作に備えて独立監督者が緊急停止の弁を握っていた。
グレンは受講生たちに、一枚の三線票を配った。
それは、あえて『再開を承認する役』の欄だけが空欄になっている不完全な票だった。
「……あの、質問があります」
受講生の一人、中央第二給水所の夜勤副主任であるアニカ・ベルが手を挙げた。彼女は配管と圧力の専門家だが、他の職種との連携訓練は受けていない。
「この票の通り、異常値で手動弁を閉じたとします。でも、その後に安全が確認された時、この空欄……つまり『誰』の許可を取って開け直せばいいんですか? うちの現場なら設備主任ですが、他の現場では?」
その純粋な実務上の疑問に対し、教官役として前に立っていた五人が、良かれと思って一斉に口を開いた。
「隊長の許可を取ってください!」と、警備隊のリーゼが言った。
「設備主任に確認を!」と、術式校正室のフィオナが叫んだ。
「安全確認者です!」と、治癒院のマリエルが被せる。
「観測責任者の報告を待って!」と、測量隊のノエル。
「丸印の札を持ってる奴だ!」と、物流倉庫のバルト。
五人の新米教官が、自分が九十日間で経験した「自分の現場の正解」を、全く同時に、別々の言葉で叩きつけたのだ。
アニカをはじめとする十二人の受講生たちは、互いの顔を見合わせ、動けなくなった。
隊長? 主任? 丸印? 誰の指示を復唱して、誰を信じて弁を回せばいいのか。
彼らが迷っている間にも、無情に秒針は進む。誰も模擬弁に手をかけられないまま、八分間の診断時間はあっけなく尽きた。
「終了。全員、そこから離れろ」
独立監督者が笛を吹き、グレンが前に出た。
「教官! 俺たち、間違ったことは言ってません!」
「そうだわ、それぞれの現場ではそれが正しい手順のはず……」
バルトやフィオナが弁解しようとするが、グレンは手でそれを制した。彼は模範解答を与えて彼らを救ったりはしない。
「お前たち五人は、廊下へ出ろ」
「えっ?」
「受講生の頭を混乱させたのは、お前たちの押し付けだ。外で頭を冷やせ。……受講生の十二人は、教官抜きでもう一度、同じ課題を八分間でやれ」
グレンは容赦なく、第一期生の五人を教室の外へ放り出し、ドアを閉めた。
廊下に締め出された五人は、すりガラス越しに中の様子を見つめていた。
教官がいなくなった教室で、十二人の実務者たちは数秒間戸惑っていたが、やがてアニカを中心に車座になった。給水、治癒、警備、物流。違う現場の人間同士が、自分たちの職場に共通する「責任者」の概念を短い言葉ですり合わせ始める。
そして五分後。彼らは三線票の空欄に、今回の模擬設備に限る共通語として『当直主任』と書き込み、迷うことなく模擬弁を正しい方向へ回して見せた。実際の現場では、それぞれの持ち場で同じ責任を負う役職名を、この欄へ記さなければならない。
自分たちがあれほど言葉を尽くして教えようとした時は止まっていた現場が、自分たちがいなくなった途端に、受講生自身の力で動き出したのだ。
「……私たちが、邪魔だったんですね」
リーゼが壁に背中を預け、自嘲気味に呟いた。
自分たちが危険な現場で得た「正解」を、そのまま相手に流し込めば伝わると思っていた。だが、相手には相手の現場の言葉とルールがある。自分たちの答えを押し付けることは、教えることとは違うのだ。
五人は誰に言われるでもなく、綴じ板に挟まれた『連名診断票』を取り出し、五人全員で署名した。受講生の無知ではなく、自分たちの教え方の失敗として。翌日から一人ずつ書く『個別失敗票』とは、ここで明確に分けられた。
ドアが開き、グレンが廊下へ出てきた。
「分校長の判定により、本日の初回診断は、資格判定としては『合格者ゼロ』だ。受講生の能力不足ではない。お前たちの教示が、相手の現場語へ渡らなかった。半日を使って、誰一人指導補助の資格には届いていない」
グレンの厳しい宣告に、五人は肩を落とした。
グレンは綴じ板を叩き、新しいルールを告げた。
「明日からの五日間の個別講習は、お前たち五人が一日ずつ交代で主教官役を務めろ。残りの四人は口出し禁止だ。そして、授業の最後の八分間は、必ず教官役が教室から退室する」
「退室、ですか?」
「そうだ。お前が手取り足取り教えた時じゃなく、お前がいなくなった後で、受講生が正しい手順を再現できたか。それだけが、教えられたことの証明になる」
五人は黙って頷いた。
教室の中の黒板には、グレンが残した一行の文字だけが書かれている。
『できることと、教えられることは違う』
公開審査会から一日が過ぎた。危険窓の最短境界まで、残りはあと二十九日。
夕刻の教官室。
グレンの机の上には、明日から指導を受ける十二人の受講生たちの名札が並べられている。
そしてその前には、赤、青、白、黄、灰色の、五枚の教官札が、裏返された状態で置かれていた。
明日から、五人の先生は一人ずつ、新しい教壇で失敗する。




