第44話 治せない訓練
訓練の患者役として床に転がったエダが、苦しげな顔を作った瞬間だった。
バンッ、と街道治癒院の重い両開き扉が乱暴に蹴り開けられ、本物の血の匂いを漂わせた担架が三台、入り口を完全に塞いだ。
時間を数分だけ戻す。
九十日試行の第二週末。王都の郊外に位置する街道治癒院では、魔導診断枠を使わずに患者の搬送順を決める「魔導診断なしの受付順訓練」が行われていた。
ただし、この治癒院には訓練のためだけに割ける潤沢な時間はない。許されたのは、午前と午後のシフトが切り替わる際の、わずか『十二分間』だけだ。
マリエル・ノースは、グレンが作成し、現場で書き込みを加えて完成させた『三線票』を片手に、住民の訓練参加者へ説明を行っていた。
「……というように、魔導具が停止した場合は、まず呼吸器の異常音、チアノーゼ反応の有無、そして末梢循環不全によるショック状態を素早く確認し、この赤い札か黄色い札を……」
「お嬢ちゃん、ちょっと待ちな」
説明を遮ったのは、患者役として参加していた元助産師のエダ・モーンだった。
彼女はマリエルの持つ三線票を覗き込み、顔をしかめた。
「『チアノーゼ』だの『末梢なんとか』だの、そんな堅苦しい言葉を並べられても、あたしたちみたいな素人には咄嗟に判断できやしないよ。要するに、『息があるか』『血が止まるか』『冷えていないか』ってことだろう?」
「えっ、あ、はい。基本的にはそうですが……」
「なら、最初からそう書きな。素人でも一目で分かるように」
エダの提案に、マリエルは反射的に首を横に振った。
「ダメです。専門的な医学用語を曖昧な生活語に言い換えれば、必ず判断のズレが生じます。『冷えている』という感覚は人によって違う。正確な定義を削れば、誤診が増えて逆に患者を危険に晒すことになります」
それは、厳しい医学の訓練を受けてきた治癒師としての正当な反発だった。
だが、エダもまた、何十年も現場で命を取り上げてきた生活者のプライドを持っている。
「誰も素人に医者の真似事をさせろって言ってるんじゃないさ。医者の手が回らない時、ただ黙って死なせるより、隣の婆さんが『毛布を掛けてやる』くらいの真似はできたほうがいいだろうって話だよ」
二人の意見は平行線を辿っていた。
マリエルは息を吐き、訓練の開始を宣言した。エダが床に寝転がり、苦しげな演技を始める。マリエルが手持ち計時器の秒針を見つめ、三線票の手順通りに彼女の『診断』を開始しようとした、まさにその時だった。
本物の担架が三台、扉を塞いだのだ。
「街道で荷馬車の玉突き事故だ! 重傷者が三人いる、早く診てくれ!」
運び込んできた御者たちの怒声と、担架の上で呻く患者の生々しい声が、待合室の空気を一変させた。
マリエルの手の中で、手持ち計時器の秒針が進んでいる。
訓練の時間は、まだ十分以上残されている。ここでこのまま訓練を続行して、途切れのない訓練記録を完成させれば。自分は非常時にも冷静に対応できる優秀な治癒師だと、院長や王都の監査官に証明できるかもしれない。
自分を認めさせたい。その強烈な誘惑が、一瞬だけマリエルの足を止めた。
だが。
「……訓練中止! エダさんたちは壁際へ下がって!」
マリエルは即座に手持ち計時器を止め、白衣のポケットへねじ込んだ。
彼女は自分の『評価』よりも、目の前にある本物の血を流す命を優先した。当たり前のことだ。だが、その当たり前の判断を下すために、彼女は自分が十二日間準備してきた訓練の成果を、自らの手で捨てる決断をした。
「受付、担架を処置室へ! ロザ主任を呼んで!」
マリエルは本物の患者の元へ駆け寄った。
三人のうち、一人の傷が深かった。マリエルはすぐに止血の術式を展開しようとしたが、患者の体から放たれる不規則な魔力波長が、彼女の術を弾き返した。
「……魔力酔い!?」
事故の衝撃で患者自身の体内の魔力が暴走し、外部からの治癒術が極端に効きにくくなっている状態だ。マリエルのような低魔力の治癒師では、この乱れを強制的に突破して傷を塞ぐことはできない。
(私じゃ、この人の傷は治せない……)
絶望的な無力感がマリエルを襲う。
だが、彼女は「救命不能」だと勝手に断定して、患者を見捨てることはしなかった。
上位の治癒師であるロザ主任が到着するまでの間。マリエルは術式を解き、物理的な圧迫止血に切り替えた。
(息があるか。血が止まるか。冷えていないか……)
先ほどエダが口にした『生活語』が、マリエルの脳裏によみがえる。
治癒術が効かないのなら。
「誰か、乾いた毛布を! 患者の体温を下げないで!」
マリエルは叫び、傍らにあった清潔な布で傷口を強く圧迫しながら、もう片方の手で患者の冷たくなっていく手を強く握りしめた。
「主任が来るまで、流れる血を減らします。手を離しません」
痛みを取り除くことはできない。魔法で一瞬にして傷を塞ぐこともできない。
それでも、彼女は今自分にできる『物理的な保温と止血』だけをひたすらに続けた。
数分後、駆けつけたロザ主任の強力な治癒術により、魔力酔いは突破され、患者は一命を取り留めた。だが痛みは残り、血で汚れた処置室の灯りは、片づけが終わるまで消えなかった。
騒動が落ち着き、血まみれになった待合室の隅で、マリエルは院長に訓練の三線票を提出した。
院長はそれを確認し、赤い印をポンと押した。
『訓練結果:未完了。実患者の到着により、規定時間の三分の一で中断』
成功の印ではない。マリエルはこの日、定められた手順を最後まで通すことができず、訓練としては明確に『失敗』したのだ。
しかし、院長はマリエルを責めなかった。
「実患者の到着という異常事態を前に、訓練の『中止条件』が正しく働いた。記録としては未完了だが、君の治癒師としての判断は間違っていない」
院長はそう言って、未完了の票をマリエルに返した。
マリエルは小さく息を吐き、待合室のベンチに座っているエダの元へ歩み寄った。
エダは、住民に配布された訓練用の三線票の裏面に、炭のペンで何かを書き足していた。
「エダさん」
「ああ、お疲れ様。あの怪我人、助かったんだね」
「はい。……先ほどは、生意気なことを言ってすみませんでした」
マリエルは頭を下げた。
「エダさんの言う通りです。専門用語を並べ立てても、いざという時に動けなければ意味がない。私たちが使う『表面』の厳密なルールとは別に、住民の方々が理解できる『裏面』の言葉も、どうしても必要です」
医療判断者が守るべき線と、生活者ができることの線。
その二つが揃って初めて、あの三線票は意味を持つのだと、マリエルは実患者の血を通じて理解した。
エダはフッと笑い、自分の書いた紙をマリエルに見せた。
「あたしら素人は、病気を治すことはできない。でも、医者が来るまでの間に、毛布を掛けたり、手を握って安心させたりすることはできる。それだけでも、助かる命はあるんだよ」
マリエルは、エダが三線票の裏面に書き足した三行の文字を見つめた。
そこには、長年命の現場に立ち続けてきた元助産師の、確かな哲学が刻まれていた。
『息があるか。血が止まるか。冷えていないか』
『分からない時は、無理に動かさず専門家を待つ』
『治せない時にも、していいことは残る』
マリエルはその言葉を消すように求めなかった。
彼女は自分の『未完了』の印が押された訓練票と、エダの書いた生活の言葉を重ね合わせ、そっと胸に抱いた。




