表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

サガリバナ

作者: San
掲載日:2026/02/28

母は、いつも甘い匂いと一緒に帰ってくる。


 玄関の扉が開く前から分かる。安い香水と、強い口紅の匂い。ヒールの音。カツ、カツ、と廊下を踏む音。


 その音を聞くたび、妹たちは走る。弟は裸足のまま飛び出す。僕は台所で火を止めて、深呼吸をする。


 十二歳になって、もう三年くらい、こうしている。


「ただいまー!」


 明るすぎる声。家の暗さを無理やり押し広げるみたいな声。


 母は派手な服を着ている。赤いワンピースとか、光るイヤリングとか、季節に合わないくらい薄いコートとか。顔はきれいだ。いつもきれいだ。まつ毛は長くて、唇は濡れたみたいに光っている。


 その手には、コンビニの袋がいくつもぶら下がっている。


「見て、今日はケーキもあるの!」


 妹が歓声を上げる。弟は袋に顔を突っ込もうとする。


 僕はその袋を受け取る。


「あとで分けるから」


「えー!」


「今すぐ食べたい!」


「後で。ちゃんと分ける」


 母は笑う。きれいな歯を見せて。


「長男くん、ほんと頼りになるわね」


 その言い方が、好きじゃない。


 頼りになる、というのは、頼る人がいるということだ。


 母はそのまま居間に座って、足を組む。ヒールを脱いで、ソファに倒れ込む。スマホを取り出す。


「ねえ、学校どう? 困ってることない?」


 そう言うときの母は、だいたい機嫌がいい。声が軽い。目が笑っている。


 でも、その質問に本気で答えたことはない。


「別に」


「そう。よかった」


 それだけで、会話は終わる。


 母は、機嫌がいいときしか帰ってこない。


 それに気づいたのは、いつからだろう。


 最初は、ただ待っていた。腹が減っても、妹が泣いても、弟が熱を出しても、「きっと今日帰ってくる」と思っていた。


 でも帰ってこない日が続くと、部屋の空気が重くなる。シンクには皿が積み上がる。洗濯物は山になる。


 妹と弟は、最初は母をかばう。


「お母さん忙しいんだよ」


「お金稼いでるんだよ」


 でも夜になると、静かに泣く。


 僕は泣かない。


 代わりに、冷蔵庫の中身を数える。


 米の残り。卵の数。インスタント麺。期限。


 十二歳の僕は、賞味期限にやたら詳しくなった。


     *


 ある日、妹が隠していたチョコを全部食べて、弟と大喧嘩になった。


「だってお腹すいたんだもん!」


「それはお母さんが来たときのやつだろ!」


「知らないもん!」


 泣き声が響く。


 僕は間に入る。


「もういい。残りは俺が預かる」


「ずるい!」


「ずるくない」


 母が持ってくるお菓子は、山ほどあるように見えて、三日ももたない。


 だから僕は、隠す場所を決めた。押し入れの上段。さらにその奥。


 鍵はない。でも、僕が管理する。


 弟妹は不満そうにするけど、夜になると僕のところに来る。


「ちょっとだけ、ない?」


 あるよ、と僕は言う。


 ひとり一個。


 平等に。


 それでなんとか、次の「ただいま」まで持たせる。


     *


 母が帰らない夜、家は静かすぎる。


 時計の音がうるさい。


 妹は布団の中で小さく丸まる。弟は「お腹すいた」と何度も言う。


 僕は水を多めにした味噌汁を作る。具は少なめ。


「今日はこれで我慢しよう」


「お母さん、いつ来るの?」


「そのうち」


 そのうち。


 便利な言葉だ。


 ある日、僕はカレンダーに印をつけ始めた。


 母が来た日。来なかった日。


 来た日は丸。来なかった日は何もなし。


 丸は、続かない。


 でも、あることに気づく。


 丸の次の日は、だいたい来ない。


 二日続けて来たことは、ほとんどない。


 そして、丸の日は、必ず母の機嫌がいい。


 化粧が完璧で、口紅が濃くて、笑顔が大きい。


 逆に、一度だけ。


 口紅が少し崩れていて、目が赤かった日があった。


 その日は、お菓子が少なかった。


 母はあまり喋らず、すぐ寝た。


 次の日から、また来なくなった。


 僕はそれを覚えている。


 だから分かる。


 母は、機嫌がいいときしか帰ってこない。


     *


 攻めたい、と思うことがある。


「なんで帰ってこないの」


「なんで僕がやらなきゃいけないの」


 喉まで出かかる。


 でも、母が笑うと、言えなくなる。


「みんな元気そうでよかった」


 その言葉が、刃物みたいにやわらかい。


 元気そう。


 元気でいなきゃいけない。


 母が帰ってくる日は、家を少し片付ける。妹の髪をとかす。弟の顔を拭く。


 ちゃんとしている家に見せる。


 そうすれば、母は安心して笑う。


 安心して、また出ていく。


     *


 ある夜、弟が高熱を出した。


 額が熱い。息が荒い。


 母はいない。


 僕は近所の人に頼んで、病院に連れていった。診察券を探すのに、引き出しを全部ひっくり返した。


 帰ってきたのは夜遅く。


 妹は玄関で座って待っていた。


「お母さん、来た?」


「来てない」


 妹はうなずくだけ。


 泣かない。


 泣かなくなった。


 次の日の夕方、母は帰ってきた。


「ただいまー!」


 いつもの笑顔。


 袋いっぱいのお菓子。


「どうしたの? なんか暗くない?」


 僕は言わなかった。


 弟が熱を出したことも、病院に行ったことも。


「別に」


 母は首をかしげたけど、すぐに笑った。


「ほら、プリンもあるよ!」


 妹と弟は駆け寄る。


 僕は袋を受け取る。


 その手が、少し震えていることに、母は気づかない。


     *


 母は悪い人なのか、と考えたことがある。


 でも、殴られたことはない。怒鳴られたことも、ほとんどない。


 帰ってくるときは、いつも笑顔で、お菓子とお金を置いていく。


 「何かあった」わけじゃない。


 ただ、いないだけだ。


 たまに、いる。


 それだけだ。


     *


 ある日の夜。


 母は珍しく長くいた。


 テレビを見て、妹と笑って、弟の頭を撫でた。


 僕の隣に座って、言った。


「長男くん、いつもありがとうね」


 その声はやわらかい。


 僕は、少しだけ、勇気を出した。


「……いつもじゃないよ」


「え?」


「いつも、じゃない」


 母はきょとんとした顔をして、それから笑った。


「何それ」


 その笑顔が、きれいで。


 完璧で。


 壊せなかった。


「別に」


 僕は目をそらす。


 攻めたい。


 でも、攻めない。


 母がいなくなるとき、玄関で振り返る。


「またね!」


 明るい声。


 ドアが閉まる。


 静かになる。


 妹が言う。


「お母さん、今日もきれいだったね」


「うん」


 僕はカレンダーを見る。


 丸をつける。


 次に丸がつくのは、いつだろう。


 腹は減るだろう。喧嘩もするだろう。洗濯も溜まるだろう。


 でも、きっとまた、あのヒールの音がする。


 カツ、カツ、と。


 甘い匂いと一緒に。


 僕は押し入れの上段を確認する。


 残りのお菓子を数える。


 平等に分ける。


 母の笑顔を思い出す。


 攻めたい気持ちを、喉の奥にしまい込む。


 そして、妹と弟に言う。


「大丈夫。なんとかなる」


 なんとか、してきた。


 これからも、なんとかする。


 母は、今日もどこかで笑っている。


 その笑顔を、僕は知っている。


 それだけで、まだ、この家は続いている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ