サガリバナ
母は、いつも甘い匂いと一緒に帰ってくる。
玄関の扉が開く前から分かる。安い香水と、強い口紅の匂い。ヒールの音。カツ、カツ、と廊下を踏む音。
その音を聞くたび、妹たちは走る。弟は裸足のまま飛び出す。僕は台所で火を止めて、深呼吸をする。
十二歳になって、もう三年くらい、こうしている。
「ただいまー!」
明るすぎる声。家の暗さを無理やり押し広げるみたいな声。
母は派手な服を着ている。赤いワンピースとか、光るイヤリングとか、季節に合わないくらい薄いコートとか。顔はきれいだ。いつもきれいだ。まつ毛は長くて、唇は濡れたみたいに光っている。
その手には、コンビニの袋がいくつもぶら下がっている。
「見て、今日はケーキもあるの!」
妹が歓声を上げる。弟は袋に顔を突っ込もうとする。
僕はその袋を受け取る。
「あとで分けるから」
「えー!」
「今すぐ食べたい!」
「後で。ちゃんと分ける」
母は笑う。きれいな歯を見せて。
「長男くん、ほんと頼りになるわね」
その言い方が、好きじゃない。
頼りになる、というのは、頼る人がいるということだ。
母はそのまま居間に座って、足を組む。ヒールを脱いで、ソファに倒れ込む。スマホを取り出す。
「ねえ、学校どう? 困ってることない?」
そう言うときの母は、だいたい機嫌がいい。声が軽い。目が笑っている。
でも、その質問に本気で答えたことはない。
「別に」
「そう。よかった」
それだけで、会話は終わる。
母は、機嫌がいいときしか帰ってこない。
それに気づいたのは、いつからだろう。
最初は、ただ待っていた。腹が減っても、妹が泣いても、弟が熱を出しても、「きっと今日帰ってくる」と思っていた。
でも帰ってこない日が続くと、部屋の空気が重くなる。シンクには皿が積み上がる。洗濯物は山になる。
妹と弟は、最初は母をかばう。
「お母さん忙しいんだよ」
「お金稼いでるんだよ」
でも夜になると、静かに泣く。
僕は泣かない。
代わりに、冷蔵庫の中身を数える。
米の残り。卵の数。インスタント麺。期限。
十二歳の僕は、賞味期限にやたら詳しくなった。
*
ある日、妹が隠していたチョコを全部食べて、弟と大喧嘩になった。
「だってお腹すいたんだもん!」
「それはお母さんが来たときのやつだろ!」
「知らないもん!」
泣き声が響く。
僕は間に入る。
「もういい。残りは俺が預かる」
「ずるい!」
「ずるくない」
母が持ってくるお菓子は、山ほどあるように見えて、三日ももたない。
だから僕は、隠す場所を決めた。押し入れの上段。さらにその奥。
鍵はない。でも、僕が管理する。
弟妹は不満そうにするけど、夜になると僕のところに来る。
「ちょっとだけ、ない?」
あるよ、と僕は言う。
ひとり一個。
平等に。
それでなんとか、次の「ただいま」まで持たせる。
*
母が帰らない夜、家は静かすぎる。
時計の音がうるさい。
妹は布団の中で小さく丸まる。弟は「お腹すいた」と何度も言う。
僕は水を多めにした味噌汁を作る。具は少なめ。
「今日はこれで我慢しよう」
「お母さん、いつ来るの?」
「そのうち」
そのうち。
便利な言葉だ。
ある日、僕はカレンダーに印をつけ始めた。
母が来た日。来なかった日。
来た日は丸。来なかった日は何もなし。
丸は、続かない。
でも、あることに気づく。
丸の次の日は、だいたい来ない。
二日続けて来たことは、ほとんどない。
そして、丸の日は、必ず母の機嫌がいい。
化粧が完璧で、口紅が濃くて、笑顔が大きい。
逆に、一度だけ。
口紅が少し崩れていて、目が赤かった日があった。
その日は、お菓子が少なかった。
母はあまり喋らず、すぐ寝た。
次の日から、また来なくなった。
僕はそれを覚えている。
だから分かる。
母は、機嫌がいいときしか帰ってこない。
*
攻めたい、と思うことがある。
「なんで帰ってこないの」
「なんで僕がやらなきゃいけないの」
喉まで出かかる。
でも、母が笑うと、言えなくなる。
「みんな元気そうでよかった」
その言葉が、刃物みたいにやわらかい。
元気そう。
元気でいなきゃいけない。
母が帰ってくる日は、家を少し片付ける。妹の髪をとかす。弟の顔を拭く。
ちゃんとしている家に見せる。
そうすれば、母は安心して笑う。
安心して、また出ていく。
*
ある夜、弟が高熱を出した。
額が熱い。息が荒い。
母はいない。
僕は近所の人に頼んで、病院に連れていった。診察券を探すのに、引き出しを全部ひっくり返した。
帰ってきたのは夜遅く。
妹は玄関で座って待っていた。
「お母さん、来た?」
「来てない」
妹はうなずくだけ。
泣かない。
泣かなくなった。
次の日の夕方、母は帰ってきた。
「ただいまー!」
いつもの笑顔。
袋いっぱいのお菓子。
「どうしたの? なんか暗くない?」
僕は言わなかった。
弟が熱を出したことも、病院に行ったことも。
「別に」
母は首をかしげたけど、すぐに笑った。
「ほら、プリンもあるよ!」
妹と弟は駆け寄る。
僕は袋を受け取る。
その手が、少し震えていることに、母は気づかない。
*
母は悪い人なのか、と考えたことがある。
でも、殴られたことはない。怒鳴られたことも、ほとんどない。
帰ってくるときは、いつも笑顔で、お菓子とお金を置いていく。
「何かあった」わけじゃない。
ただ、いないだけだ。
たまに、いる。
それだけだ。
*
ある日の夜。
母は珍しく長くいた。
テレビを見て、妹と笑って、弟の頭を撫でた。
僕の隣に座って、言った。
「長男くん、いつもありがとうね」
その声はやわらかい。
僕は、少しだけ、勇気を出した。
「……いつもじゃないよ」
「え?」
「いつも、じゃない」
母はきょとんとした顔をして、それから笑った。
「何それ」
その笑顔が、きれいで。
完璧で。
壊せなかった。
「別に」
僕は目をそらす。
攻めたい。
でも、攻めない。
母がいなくなるとき、玄関で振り返る。
「またね!」
明るい声。
ドアが閉まる。
静かになる。
妹が言う。
「お母さん、今日もきれいだったね」
「うん」
僕はカレンダーを見る。
丸をつける。
次に丸がつくのは、いつだろう。
腹は減るだろう。喧嘩もするだろう。洗濯も溜まるだろう。
でも、きっとまた、あのヒールの音がする。
カツ、カツ、と。
甘い匂いと一緒に。
僕は押し入れの上段を確認する。
残りのお菓子を数える。
平等に分ける。
母の笑顔を思い出す。
攻めたい気持ちを、喉の奥にしまい込む。
そして、妹と弟に言う。
「大丈夫。なんとかなる」
なんとか、してきた。
これからも、なんとかする。
母は、今日もどこかで笑っている。
その笑顔を、僕は知っている。
それだけで、まだ、この家は続いている。




