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短編シリーズ

王家に殺されかけた王女は、氷の剣士と国境を越える

作者: 虹村玲
掲載日:2026/02/01

第一章 氷の中で、名を失った


 血は、熱を失うとすぐに黒ずむ。


 ユリエルはその色を、もう何度も見てきた。

 剣先から滴る血が雪に落ち、白を汚していく。だが、感情は動かない。動かなくなって久しい。


 ――ここは、国境外れの廃墟だった。


 石造りの建物は半ば崩れ、かつて人が暮らしていた痕跡だけが、風に削られながら残っている。魔物の巣になるには都合がよく、人が近寄らない理由も、それだけで十分だった。


 だが今日は違う。


「……生きている、か」


 剣を納め、ユリエルは視線を落とした。


 瓦礫の陰に、少女が倒れている。


 雪に濡れた銀色の髪。

 薄い外套。

 血の気のない唇。


 年は十六、いや十七前後だろうか。

 装いは粗末だが、骨格と肌のきめが、それを否定している。


 ――貴族だ。


 そう判断した瞬間、微かな違和感が胸を掠めた。


 ユリエルは膝をつき、少女の首元に指を伸ばす。脈はある。だが弱い。頭部に打撲の跡があり、出血は止まっているものの、意識はない。


 背後で、風が鳴った。


 瞬間、ユリエルの剣が抜ける。

 氷の魔力が刃を覆い、空気が軋む。


 ――遅い。


 跳びかかってきた狼型の魔物は、悲鳴すら上げられず、首を断たれた。氷が走り、砕ける。


 ユリエルは舌打ちした。


「……運が悪いな」


 少女を背負う。軽すぎる体重に、嫌な記憶が蘇りかけて、思考を切った。


 ここで置いていく選択肢もあった。

 だが――


 少女の指が、わずかに動いた。


「……っ」


 喉から、かすれた音が漏れる。


 ユリエルは歩みを止めた。


「……目、覚めるか」


 返事はない。

 だが少女の眉が寄り、苦しげに呼吸をしている。


 放っておけば、確実に死ぬ。


 ――また、か。


 胸の奥で、何かが軋む。

 過去に何度も繰り返した選択だ。


 ユリエルは少女を背負い直し、廃墟を後にした。


 ***


 目を覚ましたとき、天井があった。


 石の天井。低く、古い。

 焚き火の匂いと、乾いた空気。


「……ここは……?」


 少女は声を出して、自分の声が震えていることに気づいた。


 身体を起こそうとして、失敗する。

 頭が割れるように痛い。


「無理をするな」


 低い声がした。


 視線を向けると、焚き火の向こうに男がいる。

 黒い外套。長身。鋭い眼差し。


 剣が、すぐ手の届く位置にあった。


「……あなたは……?」


 男は一瞬、考えるように沈黙し、短く答えた。


「通りすがりだ」


 嘘だ、と少女は直感した。

 だがそれ以上、踏み込めない。


「……私……」


 言葉が続かない。


 名前が、出てこない。


 胸が、きゅっと縮む。

 喉が、冷たくなる。


「……思い出せない」


 指先が震え始めた。


「私……自分の名前が……」


 男――ユリエルは、焚き火を見つめたまま言った。


「記憶喪失、か」


 淡々とした声。

 だが、それが余計に怖かった。


「……覚えていることは?」


 少女は必死に考える。

 だが、頭の中は霧に包まれている。


 ――城。

 ――高い塔。

 ――誰かの叫び声。


 断片が、刺のように浮かんでは消える。


「……何も……」


 少女の目に、涙が滲んだ。


 理由が分からない。

 分からないことが、怖い。


 ユリエルは立ち上がり、水袋を差し出した。


「飲め」


 少女は恐る恐る受け取り、口をつける。


「……ありがとう……ございます……」


 礼儀だけが、体に染み付いていることに気づいた。


 ユリエルは、それを見逃さなかった。


「……名は?」


「……分かりません……」


 しばらくの沈黙。


 焚き火が、ぱちりと鳴る。


「仮でいい」


 ユリエルは言った。


「名がないと不便だ」


 少女は戸惑いながら、呟いた。


「……セラ……」


「?」


「分からないけど……この音が……胸に残って……」


 ユリエルは、わずかに目を細めた。


「……そうか」


 それ以上、何も言わなかった。


 その夜、ユリエルは眠らなかった。


 外の気配を探り続ける。

 風の向き。足音。魔力の揺れ。


 ――追われている。


 確信があった。


 少女――セラの存在そのものが、異常だ。


 そして、その確信は、すぐに現実になる。


 夜明け前。


 遠くで、氷とは違う魔力が揺れた。


 統制された動き。

 人間だ。


 しかも――


「……来たか」


 ユリエルは剣を取った。


 焚き火の光の中で、眠る少女の顔を見る。


 記憶を失い、何も知らず、

 それでも、確実に“狙われている”。


「……今度こそ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からないまま。


 ユリエルは外套を翻し、夜の中へ踏み出した。


 氷の剣が、静かに鳴いた。


第二章 追われる理由


 雪を踏む音が、規則正しく近づいてくる。


 五人。

 間隔は一定。

 魔力の揺れが揃っている。


 ――軍だ。


 ユリエルは廃教会の外壁に背を預け、呼吸を殺した。

 氷の魔力を極限まで抑える。剣士としての本能が、相手の力量を測っていた。


 素人ではない。

 だが、近衛でもない。


 目的は一つだ。


 ――セラ。


 足音が止まる。


「ここだな」


 低い男の声。

 指示に従い、周囲に散る気配。


 ユリエルは剣を抜かなかった。

 抜けば、殺す。

 殺せば、騒ぎになる。


 だが――


 結界が張られた。


 空気が、歪む。


「……ちっ」


 判断は一瞬だった。


 ユリエルは氷を踏み砕くように地を蹴った。


 次の瞬間、廃教会の扉が内側から破壊される。


「な――!」


 侵入者の声が重なるより早く、ユリエルの剣が閃いた。


 氷が走る。

 床に張り付き、足を奪う。


 五人のうち、二人が即座に転倒した。


「殺すな!」


 指示が飛ぶ。


 その言葉に、ユリエルの眉がわずかに動いた。


 ――生け捕り?


 つまり、命令はこうだ。


 「連れ帰れ」


 氷の剣が、初めて“怒り”を帯びた。


 ユリエルは一人の喉元に剣を突きつけ、低く問う。


「……誰の命令だ」


 男は歯を食いしばり、答えない。


 ユリエルは迷わず、肩を斬った。

 殺さない。だが、立てない。


「次は脚だ」


「……っ、王都だ……!」


 男は叫んだ。


「王都からの密命だ! その娘を――」


 言葉は、途中で途切れた。


 後方から放たれた魔弾が、男の頭を撃ち抜いたのだ。


 血と脳漿が、雪に散る。


「……口封じ、か」


 ユリエルは振り返る。


 そこに立っていたのは、黒衣の魔術師だった。

 年齢不詳。仮面を被り、声は歪んでいる。


「剣士よ。余計な詮索はするな」


「……王都の人間が、なぜこの娘を追う」


 魔術師は、笑った。


「知る必要はない。ただ――」


 魔力が膨張する。


「その娘は、“戻るべき場所”がある」


 ユリエルは即座に氷を展開した。


 激突。


 魔力と氷がぶつかり合い、衝撃波が教会を揺らす。


 だが、戦闘は一瞬で終わった。


 魔術師は退いた。


「……時間稼ぎか」


 ユリエルは理解した。


 目的は殲滅ではない。

 確認だ。


 ――生きているかどうか。


 ユリエルは踵を返し、教会へ戻る。


 ***


 セラは、すべてを聞いていた。


 剣がぶつかる音。

 叫び声。

 そして、最後の沈黙。


 怖くて、動けなかった。


 でも――


 扉が開き、ユリエルが戻ってきた瞬間。

 胸の奥が、熱くなった。


「……無事か」


 短い言葉。


 それだけで、涙が溢れた。


「……ごめんなさい……」


 理由も分からず、謝っていた。


 ユリエルは、視線を逸らした。


「……お前のせいじゃない」


 だが、その声は少し硬い。


「セラ」


 初めて、名を呼ばれた。


「追われている理由が、ある」


 セラの喉が鳴る。


「……私は……」


「まだ言うな」


 ユリエルは続ける。


「思い出さなくていい。今は」


 それは、優しさだった。


 だが同時に――

 逃げだと、ユリエル自身も分かっていた。


「ここを出る」


「……どこへ……?」


「国境を越える」


 即答だった。


「王都の手が及ばない場所へ」


 セラは頷いた。


 怖い。

 けれど――


「……一緒に、行きます」


 その言葉に、ユリエルは何も言わなかった。


 だが、剣を握る手に、わずかな力が入った。


 ――守る。


 それだけが、今の彼の答えだった。


 夜が明ける。


 二人は、雪の中を歩き出す。


 知らぬまま。

 この先で、すべてを思い出すことになるとも知らずに。


 そして王都では――


「……見つかりましたか」


 玉座の陰で、低い声が響いた。


「まだです。しかし、生存は確認されました」


「そう……」


 女の声が、微笑む。


「なら、構いません。儀式の日までに“戻れば”」


 赤い宝石が、淡く光った。


「王女は、逃げられない」


 氷の剣士と、記憶を失った王女。


 その運命は、すでに――

 王家の掌の上にあった。


第三章 思い出してはいけない名前


 国境へ向かう街道は、昼でも静かだった。


 雪は薄く、踏みしめるたびに小さく鳴る。

 遠くに山脈が連なり、空は鈍色に曇っている。


 セラは、歩きながら何度も自分の胸元に手を当てていた。


 理由は分からない。

 だが、そこに何か“大切なもの”がある気がしてならなかった。


「……それ、気になるのか」


 前を歩いていたユリエルが、振り返らずに言った。


「……はい」


 セラは外套の下から、小さな金属音を立てて鎖を引き出す。


 首から下げていた、細工の施された小さなペンダント。


 氷の結晶を模した紋様。

 そして――王冠。


 ユリエルの足が、止まった。


「……それは」


「目が覚めたときから、持っていました」


 セラは不安げに言う。


「触ると……胸が、苦しくなります」


 ユリエルは、ゆっくりと振り返った。


 表情は変わらない。

 だが、空気が変わった。


「……見せろ」


 セラは差し出す。


 ユリエルは、それを受け取らなかった。

 ただ、視線だけを落とす。


 ――間違いない。


 王家の紋章だ。


 それも、直系のみが身につけるもの。


 氷の剣士として生きる前、

 騎士として城にいた頃、

 何度も目にした。


 王女セラフィーナ。


 その名が、脳裏に浮かび――


 同時に、血の匂いと、鐘の音が蘇る。


 ユリエルは、歯を食いしばった。


「……セラ」


「……はい?」


「……お前は」


 言葉が、続かない。


 言えば、終わる。

 思い出せば、戻れない。


 セラは、じっとユリエルを見つめていた。


「……私、誰なんですか」


 逃げられない。


 ユリエルは、深く息を吐いた。


「……王族だ」


 その一言で、世界が止まった。


「……え?」


「王家の人間だ。お前は」


 セラの視界が、揺れた。


 王族。

 城。

 追われる理由。


 断片が、無理やり繋がり始める。


「……そんな……」


 頭が、割れる。


 塔。

 冷たい床。

 誰かに押さえつけられる感覚。


「……あ……っ」


 膝が、崩れた。


 セラは地面に手をつき、呼吸が乱れる。


「思い出すな!」


 ユリエルの声が、鋭く響いた。


 だが、遅い。


 記憶は、戻るときは容赦がない。


 ――大広間。

 ――王冠を戴いた男。

 ――優しく笑う、女。


 母だと思っていた、その人が――


「……あなたのためよ、セラフィーナ」


 甘い声。


「国のためなの」


 鎖。

 魔法陣。

 血。


「……いや……」


 セラは、震えながら叫んだ。


「……いやぁぁぁぁ……!」


 記憶が、完全に繋がる。


 自分は――


 第二王女、セラフィーナ・アル=レイン。


 王家により、生贄として差し出される存在。


 逃げた夜。

 背後で鳴った鐘。

 転倒。

 闇。


 セラは、声を失った。


 涙が、止まらない。


「……私……殺される……」


 ユリエルは、無言で膝をついた。


 彼女と、目線を合わせる。


「……いいや」


 低く、強い声。


「もう、させない」


 セラは、泣き濡れた目で彼を見る。


「……あなた……知っていたんですか……?」


 ユリエルは、一瞬だけ、視線を逸らした。


「……ああ」


 過去が、口を開く。


「俺は……昔、王城にいた」


 セラの呼吸が、止まる。


「儀式を、見た」


 ユリエルの声は、感情を削ぎ落としている。


「……前の王女を」


 言葉が、落ちる。


「……守れなかった」


 セラは、息を吸った。


 理解してしまった。


 だから――

 だから、この人は。


「……だから、私を……」


「違う」


 即答だった。


「最初は、関係ない」


 ユリエルは言う。


「だが今は――」


 剣に、氷が走る。


「お前を、守ると決めた」


 その瞬間。


 空気が、裂けた。


 強烈な魔力。


 空が、赤く染まる。


「……来た」


 ユリエルは立ち上がる。


 丘の向こう。

 黒衣の魔術師。


 いや――


「……あれは……」


 セラの喉が、震える。


 仮面の下から、聞こえる声。


「――お帰りなさいませ、王女殿下」


 ぞっとするほど、丁寧な声。


「儀式の時間が、近づいております」


 地面に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。


 逃げ場は、ない。


 ユリエルは、セラの前に立った。


「……下がれ」


「……ユリエル……」


「下がれ!」


 氷が、空を覆う。


 だが、魔力はそれを上回る。


 ――力が、違う。


 それでも。


 ユリエルは、剣を構えた。


「……今度こそ」


 歯を食いしばり、低く呟く。


「……救う」


 氷と魔力が、激突する。


 世界が、白く染まった。


第四章 生贄の刻


 氷が砕ける音は、鐘のようだった。


 ユリエルの剣が振り下ろされるたび、空気が凍り、割れ、弾ける。

 だが、それでも――届かない。


「……っ!」


 魔力の奔流が、正面から叩きつけられる。


 ユリエルの身体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。

 息が詰まり、視界が揺れる。


「ユリエル!」


 セラが叫ぶ。


 だが、彼女の足元には光の鎖が絡みつき、動けない。


 巨大な魔法陣。

 赤と黒が絡み合い、脈打つように光っている。


 仮面の魔術師は、悠然と腕を組んでいた。


「無駄です、剣士」


 声に、愉悦が混じる。


「あなた一人で、王家の秘術に抗えるとでも?」


 ユリエルは、剣を支えに立ち上がる。


 血が、雪を染めていく。


「……抗うさ」


 掠れた声。


「……それが、俺の贖罪だ」


 魔術師は、肩をすくめた。


「贖罪? 笑わせないでください」


 仮面の奥の目が、細くなる。


「王国は、この儀式で何百年も栄えてきた。

 民は救われ、国は滅びを免れた」


 魔法陣が、さらに強く光る。


「王族の血を捧げるだけで、すべてが守られるのです。

 ……素晴らしい取引ではありませんか」


 セラの身体が、宙に浮かび始めた。


「……やめて……!」


 声が震える。


「私……国のためなら……でも……」


 言葉が、詰まる。


 頭では理解できても、心が拒絶する。


 自分は――

 “道具”なのか。


 そのとき。


「……ふざけるな」


 ユリエルの声が、低く響いた。


「命に、取引も価値もあるか」


 剣に、氷が集まる。


 今までとは違う。


 荒々しく、無理やりに、命を削る魔力。


「……それは」


 魔術師が、初めて警戒した。


「……禁呪……?」


「違う」


 ユリエルは、剣を構える。


「……ただの、意地だ」


 次の瞬間。


 氷が、世界を覆った。


 空気が凍り、魔法陣の光が鈍る。


「なっ……!」


 魔術師が後退する。


「馬鹿な……! 魔力の均衡が……!」


 だが、ユリエルの身体は限界だった。


 血が、止まらない。

 視界が、暗くなる。


 それでも――


「……セラ……!」


 その名を呼んだ瞬間。


 胸元のペンダントが、強く光った。


「……え……?」


 セラの中で、何かが弾けた。


 ――祈り。


 ――願い。


 ――拒絶。


 魔力が、溢れ出す。


「……私は……」


 セラの声が、静かに響く。


「……捧げられるために、生まれたんじゃない」


 鎖が、砕けた。


 光が、彼女を包む。


「……私は……生きる……!」


 純白の魔力が、魔法陣を侵食する。


 仮面の魔術師が、悲鳴を上げた。


「やめろ! それは……王家の血そのものを――!」


「……だからです」


 セラは、涙を流しながら、言った。


「私の血は……私のものです」


 魔法陣が、逆流する。


 儀式は、破壊された。


 魔力が暴走し、中心にいた魔術師を飲み込む。


「……王家は……永遠だと……!」


 断末魔。


 次の瞬間、すべてが静まった。


 雪が、降り始める。


 セラは、ゆっくりと地に降り立つ。


 そして――


 倒れ伏したユリエルに、駆け寄った。


「……ユリエル……!」


 返事が、ない。


 彼の身体は、冷たい。


「……嫌……」


 セラは、彼を抱きしめた。


「……置いていかないで……」


 涙が、頬を伝う。


「……一人に……しないって……」


 そのとき。


 微かに、指が動いた。


「……泣くな……」


 かすれた声。


 セラは、息を呑む。


「……生きてる……!」


 ユリエルは、目を開けた。


「……しぶとい……だろ……」


 セラは、笑った。


 泣きながら、笑った。


「……馬鹿……!」


 雪の中で、二人は寄り添う。


 儀式は、終わった。


 だが――


 すべてが、終わったわけではない。


 王都は、まだ――

 そこにある。


最終章 氷が溶ける場所へ


 夜明けは、音もなく訪れた。


 赤く染まった空が、ゆっくりと青へ溶けていく。

 雪は止み、冷え切った大地に、微かな陽の気配が差し込んだ。


 ユリエルは、浅い呼吸の中で目を覚ました。


 最初に感じたのは、温もりだった。


 胸元に、誰かが縋りついている。

 震えるほど必死に、離れまいとしている。


「……セラ……」


 名を呼ぶと、身体がびくりと跳ねた。


「……ユリエル……!」


 顔を上げたセラの目は、赤く腫れている。

 涙の跡が、そのまま残っていた。


「……よかった……本当に……」


 声が、震える。


 ユリエルは、苦笑した。


「……生きてる……」


 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。


 セラは、彼の胸に額を押し当てた。


「……私……」


 言葉が、続かない。


 守られた。

 救われた。


 それが、どれほどの代償の上に成り立っているか、分かっている。


「……王都へ、戻ります」


 セラは、はっきりと言った。


 ユリエルの眉が、わずかに動く。


「……覚悟は?」


「あります」


 即答だった。


「逃げたままじゃ……私は、一生“生贄”のままです」


 セラは、拳を握る。


「真実を、明らかにします。

 王家が何をしてきたのか。

 ……そして、私が、どう生きるのか」


 ユリエルは、空を見上げた。


 王都の方角。

 そこには、剣も魔法も通じない戦いが待っている。


「……俺は」


 言いかけて、言葉を止めた。


 自分は、王家を捨てた人間だ。

 王都に戻れば、罪を問われる可能性もある。


 セラは、ユリエルの手を取った。


 強く。

 迷いなく。


「……一緒に、来てください」


 ユリエルは、彼女を見た。


 王女の顔ではない。

 生贄でもない。


 ただ、一人の少女としての目。


「……俺が、隣にいていいのか」


「必要です」


 セラは言った。


「私が“選ぶ”ために」


 長い沈黙。


 そして、ユリエルは、息を吐いた。


「……分かった」


 短い答え。


 だが、それは――

 過去を背負う覚悟だった。


 ***


 二人は歩き出す。


 丘を越え、街道へ。


 朝日が、背中を照らす。


「……ねえ、ユリエル」


 セラが、ぽつりと呟いた。


「もし……すべてを失ったら……?」


 王女の地位も、家族も、居場所も。


 ユリエルは、少し考えた後、言った。


「……そのときは」


 彼女の手を、強く握る。


「……俺が、お前の居場所になる」


 セラは、目を見開き――

 そして、微笑んだ。


「……ありがとう」


 それは、王女としてではない。


 生贄としてでもない。


 一人の人間としての、笑顔だった。


 遠く、王都の塔が見える。


 そこには、まだ多くの敵がいる。

 真実を拒む者も、罰を恐れる者も。


 それでも。


 二人は、歩みを止めない。


 氷の剣士と、記憶を取り戻した王女。


 凍りついていた運命は、

 確かに――溶け始めていた。


 そしてこれは、終わりではない。


 これは――

 自ら選び取った人生の、始まりだった。


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