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第55話 最初の一体



 森の空気が、さっきまでと少し違っていた。


 湿った土の匂い。

 枯葉の上を踏む音。

 風の音に混じる、何かが擦れる微かな響き。


(……近い)


 肌の上を、細かい虫が這うみたいな感覚が走る。


「ここから先、しばらくは俺と紅葉が先行だ」


 ドルガンが小声で言い、ひらりと手を振った。


「“目と鼻の先”って距離までは、お前らはついて来なくていい。

 俺と紅葉で位置を掴んでから、呼ぶ」


「分かりました」


 俺たちは頷き、足を止める。


「秋人たちは“いつでも動ける態勢”だけ作っとけ」


「了解」


 クレハが、ドルガンの隣に無言で並んだ。

 その瞬間、ふわっと気配が薄くなる。


 さっきまで、そこにいたはずの二人が、森に溶け込むみたいに姿を消していく。


「……毎度ながら、あの二人セットで見えなくなるのヤバいですね」


「頼もしいでしょ?」


 リゼさんが、ひそひそ声で笑った。


「さ、こっちは小声で作戦会議でもしましょうか」


◇ ◇ ◇


 少し離れた木陰に身を寄せながら、俺たちとカイル組は円を作るようにしゃがみ込んだ。


「さっきのボルグの話、覚えてるわね?」


 リゼさんが顎で地面をしゃくる。


「“オークの村を見つけても、今日は潰さない。

 あくまで斥候と、小規模な狩りの連中を相手にする”ってやつだろ」


 カイルが、槍の柄に手を置いたまま頷いた。


「そう。

 だから今日のテーマは、“群れになる前の芽を摘む”こと」


「まずは何体くらいを想定して動くべきなんです?」


「基本は三〜五体」


 リゼさんの答えは早かった。


「一体なら余裕がある。

 二体は普通の実戦。

 三体以上は、“立ち回りを間違えたら一気に崩れるライン”だと思いなさい」


「……はい」


 喉が少し乾いた。


「今日の最初の目標は“オーク一体”。

 次に、“二体をまとめて捌けるかどうか”。

 それ以上は、状況を見て、ってところね」


「結局、最初は“どれくらいやれるかテスト”ってことか」


 カイルが肩をすくめる。


「ノア」


「は、はいっ」


 急に名前を呼ばれて、ノアがビクッと肩を跳ねさせた。


「今日の君の役割、分かってる?」


「え、えっと……その……。

 後ろから、みんなの邪魔にならないように、魔法で援護して……。

 でも前に出すぎないで、でも足引っ張らないようにって……」


「だいたい合ってるわ」


 リゼさんがくすっと笑う。


「“倒そうとしなくていいから、崩れたところに一発入れろ”。

 それくらいの気持ちでいいのよ」


「…………はい」


 ノアの表情から、ほんの少しだけ強張りが消えた。


◇ ◇ ◇


 数分後。


 クレハが、音もなく戻ってきた。


「……見つけた」


 声も、風に乗るくらいの小ささだ。


「斥候、一体。

 ちょっと先の開けたとこで、獣の骨、齧ってる」


「距離は?」


「ここから、百……五十歩くらい」


 ドルガンもすぐ後ろに立つ。


「周囲に他の気配は?」


「今のところ無し。

 “鼻を利かせて先行してる匂い嗅ぎ”って感じだな」


 ドルガンの目が笑う。


「ちょうどいい。

 “オーク一体特訓”の成果を見せてもらうぜ、紅葉」


「うん」


 クレハの瞳が、すっと鋭くなった。


「作戦はシンプルにいく」


 ドルガンが指を一本立てる。


「紅葉が先に回り込んで、“足を止める罠”を仕掛ける。

 そこで俺が“オークを通したい方”へ誘導する」


 視線が、こちらに向いた。


「そっちの出口で、秋人たちが迎え撃て」


 簡潔。

 でも、それが一番分かりやすかった。


「迎え撃ち側の布陣はどうします?」


「秋人前。

 ユイは秋人の右後ろ、半歩下がり。

 クレハの罠が決まったら、ユイが支援を秋人に集中。

 カイル組は左側面から“逃げ道を狭める係”だ」


 ボルグさんのところで、何度かやった隊列だった。


「オークの武器は?」


「大きい棍棒一本。

 肩までの高さで、秋人より少しでかいくらい」


「……遠慮なく斬っていいんですね?」


「斬らないとお前が潰れるぞ」


 ドルガンの言葉は、冗談じゃなかった。


◇ ◇ ◇


 オークのいた小さな開けた場所を、遠巻きに覗き見る。


 木々が少し途切れた空間。

 地面には、動物の骨と、干からびた肉片。

 中央で、何かの足を齧っている灰緑色の巨体。


 肩幅が、人間二人分はある。

 丸太みたいな腕。

 背中に生えた黒い毛。

 顔は、猪と人間を混ぜたような醜さだ。


 鼻を鳴らすたびに、獣臭さと、鉄っぽい臭いが風に乗ってくる。


(……これが、オーク)


 ゴブリンの時とは、威圧感が段違いだ。


「怖い?」


 横で、ユイがささやく。


「正直、はい」


「わたしも」


 それでも、足は前を向いていた。


◇ ◇ ◇


「行ってくる」


 クレハが、短くそう言って森の影に溶けた。


 音は、ほとんどしない。

 それでも、目を凝らせば、樹の幹と幹の隙間をすり抜ける小さな影が見えた。


(足元、見て。

 影、繋いで。

 ワイヤー、張って)


 クレハの視界を想像する。


 オークの足元の影が、じわりと伸び、

 そこからじっとりと黒い紐が地面に染み込んでいく。


 少し離れた木と木の間に、細いワイヤー。

 膝の高さ。腰の高さ。

 見えにくい角度で一本ずつ。


(止めるのは足と腰。

 殺すのは、前の二人)


 ドルガンに叩き込まれた言葉が頭に浮かぶ。


 ワイヤーに爆符を一枚ずつ括りつけ、印を結びながら影符を足元に貼る。


(……よし)


 準備を終えたクレハは、ドルガンのいる方向にごく短く合図を送った。


 それは葉の揺れか、鳥の鳴き声か。

 普通の人間には気づけないくらい小さなサインだ。


◇ ◇ ◇


「じゃ、ちょっくら行ってくる」


 ドルガンが肩を回し、オークのいる開けた場所へと歩み出した。


 わざと、枝を踏んで音を立てる。


 バキ、と乾いた音。


 オークの耳がぴくりと動き、ぎろりと顔を上げた。


「グルルル……」


 野太い唸り声。

 黄色い目が、森の中の小さな男を捕捉する。


「おう。

 飯はうまいか?」


 ドルガンは、わざと挑発するような笑い方をした。


 その瞬間、オークが立ち上がる。


 ガキン、と棍棒が地面を叩く音。

 体格の割に早い一歩で、ドルガンへ向かってくる。


「来いよ、“一体目”」


 ドルガンはくるりと背を向け、獣道の方へ走る。


 オークは、怒鳴り声を上げながら追っていく。

 地面が揺れるような足音が、こっちに近づいてきた。


(……来る)


「秋人くん」


「分かってる」


 刀の柄を握る。


 ユイが肩に手を添え、小さく呟く。


「《ガーディアン・ブレス》」


 柔らかな光が、肌の上を滑った。


 守護の加護が、すぐに重ね掛けされる。


「《守護の加護》」


 足元が、少しだけ安定する気がした。


 クレハは、さっき張ったワイヤーと影の位置を頭の中でなぞりながら、木陰から様子を伺っている。


 カイルは左側、槍を構えて低く構えた。

 セラは双剣を抜き、ノアは震える指で杖を握り直す。


◇ ◇ ◇


 次の瞬間。


 獣道の向こうから、灰緑色の巨体が飛び出してきた。


 ドルガンが、ギリギリのところで道を外れて木陰に消える。

 そのまま勢い余って、オークがこちら側の開けたスペースに踏み込んできた。


「──!」


 オークの目が、俺たちを認識する。

 唾を飛ばしながら吠えた。


「行くぞ!」


 叫ぶより早く、足が前に出ていた。


 オークが棍棒を振り上げる。

 頭上から、丸太みたいな一撃が振り下ろされる。


(受けたら死ぬ)


 タツミの声が、頭の中で響いた。


 半歩右に踏み込みながら、左足で地面を蹴る。

 振り下ろされる軌道の“内側”に潜り込む。


 棍棒が空気を裂いて通り過ぎる。

 耳の横で、風圧が爆ぜた。


「──ッ!」


 腰を捻り、刀を斜めに振り上げる。


 オークの脇腹の皮膚が、ざくりと裂けた。

 濃い色の血が飛び散る。


 だが、倒れない。


「グギャアアア!」


 痛みに咆哮を上げ、逆の手で棍棒を振り回してくる。


「秋人くん!」


 ユイの声と同時に、軽い衝撃が全身を包んだ。


「《プロテクション・シェル》!」


 薄い膜のような結界が、一瞬だけ身体の前に展開される。

 棍棒がそれを叩きつけ、ひび割れさせながらも、軌道を少しだけずらした。


 結界ごと吹き飛ばされる前に、後ろに跳ぶ。


(……重い)


 さっきの一撃、まともに食らってたら、たぶん意識が飛んでいた。


「今!」


 ユイの叫びと同時に、クレハが合図を送る。


「《影縛り》!」


 オークの足元の影が、ぎゅっと収縮した。


 黒い紐が、足首に絡みつく。

 オークの体勢が、わずかに崩れた。


「《爆鎖陣》!」


 木と木の間に張られたワイヤーが、一斉に光を走らせる。


 オークの腰と太腿のあたりで、小さな爆発が連鎖した。


 ドン、ドン、と腹の底に響く音。

 オークの膝が、がくりと折れた。


「カイル!」


「任せろ!」


 左側から、カイルの槍が突き込まれる。

 オークの肩口に深々と突き刺さった。


 セラの双剣が、反対側の腕を狙って斬りつける。


 それでも、オークはまだ倒れない。


「グルルルァァ!!」


 膝をついた状態から、無理やり身体を起こそうとする。


 影の拘束が軋み、ワイヤーが悲鳴を上げる。


「秋人!」


 ユイの声が、すぐそばで響いた。


「今なら、いける!」


(ここで――)


 刀を握る手に、自然と魔力が集まっていく。


 火。

 風。


 何度も練習した、あの感覚。


(盛りすぎるな。火七、風三――)


 刃が、薄紅色に揺らめく。


「──《紅風一閃》!」


 叫んでから、自分でちょっとだけ顔が熱くなる。


 それより早く、身体が前に出た。


 膝立ちのオークの真正面。

 振り上げかけた棍棒の腕の外側をすり抜けるように、横に斬り払う。


 紅い残光とともに、風の刃が走った。


 オークの胸から肩にかけて、斜めの線が刻まれる。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、その線がぱっくりと開いた。


 オークの体が、ぐらりと揺れたあと――


 地面に、崩れ落ちた。


◇ ◇ ◇


「…………」


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 さっきまでこちらに棍棒を振り下ろしてきていた巨体が、

 信じられないくらい静かに横たわっている。


 鼻を打つ、血と獣の臭い。

 耳の奥で、まだ心臓の音がうるさい。


「……は、ぁ……」


 肩で息をしながら、刀を下ろす。


 遅れて、腕が震え始めた。


(……やった、のか)


 勝てた。

 オーク一体に、真正面から。


「秋人くん!」


 ユイが駆け寄ってきて、腕を掴んだ。


「どこか打った!? 折れてない!?」


「いや、大丈夫……だと思う。

 ちょっと衝撃残ってるけど」


「念のため」


 ユイの手から、温かい光が流れ込んだ。


「《ヒールライト》」


 さっき結界ごと受けた衝撃で、じんじんしていた肩の奥が、すっと軽くなっていく。


「……ありがと」


「どういたしまして」


 ユイはその場にへたり込みそうになって、慌てて踏みとどまった。


「クレハ!」


「ここ」


 いつの間にか、すぐ近くにいた。


「影、ちゃんと効いてた。

 爆鎖陣も、“膝を折る”くらいには」


「お前のおかげで、振り下ろしが中途半端になってた。

 助かった」


「……よかった」


 クレハの口元が、ほんの少しだけ緩む。


「おい」


 ドルガンの低い声が飛んできた。


「まだ終わりじゃねぇぞ」


 視線を上げると、リゼさんとドルガンがこちらを見ていた。

 その後ろで、ボルグさんが腕を組んでいる。


「まずは、一体目」


 リゼさんが、ゆっくりと歩いてくる。


「正面から受けて、斬って、止めて――

 “きれいな勝ち方”だったわね」


「……ありがとうございます」


「ただし」


 褒め言葉の後に続く、その一言。


 覚悟していた。


「今ので、全員の魔力と体力、どれくらい削れたか。

 それをちゃんと自分で把握しなさい」


「…………」


 言われてみれば、

 ヒールで痛みは消えたけれど、息の上がり具合はまだ残っている。


 腕も、さっきより重い。


「秋人、今の紅風一閃。

 あと何発撃てそう?」


「……全力の今のやつは、あと一発。

 軽めに抑えたやつなら、もう二、三発くらい……です」


「ユイ、結界と回復は?」


「結界は、あと三回くらいなら……。

 ヒールは、軽いのだけなら十回以上は行けますけど、

 重いのを連発すると、すぐにきつくなります」


「クレハ」


「影縛り、あと三回。

 爆鎖陣は、爆符の数的に二回まで。

 ……それ以上は、“ただの罠”」


「よろしい」


 リゼさんが頷く。


「それが、“オーク一体のコスト”よ」


 そう言われて、ようやく実感する。


 勝った。

 でも、“一体でこれだけ消耗する”のだ。


「このレベルの相手と、何体向き合えるか。

 何体なら撤退ラインか」


 ボルグさんが、静かに言った。


「それをこれから、“身体で覚える”」


 そう言って、オークの倒れている先――

 森の奥の、暗い方を見やった。


「匂いと足跡からするに、斥候はまだいる。

 多くて、あと五、六体ってところだろう」


 喉の奥が、ごくりと鳴る。


「二体の群れ。

 三体の集まり。

 場合によっちゃ、“四体一緒”ってのもあるかもしれねぇ」


 さっきより、冷たい風が頬を撫でた気がした。


「――いいか」


 ボルグさんは、俺たち全員を見渡した。


「“一体目に勝てた”からって浮かれるな。

 だが、“一体目に勝てたこと”は、ちゃんと誇れ」


「…………」


「その上で、“次はどこまでやるか”を考えろ」


 刀の柄を握る手に、自然と力がこもる。


 ユイが、少しだけ深く息を吸う。

 クレハの影が、足元で静かに揺れた。


(オーク一体倒せた。

 俺たちは、ちゃんと“通用する”)


 でも、ここから先は、

 その一体が“二体三体になった世界”だ。


「……行こうか」


 自分でも驚くくらい落ち着いた声で、そう言った。


「オークの“先”を見に」


 ユイとクレハが、同時に頷いた。


「了解」


「うん」


 森の奥から、また獣の匂いがした。


 俺たちは、二体目を探しに、さらに一歩踏み出した。


つづく。

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