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第26話 影を歩く者の線引き



 翌日も、俺たちは教会に顔を出していた。


 ラグナスの朝の空気は、石畳を冷たく撫でながら、どこかきりっとしている。

 昨日の“蛇口講座”のおかげで、俺のMPはいい感じに筋肉痛だ。


「今日は、紅葉ちゃんと少しお話しさせてもらってもいいですか?」


 礼拝堂に入るなり、エルナがそんなことを言った。


「……私?」


 クレハが、ぱちりと瞬く。


「はい。昨日お話しした“線引き”の続きです。

 お二人も、一緒に聞いていて構いませんよ」


「ううん」


 クレハは小さく首を振った。


「アキトとユイは、外で待っててほしい」


「え?」


「多分、“里”の話もする。

 二人には、もう少ししてからでいい」


 はっきりそう言って、俺たちの方を見る。


 その目は、いつものぼんやりしたクレハのそれじゃなくて──

 ちゃんと“覚悟”してる顔だった。


「……分かった」


 俺はエルナを見る。


「大丈夫そうですか?」


「ええ。紅葉ちゃんがそう望むなら、私は尊重します」


 エルナは柔らかく頷く。


「では、お二人は外の庭で少し待っていてください。

 終わったらお呼びしますから」


「了解。変なこと言われたらすぐ呼べよ?」


「変なこと、言わない」


 クレハの口元が、ちょっとだけ緩んだ。


「ちゃんと戻る」


 それだけ言って、エルナと一緒に礼拝堂の奥へと歩いていく。


 背中を見送ってから、俺とユイも外へ出た。


◇ ◇ ◇


 教会の庭は、今日も静かだった。


 花壇の花、石畳、低い石のベンチ。

 昨日、俺がひたすら蛇口をひねっていた中庭だ。


「……大丈夫かな、紅葉ちゃん」


 ベンチに腰を下ろしながら、ユイがぽつりと漏らした。


「クレハが自分で決めたことだしな」


 隣に座って、空を見上げる。


「それに、あのシスターさんだぞ? 変なことにはならないだろ」


「そうだけど……」


 ユイは膝を抱えるようにして、顎を乗せる。


「紅葉ちゃん、時々“自分のことは後回し”にするから、少し心配で」


「……」


 言われて、俺も少し黙り込んだ。


 クレハは、たしかにそういうところがある。


 俺たちを守るためなら、自分を削るのをあまり気にしない。

 里での仕事の癖なのかもしれないけど、それがこの世界でも正しいとは限らない。


「線引き、か……」


「うん?」


「いや、昨日も少し言ってただろ。

 “やっちゃいけないこと”と“やらなきゃいけないこと”の話」


「ああ……」


 ユイが、少し表情を曇らせる。


「秋人くんは、“やっちゃいけないこと”って言われてすぐ思いつく?」


「人殺しとか?」


「うん」


 即答されて、ちょっとだけ背筋が冷えた。


「でも、クレハちゃんは違う世界で育ってる。

 “命令されたらやらないといけないこと”の中に、たぶん──」


 ユイはそこで言葉を切った。


 それ以上口に出すのは、たぶん簡単じゃないから。


「……だからこそ、今ちゃんと話しとくんだろ」


 俺は膝に肘を乗せて、両手を組む。


「この世界で、“どこまでがやって良くて、どこからがアウトか”。

 あいつ、たぶん自分で決めたいんだと思う」


「自分で、か」


「里長のおっさんが決めた線じゃなくて、自分の線」


 昨日のクレハのステータスを思い出す。


 【敏捷32】【器用22】──数字だけ見れば、完全に“プロの忍び”だ。

 でも、その力をどこに向けるかは、もう里じゃなくて、クレハ自身が決めることだ。


「……帰ってきたら、ちゃんと聞いてあげよ」


 ユイが、小さく呟いた。


「辛いことは、話したくなったらでいいけど。

 “今のクレハちゃんがどうしたいか”は、ちゃんと聞きたい」


「そうだな」


 俺も頷いた。


「クレハが決めた線を、俺たちも一緒に守るってことだしな」


 そう言って、庭の奥に目を向ける。

 礼拝堂の窓から、微かに人の声が漏れている気がした。


 中で、何が話されているのか──そのときの俺たちは、まだ知らない。


◇ ◇ ◇


 ──礼拝堂の奥、小さな相談室。


 木の机と椅子が二脚だけ。

 壁には女神の紋章と、簡素なランプがひとつ。


 紅葉は椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだまま、じっとしていた。


「緊張していますか?」


 向かいの椅子に座ったエルナが、静かに問いかける。


「……少しだけ」


「そういうときは、“少しだけ”ではなく“かなり”ですね」


 エルナはやわらかく笑った。


「ここでは、紅葉ちゃんの話したくないことまで無理に聞くつもりはありません。

 ただ、この世界で生きるための“線引き”を、一緒に考えたいだけです」


「線引き……」


 紅葉は自分の指先を見下ろした。


 血を吸っても、毒を塗っても、何も感じなくなったはずの、指先。


 今は、妙に落ち着きなく動いている。


「紅葉ちゃんは、“人を殺したことがありますか?”とは聞きません」


 エルナが不意にそう言った。


 頭を上げると、エルナは真剣な目でこちらを見ていた。


「それは、あなたが自分で処理すべき記憶であって、私が踏み込むことではありませんから」


「……」


「代わりに、こう聞きましょう」


 エルナは少し身を乗り出した。


「紅葉ちゃんが、この世界で──アキトくんとユイちゃんと一緒に生きていく中で、“絶対にしたくないこと”は何ですか?」


 しばし、沈黙。


 紅葉は、胸の奥を探るように目を閉じた。


 “絶対にしたくないこと”。


 里では、そんなこと考えたこともなかった。

 “したくないこと”も、“したいこと”も、里長と任務が決めるものだったから。


 でも、この世界に来て──

 秋人と結衣と一緒に旅を始めてからは、いつの間にか、胸の奥に別のものが芽生えていた。


「……二人を、捨てたくない」


 ぽつりと、紅葉は言った。


「捨てる?」


「危ないとき、“重い方”を捨てて、“軽い方”だけ連れて逃げる。

 里では、そう教えられた」


 影走りで、一人だけ救う。

 誰かの足を切り落として、囮にして逃げる。


 そういう“選択”を、何度も教わってきた。


「でも、今は……それはしたくない」


 指先が、ぎゅっと膝をつかむ。


「アキトとユイ、どっちかだけ選ぶの、嫌。

 二人とも、絶対生かしたい」


 エルナは、静かにその言葉を聞いていた。


 咎めもせず、慰めもせず、ただ受け止めるように。


「じゃあ今、紅葉ちゃんの中には、一つ線が引かれましたね」


「線……?」


「“二人のどちらかを切り捨ててでも生き残る”という選択肢は、この先もう選ばない。

 それが、紅葉ちゃんの“したくないこと”」


 紅葉は、ゆっくりと息を吐いた。


 言葉にしてみると、それはとても当たり前のようでいて──

 里で教わったことと、はっきり噛み合わないものだった。


「この世界の法律やギルドのルールも、たしかに線引きをしています」


 エルナが、自分の指で机の上に一本線を描くように撫でる。


「“人を殺してはいけない”“盗んではいけない”」「仲間を裏切ってはいけない」……

 そういう“共通の線”が、みんなの前にあります」


 でも、とエルナは続けた。


「その手前には、必ず“自分で引く線”があるんです。

 紅葉ちゃんが今言ったのは、その一つです」


「自分で……引く線」


「はい」


 エルナは、紅葉のステータスカードにそっと触れる。


【影走り】【隠密強化】【毒と薬の知識】──影を歩く者の力。


「紅葉ちゃんの力は、“どこまででも行ける”力です。

 誰にも見つからず、誰にも気づかれず、どこまでも」


「……うん」


「だからこそ、“ここから先は行かない”と、自分で決めないといけません」


 エルナの声は、穏やかだけれど、芯が通っていた。


「『命令されたから』『そう教えられたから』ではなく──

 “紅葉”という一人の人間が、“ここは嫌だ”と線を引くこと」


 紅葉は、机の上の見えない線をじっと見つめた。


「じゃあ、私は……」


 少しだけ、言葉を選ぶように唇を動かす。


「“依頼のためなら、何やってもいい”って思わない線、引きたい」


「いいですね」


 エルナが微笑む。


「もっと具体的には?」


「……例えば」


 紅葉の脳裏に、一瞬、里の指令書の文字がよぎった。


 毒を盛る。

 関係ない家族を使う。

 人質をとる。


「関係ない人を、巻き込みたくない。

 ターゲットの子どもとか、家族とか」


「ふむ」


「それから……“


怖がらせるだけ


(


・・・・・・・・


)


”仕事、嫌い」


 自分でも意外な言葉が口をついた。


「里では、“殺さないからまだ優しい”って言われた。

 でも、ずっと怖がらせて、二度と笑えなくなるまで追い込む仕事……嫌だった」


 ずっと、喉の奥に刺さっていた棘みたいなものだった。


 エルナは、しばらく黙って紅葉の顔を見つめていた。


「……紅葉ちゃん」


「うん」


「あなたは、とても優しい人ですね」


 紅葉は、きょとんとした。


「優しくなんか、ない」


「いいえ。優しいですよ」


 エルナはゆっくりと首を振る。


「“殺さないからまだマシ”と考える人の方が、この世界にはたくさんいます。

 でも紅葉ちゃんは、“怖がらせるだけ”の仕事を嫌だと思っている」


 それは、簡単なことではない。


 “恐怖”を武器にする方が、“命”を奪うより手軽で、安全なことも多いからだ。


「だから、そこに線を引きましょう」


 エルナは机に一本線を描くように、指をなぞった。


「紅葉ちゃんは、“仲間を守るために戦う”ことは選ぶ。

 でも、“関係ない人を延々と怖がらせるだけの仕事”は、もう選ばない」


「……選ばない」


 紅葉は、小さく、しかしはっきりと繰り返した。


 胸の奥に、目には見えない線が一本引かれる感覚があった。


◇ ◇ ◇


「この街にも、“影を歩いてきた人”はいます」


 エルナがふと、話題を変える。


「ギルドマスターのボルグさんは、紅葉ちゃんの力を“危ない”と言いつつも、“伸びしろがある”とも言っていました。

 そして──今は引退していますが、“元A級の斥候”が、この街には一人います」


「元A級……?」


 紅葉が顔を上げる。


「獣人の方です。

 昔は暗殺も請け負っていたそうですが、ある依頼をきっかけに“線引き”をして、今は表向きの仕事しかしていません」


「線引き……」


「ええ。

 紅葉ちゃんが、“今の自分の線”を少しずつ決めていくなら──

 その人は、きっと良い話し相手になってくれると思います」


「話し相手……」


「弟子にされるかもしれませんけどね」


 エルナが、少し冗談めかして言う。


 紅葉の胸の奥で、何かがちいさく動いた。


 里以外で、“技を教える相手”。


 “やっちゃいけないこと”を、一緒に考えてくれる人。


「……会いたい」


 紅葉は口にしていた。


「怖いかもだけど、会いたい」


「そう言うと思いました」


 エルナが微笑む。


「今度、ボルグさんに頼んでみましょう。

 あなたが“影を歩くことをやめたいのではなく、歩き方を変えたい”と言っていると伝えます」


「歩き方を……変える」


 紅葉は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 影から影へ。

 誰かの背後に回るたびに、刃を突き立てるためだけに動いてきた足。


 これからは、その足で──

 “守るために”影を走りたい。


 秋人と結衣の背中を、死なせないために。


◇ ◇ ◇


「……そろそろ、お二人を呼びましょうか」


 エルナが立ち上がる。


「今日話したことを、全部話す必要はありませんよ。

 紅葉ちゃんが“話したい”と思ったところだけで」


「うん」


 紅葉も椅子から立ち上がる。


 扉へ向かう前に、ふと振り返った。


「エルナ」


「はい?」


「私、優しいかな」


 自分でも、なんでそんなことを聞いたのか分からなかった。


 でも、口から出てしまったものは、もう戻せない。


 エルナは少しだけ目を丸くして、それから、ゆっくりと笑った。


「ええ。

 優しいからこそ、“どこまで戦うか”を悩んでいるんです」


 その言葉は、紅葉の胸に、静かに沈んでいった。


◇ ◇ ◇


 中庭に出ると、ベンチに座っていた俺とユイが同時に立ち上がった。


「おかえり、紅葉ちゃん」


「……ただいま」


 クレハは、いつもの調子でこくりと頷く。


 でも、目の奥にあるものは、昨日までと少し違って見えた。


「どうだった?」


 俺がそう聞くと、クレハは少しだけ考えてから答えた。


「うん……“やっちゃいけないこと”、ちょっと決めた」


「やっちゃいけないこと?」


「アキトとユイを、どっちかだけ捨てること」


 さらっと言うな、その重いことを。


「それから、“怖がらせるだけ”の仕事、もうしたくない」


「怖がらせるだけ……?」


 ユイが首をかしげる。


「うん。

 殺さないから優しいって言われる仕事、あった」


 クレハはそれ以上は言わなかった。

 でも、その一言だけで、だいたい察した。


「……そっか」


 ユイが、そっとクレハの手を取る。


「じゃあさ、それはもう“やらない”ってことで」


「うん。“やらない”」


 クレハは小さく微笑んだ。


「代わりに、“やること”決めた」


「やること?」


「アキトとユイ──二人とも、生かして帰す」


 シンプルで、わがままで、すごく難しい目標。


 でも、クレハがそう言うなら、俺たちもそれを前提に動くべきなんだろう。


「……じゃあ俺も決めとくわ」


 なんとなく、口が勝手に動いた。


「二人が“それ”選べるように、ちゃんと前で踏ん張る。

 俺のせいで“誰かを捨てないといけない”状況には、出来るだけしない」


 言ってから、ちょっとだけ照れくさくなった。


 けど、ユイが笑ってくれたから、よしとする。


「じゃあ私も」


 ユイが、手を離さないまま続ける。


「“守りたいから前に出る”って、昨日エルナさんに言われたけど……

 守りたいから、ちゃんと全体を見る。

 誰か一人に偏らないように、ちゃんと二人まとめて守る」


「……まとめて、守られる」


 クレハが、少し不思議そうに言って、それから照れたように俯いた。


「欲張り」


「お互いさま」


 三人で、ちょっとだけ笑う。


 その笑い声を、中庭の入口のところでエルナが静かに聞いていた。


 その横を、たくましい影が一つ通り過ぎる。


 背中に大きな傷跡を持った、獣人の男。


 片耳が欠けたその男は、ちらりと俺たち三人を横目に見て、鼻を鳴らした。


「……あの子か?」


「ええ。後で相談に伺いますね」


 エルナが小さく頭を下げると、獣人の男は面倒くさそうに肩をすくめた。


「好きにしろ。どうせヒマだ」


 短くそれだけ言って、男はギルドの方角へと歩いて行った。


 俺たちはまだ、その背中が何を意味するのか、知らない。


 ただ、少しずつ──

 自分たちの“線引き”と、“歩き方”を決め始めていることだけは、なんとなく分かっていた。


つづく。

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