第100話 血の熊、ブラッドベア
谷は、思ったよりも“静か”だった。
木々が左右から迫って、道は細くなる。
上を見上げれば、枝と葉が絡まり合って空を覆い、
日の光は細い筋になって地面に落ちる。
馬車の車輪が小石を踏む音が、やけに大きい。
「……この地形、嫌だな」
俺は小声で呟いた。
「逃げ道が少ないし、奇襲には最高の場所だ」
「そういう場所ほど、狙われます」
ユイが前方を見据えたまま言う。
クレハは少し先の枝の上。
猫みたいに軽い動きで、葉の影に溶けている。
ニナは御者台で手綱を握り、
唇をきゅっと結んでいるのが見えた。
「……深呼吸しよ、深呼吸」
小さくそう言って、息を整える。
その時だった。
クレハが、指を二本立てて合図した。
――“いる”。
次の瞬間。
森の左右から、矢が飛んできた。
「来た!」
ユイが槍の柄で矢を弾き落とす。
俺は刀を抜き、馬車の前に立って切り払った。
矢は三本。
狙いは全部、馬車と御者台――ニナだ。
「ニナ、伏せろ!」
「うんっ!」
ニナが身をかがめ、
馬車が揺れる。
同時に、左右の茂みから男たちが飛び出してきた。
革鎧、短剣、粗末な剣。
数は――七、いや、八。
「商隊だ! 荷を置け!」
「殺したくないなら従え!」
叫び声の割に、動きは連携している。
ただの野盗じゃない。盗賊ギルドの小隊だ。
「ユイ、右!」
「はい!」
ユイが一歩踏み込み、
槍を横薙ぎに払う。
短剣の男が、吹き飛ぶように転んだ。
俺は左から突っ込んできた剣士の斬り込みを受け、
鍔で弾いて懐へ――と思った瞬間、
「……っ!」
背中に寒気。
森の奥から、
“別の気配”が混じってきた。
それは、獣臭い。
そして――
血の匂いがした。
◇ ◇ ◇
「出るよ!」
クレハの声が、上から落ちてくる。
「熊――!」
次の瞬間、
森の奥の茂みが、べきべきべきっ!と音を立てて割れた。
黒い影が、這い出てくる。
いや、這い出てきたのは――熊だ。
でかい。
肩までの高さが俺の胸くらい。
体格は、普通の熊より明らかに太い。
そして一番、目を引くのは――
片側の毛皮が、黒赤く硬化したように固まっていること。
皮膚も一部、炭みたいに黒く変質している。
鼻先が、ひくひく動く。
その瞬間、熊の目が――赤く光った。
「……ブラッドベア」
ユイが低く言った。
俺の腕に鳥肌が立つ。
「血の匂いだ……!」
熊が唸る。
それだけで、空気が震える。
そして、盗賊の一人が、
さっきユイに吹き飛ばされて腕から血を流していた。
熊の視線が、そいつに吸い寄せられる。
次の瞬間。
ブラッドベアが跳んだ。
「うわっ――!」
盗賊が逃げる間もなく、
熊の前脚が叩きつけられ、地面にめり込む。
ごき、と嫌な音。
叫び声が一瞬で途切れた。
「……っ!」
胃の奥が冷たくなる。
(こいつ、人間を“獲物”として認識してる)
迷いがない。
怖いのは、俺たちが狙われていることじゃない。
“こいつにとって、人間はただの肉”だという事実。
◇ ◇ ◇
「秋人! 見て!」
ユイが視線で指した先。
谷の少し上、岩場の陰に――
フードを被った男が立っていた。
痩せた体。
黒いローブ。
手には、笛のようなもの。
男が笛を鳴らす。
キィ……と不快な音が、空気に刺さった。
ブラッドベアの動きが、変わる。
さっきの獲物に噛みつくのをやめ、
首だけをこちらに向けた。
俺たちを見た。
まるで――
“次はどれを殺す?”と問いかけるみたいに。
「……魔獣使い」
ユイが歯を食いしばる。
「ニナ、馬車を下げて!」
「でも道が――!」
「下がれるだけでいい! 今は距離を取って!」
ユイの声が鋭くなる。
「了解っ!」
ニナが手綱を引いて馬車を少し後退させる。
けれど谷は狭い。これ以上下がるのは難しい。
「クレハ!」
「分かってる!」
クレハが木の枝から跳び降り、
煙幕玉を地面に叩きつけた。
ぱんっ!と破裂し、
白い煙が一気に広がる。
盗賊たちが咳き込み、視界を失う。
その隙に俺は、ブラッドベアの前に立った。
(やるしかない)
刀の柄を握り直し、
心臓の鼓動を落ち着ける。
「ユイ、バフ!」
「はい!」
ユイが槍を一度地面に突き立て、
短い詠唱のような言葉を唱えた。
淡い光が、俺とクレハの足元に広がる。
身体が軽い。
呼吸が通る。
「……いける」
俺は一歩踏み込んだ。
◇ ◇ ◇
ブラッドベアが吠えた。
その声だけで、
耳が痛くなるほどの圧がある。
そして突進。
速い。
でかいくせに、速い。
「……っ!」
正面から受けたら、骨が砕ける。
本能がそう叫ぶ。
俺は横へ跳び、
同時に刀で“斜め”に斬りつけた。
刃が、毛皮に食い込む――が。
「硬っ……!」
皮膚の黒い部分に当たった瞬間、
刃が弾かれた。
金属音がした。
嫌な感触が腕に響く。
(こいつ、普通の魔物じゃない)
「秋人、無理に斬らないで!
足か目!」
ユイが叫び、
槍を突き出してブラッドベアの前脚を狙う。
ぶすっ、と刺さった――ように見えたが、
熊は止まらない。
槍が弾かれ、ユイの腕が震える。
「……重っ!」
ユイが一歩後退する。
そこへ、クレハが回り込む。
「影走り」
クレハの体が、影に溶けるように消え、
次の瞬間にはブラッドベアの側面に現れた。
短剣で、後ろ脚の腱を狙う。
だが――
熊の尾が、鞭みたいに振り払われた。
「っ……!」
クレハが宙を舞い、地面を転がる。
「クレハ!」
俺が叫ぶ。
しかしクレハはすぐに立ち上がり、
口元の泥をぬぐって首を振った。
「大丈夫。
まだ生きてる」
「そこ、基準が低い!」
言い返しながらも、
内心、ほっとする。
◇ ◇ ◇
盗賊たちは、まだ動けていない。
煙幕の中で混乱し、
ブラッドベアの暴れ方に恐怖している。
――そう。
こいつは盗賊の味方ですらない。
“血が出たら食う”。
それだけ。
魔獣使いが笛を鳴らし続ける。
ブラッドベアは、俺たちを優先して狙ってくる。
つまり、
この笛がこいつの鎖だ。
(鎖を切る)
俺は視線を上へ向ける。
岩陰の魔獣使い。
しかしそこへ行くには、
ブラッドベアをどうにかしないといけない。
「ユイ、短期決戦だ!」
「同意です!」
ユイは槍を握り直し、
霊槍の光を刃先に宿す。
「クレハ、拘束!」
「任せて」
クレハが腰の袋から
細いワイヤーと符を取り出した。
「これ、ドルガン式。
“熊縛り”」
「そんな技あんの!?」
「今作った」
「今!?」
でも笑えない。
やるしかない。
◇ ◇ ◇
俺はブラッドベアの正面に立ち、
わざと踏み込んで刃を見せた。
「こい!」
熊が突っ込む。
俺は風魔法を足元に放ち、
砂と枯れ葉を舞い上げて視界を散らす。
その一瞬の隙に、横へ。
ユイが真正面から槍を突き入れた。
狙いは、黒くない部分――首の付け根。
槍先が、深く入った。
「――っ!」
ユイの腕が震えた。
それでも踏ん張って、槍を押し込む。
血が噴く。
その匂いで、
ブラッドベアの目がさらに赤くなった。
やばい。
暴走が加速する。
(でも、今しかない!)
そこへクレハが回り込み、
ワイヤーを熊の首と前脚に絡め、
符を貼り付ける。
「縛れ」
符が淡く光り、
ワイヤーが締まった。
ブラッドベアの動きが一瞬鈍る。
その瞬間を、俺は逃さない。
刀を振りかぶり、
黒い硬化部ではなく――目を狙って斬る。
刃が、ぐしゃりと何かを断つ感触。
熊の咆哮が、谷に響いた。
◇ ◇ ◇
ブラッドベアが暴れる。
ワイヤーが軋み、
クレハが引っ張られて地面を滑る。
「クレハ、離せ!」
「離したら死ぬ」
「そこは死ぬ前提で動くな!」
俺が叫んだ、その時――
谷の空気が、すっと変わった。
リゼが、一歩前に出ていた。
「……ここまでね」
声は静か。
でもその一言で、
周囲の騒音が薄くなるような圧があった。
リゼの剣に、光が集まる。
火でも雷でもない。
淡い――けれど鋭い光。
「魔法剣・裂光」
リゼが一閃。
光が走り、
ブラッドベアの黒い硬化部が、紙みたいに裂けた。
熊の動きが止まる。
大きな体が、
ぐらりと傾いた。
その瞬間、
俺は最後の一撃を叩き込んだ。
心臓を狙って、刀を突き立てる。
ずぶり、と入る感触。
ブラッドベアが呻き、
そのまま崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
――静寂。
耳鳴りがするくらい、静かだ。
盗賊たちも、動きを止めている。
魔獣使いが、上の岩場で立ち尽くしていた。
笛が、手から落ちる。
「……っ、なんで……!
ただのC級が……!」
男の声は、どこか怯えていた。
その瞬間、クレハが動く。
影走り。
次の瞬間には、
魔獣使いの背後に立っていた。
「逃がさない」
短剣の刃が、
男の喉元に当てられる。
男の指には、
金属の指輪。
それに刻まれていたのは――
小さな紋章。
鳥の翼のようにも見える、
鋭い意匠。
(……エルステッド家の紋章だ)
言葉にしなくても、分かった。
ユイの目が、冷たく細くなる。
「やっぱり……」
俺の胸の奥が、
嫌な形で繋がっていく。
レオンハルト・エルステッド。
こいつは、ただのしつこい貴族じゃない。
そして――
この紋章の裏には、
もっと気持ち悪い“何か”がいる。
そんな予感だけが、
ブラッドベアの血の匂いより濃く、
谷の空気に残っていた。
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