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「嫌われてるんだと思ってた」
談話室の柔らかなソファに腰かけてすぐ、聖女は笑って言った。
「話に誘ってもなかなか応じてくれないから、商人の娘なんて嫌なのかなって」
「申し訳ございませんでした。私も慣れない仕事に振り回され余裕がなく、無礼を重ねてしまいました」
「いいのよ。今日こそはちゃんと向き合えそうで嬉しい」
紅茶を飲む姿勢が、一番はじめに会った時よりも洗練されている。
それを素直に伝えると、聖女は愛嬌ある仕草で胸を張った。
「ユーギリスをはじめ、たくさんの人に学ばせてもらったわ。初めてのことばかりで戸惑いも多かったけれど、新しいことを覚えていくのって楽しいじゃない? 自分が高められていくのがわかって、聖女になれて本当に良かったって思ってる」
「ご立派です」
「各地を巡らせてもらえるのも、良い経験よ。今までだって、父にいろんな場所に連れていってもらえたけれど、それよりも広い範囲で、いろんなものを見てきた」
黒曜石の瞳がきらきらと輝く。
「サリカは頭の古い一部の商人が流通を独占して、特に女性に必要な物資がなかなか行き渡ってなかった。ユルダでは品質の良し悪しに関わらず麦の買取価格が一定で、真面目に働く農民たちに不満が生じていたし、なにより働いても働いても裕福になれない絶望感が漂っていた。マキアブ国の王子は成果を出すものにだけご執心。どれも、紙に書かれた数字や言葉だけではわからないことよ。行って初めて、理解ができた」
王宮に引きこもる私には耳の痛い話だ。
そして、誇らしくなる。
彼女が見てきたこと、聞いたことは、すなわち、ユーギリスが見てきたこと、聞いたことと同じだから。
王宮内で日々職務をこなしてきた彼だけれど、聖女の護衛として外に出て、世界をめぐって、いろんなモノや考え方に触れて、考えて悩んで答えを出したことを城に持ち帰ってきてくれる。それがまた、国のため、民のためになるのだろう。
自由奔放なユーギリス。王宮のなかでも木登りをして、泥だらけになって、走り回っていた彼が、世界に場所を移して飛び回ることに、私は深い感慨を得た。
たとえ自身が、それについていけなくとも。
私には、目を輝かせるユーギリスが見えている。
「聖女様が、毅然とした態度で世界を見ていらっしゃること。きっとユーギリス様にも良い刺激になっているのだと思います。彼が城に戻ってくる度に、大変だけれどわくわくするのです。今度はどんな仕事を言い渡されるのか、それがどんな風に実を結ぶのか。自分がとても大切なことを任されてるって思うのです。私たちの仕事は未来に繋がる。そう信じさせてくれる」
「マリーも自分の仕事に誇りを持っているのね。私もそうなの。私を育んできた商会が、世界中の困っている人を助けることができる。素晴らしいでしょう」
「そうですね。……ああ、でも」
思わず言葉を濁す。
言っていいものか迷う。けれど、明るい聖女の表情に、私は無防備なまま本音を伝える。
「バレンダイン商会の軽快な動きは頼もしくもありますが、そちらがするのはあくまでも商売。秩序を敷き、福祉を担い、人々の発展と安寧を約束するのは、まずは王であるべきです。あなた方にも一人の国民として、足並みを揃えてほしいと思うこともあります」
王族に生まれ、貴族に生まれ、望まずともそこにある。ただそれだけで、彼ら彼女らは責任を負う。そういう教育を受ける。
時に五十年後を見据えた動きは、目の前の苦しみや個を見捨てた振るまいに思える。やっている私たちですら、なにが正解かなんて、わからない。下手をすれば数百年先にならないとわからないことだってあるのだから。
それでも、私たちは働く。
そう生まれたがために。
しかし聖女は、眉をつり上げた。
「遅すぎるのよ、あなたたちは。申請、調査が、確認、議会承認、調整。今まさに泣いている人たちがいるの。そんなことをしていては、間に合わない……私は、これからも目の前で困っている人には自分の手を差しのべる。リズ・バレンダインが聖女として選ばれたのは、きっと、そのためだと思うから」
漲る気迫。正直、私は圧倒された。
彼女の目は本物だった。再起の目だった。いろんなものを見たのだろう。その最中で、傷つきもしただろう。それでも立ち上がった人間だけが宿す、崇高な光に思えた。
これが聖女か。
私は素直な気持ちで頭を下げた。
「お気持ちは素晴らしいものです。ですが、私たちにも使命がある。ご理解いただけるように、これからも政略の説明は果たしていきます。動きがないように見えて、意味のある沈黙もあります。気になることは、行動の前に嘆願ください。私たちはいつでも聞き入れます」
私だって、泣いている人より笑っている人を増やしたい。ひもじい人より満腹な人を増やしたい。絶望よりも幸福を増やしたい。
それは、共通認識のはずだ。
「私たちは敵対すべきではない。目指すところが同じなら、協力できるはずです」
「…………マリーって、ちゃんと話せる人なのね。もっと、とりつく島のないような人かと思ってた。権力をふりかざして、全部を否定してくるような」
忌憚なき意見に苦笑する。
自分に頓着せずにきたツケなのだろうけれど、どんな風に見えていたのだか。
「私はユーギリス様の小間使いであって、なんの権力もありません。人に指示を出しているように見えるかもしれませんが、上から言われたことを下に流すだけ。判断能力はないのです」
「それは窮屈なのではなくって? あなたにだって野望や理想はあるでしょう」
「それはユーギリスが叶えてくれます。手のかかる弟のようなものでしたが、今回、離れてみてよくわかりました。彼は、きっと良き王になる」
言葉にして初めて、気持ちが透き通り、心地よい風が胸に吹き込む感覚がした。
ユーギリスが王として立つ姿を疑ったことなど一度もないのに、私は今までにない解像度でそれを想像することができた。
記憶に根付いた幼いユーギリスが、ぱっと成長する。彼は大人になったのだ。
私は、ふいに泣きたくなる。
嬉しいだとか、寂しいだとか、そんな風に色付けられない、とてもクリアな感情をのせて、涙を流したくなる。
そんな自分に、驚いていた。
私はここまで情緒豊かだったのか。
「ありがとうございます。聖女様。あなたと話して、私、大事なものを見つけたような気がします」
自然と微笑む私に、聖女は眉をひそめ、けれども彼女もまた口の端をつり上げた。
「ユーギリスが好きなのね」
「私にとっては唯一の存在です」
「そうなんだ。……いいなぁ、そういうの」
聖女の目が、きらりと光る。先ほどまでの崇高な光とは別の輝き。価値あるものを見定めた商人のような。
聖女が美しく微笑む。
「ねえ、マリーはどうやってユーギリスの小間使いになったの?」
「生まれがそうでした。乳母姉弟なのです。母が、王妃の侍女でした」
「王妃の侍女をつとめる人が母親なんて、やっぱりマリーも貴族なんだ。他の人とは雰囲気が違うなって思ってたけど」
「いえ、母がそうであったというだけで、私は違います。ですので、その見方は正しいですよ」
「あら、そういうこともあるの? 気になるわ。貴族ではない人でも、王子に仕えられるのね? 私にもなれるのかしら。やってみたら面白そう。どうやったらなれるの?」
「陛下と妃殿下の温情ですよ。たまたま拾ってもらったのです」
「私、前に王妃様とお茶をご一緒させてもらえたの。優しくて、背筋の伸びた、素敵な方だった。私の話に笑ってうなずいてくださったわ。巡礼が終わったら、私も頼んでみようかしら」
「どうでしょう。……小間使いなんて、聖女様のなさるようなことではありませんよ」
「聖女である前に私は私よ。私がやりたいことに挑戦し続けたいの。ねえ、マリーはどうして侍女ではなく小間使いなの? 貴族の母親から生まれたのに、貴族にはなれないのってなにか条件でもあるのかしら」
「……申し訳ございません。あまり詳しく話しても、聖女様の耳を汚すだけですから。私のことはお気になさらないでください」
「なによ、それ。変なの。気にするわよ。なんでも話して」
「申し訳ございません」
聖女は、ふーんと唇を尖らせた。拗ねた子供のような表情で、目をキョロキョロと動かす。
「頑なね。私が部外者だから? 気にしなくたっていいのに。これでも、いろんな話を聞いてきたのよ、下世話なことだって今さら嫌な気持ちになったりしないのに」
たとえばね、と彼女は微笑み、前のめりになる。後ろから滑り落ちてくる艶やかな長い黒髪をぱっと手ではらった。
「私に付いてきてくれているパロメ。彼女って朗らかで穏和な感じでしょう? でもね、意外と情熱家なのよ。マリンデア子爵と良い仲なんですって」
その名前に、私は息を飲んだ。
聖女がしてやったりの表情を浮かべる。
「夫人がいらっしゃる方相手に、なかなかやるわよね」
「聖女様!」
思わず立ち上がる。心臓がばくばくと音を立てていた。
ここには私と聖女しかいない。給仕も立たせていない。だからといって、あんまりな話だった。
「それは……それはおそらく、パロメ様はあなたにだからこそ打ち明けたことではないでしょうか。少なくとも、私が聞いて良い話ではありません」
「そう? 確かに二人きりの時に打ち明けられはしたけれど、彼女も結構、自慢げだったわ。ほら、こういうのって案外、人に聞いてほしかったりするでしょう。それにマリーは口が固そうだし、話してはだめな人には言わないわよね?」
「そういう問題ではありません。どうか、彼女からの信頼を裏切るような真似をなさらないで。私は聞かなかったことにしますから、どうか……!」
妻ある貴族と、侍女として出仕してきた若い娘が、仲を深める。
聞く人が聞けば卒倒するだろう。良い仲がどこまで発展したものなのかわからないが、発覚すれば、家格からしてもパロメが罪に問われかねない。
危険な話だった。笑ってするような話ではない。
パロメもきっと、それが広まることを良しと思っているわけではないはずだ。貴族ではない聖女だからこそ、こぼせたのではないかと直感した。
どのみち利害の範疇から外れている私は、その手のことの善悪を問えない。どの立場にも同情しない。したくない。だから、止めろとも言わない。
明るみに出ていい話だとも思わない。
「パロメ様とは私も話したことがあります。今でも、顔が見えれば立ち止まって言葉を交わすことだってある。それでも彼女は私にその相談をしなかった。ふさわしい相手として、私は選ばれなかったということです。話して良いかどうかの選択権はパロメ様にあるのです。……万が一に選ばれたとしても、私は、彼女自身の口から聞きたい」
頭を下げる。
「お願いですから、パロメ様を守ってさしあげて。きっと信頼の証として、あなたに大事なものを差し出して見せたのですから」
「やぁねぇ、こんな話よくあることなのに。マリーって潔癖なのね。婦人のサロンで交わされる話題なんて、こういうことばかりじゃない」
なぜだか聖女は青ざめた私を面白がっているようだった。
「ならあれは? 私のマナーの講師をしてくだざるダンドルド婦人。あの方、お母様を早くに失くされてご苦労なさってきたの、知ってらした? 実はね、私もそうなの。母がいないの。だから、意気投合しちゃって。ほら身だしなみとかってやっぱり母から躾られたりするものじゃない。男親が教える女の身だしなみと、女親が教える女の身だしなみって視点が違うでしょ? 大きくなってから苦労するのよねぇ。殿方が好む感じはなんとなわかるのだけど」
「……聖女様。そちらもあまり声高にされることではありません」
「じゃあ、あなたって人と話す時になんの話をするのかしら。興味があるわ。聞かせてよ」
そう言われても困る。
表面的な会話か仕事の会話くらいしか人としてこなかったから。
しかしここで退いてはいけない。
私は顔を上げる。
「以前、おっしゃられていた髪の手入れ方法を教えてくださいませんか。誰も傷つけない話題です」
「そう言えばそんな話もしたかしら」
聖女はちらりと私の髪を見た。
適当にまとめただけの、腰まで伸びた髪。
「あなたと私で、話が合えば楽しいかもしれないわ。でも、もし一方的な授業になってしまうのなら、私が努力して編み上げてきた知識の搾取じゃなくって? 私にも新たな発見があれば楽しめるのだけど、あなたにそれが提供できる?」
「……それは」
言葉につまる私に、聖女は声を上げて笑った。
「ふふ、冗談よ。マリーって、なんにでも一生懸命で、かわいいのね」
私は、なにも言えなかった。




