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問題。
救国の聖女様にケーキと暴言を浴びせた罪により私の首をハネた王子様が、開店前の仕事場に押し掛けてきた時の正しい対処法を述べよ。
解答。
私が知りたい。
ということで、私はとりあえずフライパンを構えた食堂の女将さんと包丁を握りしめた旦那さんに対して肩まで伸びた髪を振り乱しながら頭を下げて、とりあえず入り口に突っ立っている王子の手を掴み、店を縦断して裏口まで引っ張ってきた。
路地裏、これから暑くなる季節だというのに黒いフードつきのローブで全身を隠した明らかに怪しい風貌を前に、頭を抱える。
「どうしてこんなところにまで来たのですか! お一人で!」
「自国の治安がいかなるものかは把握しているよ。この都に、私を脅かすものはない」
「そうでしょうけど、そこじゃあない! ああもう、ラディウスはなにをしているのです! エルダは?」
側近の名を連ねても、彼はどこ吹く風。
人目がつかない路地裏ならいいかとばかりに目深に被っていたフードを取り払う。
丸い頭をふんわりと覆うはちみつ色の髪が建物に挟まれた薄暗い路地裏でも輝く。
髪と同じ色の長い睫に縁取られた垂れ目の中央におさまる大きな珊瑚色の瞳も、光を放って宝石のように煌めいていた。
常におっとりと微笑み、物腰柔らか。いかにも深窓の坊っちゃんらしい穏やかな雰囲気を醸し出す。
しかし甘いマクスに惑わされずに目を凝らせば、その首が太く、肩まわりもがっしりとして、武人の体つきをしているのがわかる。
ユーギリス・アルビルド。この国の王子にして、救国の聖女と共に五十年に一度の災厄を退けた勇者。
ではあるのだが、私にとっては、手のかかってしょうがない弟のような存在だ。
王妃と王妃の侍女だった母が私たちを授かったタイミングが同時期だったため、あれよあれよと乳母姉弟になってしまった。
王子が生まれれば男児を産んだ母親が、姫が生まれれば女児を産んだ母親が乳母となるのが通例なのに、今の陛下はそのあたり、とてつもなく、おおらかな方だったのだ。
そんな人の血を濃く引き継いだユーギリス王子もまた自由奔放。
安定した治世のもと生まれながらにしての王族たる彼が恐れるものなどなく、にこにこしながら急に下町の食堂に単身で乗り込んでくるような人なので、私は昔からその尻拭いばかりさせられてきた。
聖女への加害という罪を犯して断罪され、放逐された今なお、生まれてからの十七年間で染み付いた習慣は拭いきれない。
「ご用件は伺います。そうしたら警備隊を呼びますので、速やかにお戻りください」
単純に追い返すだけではまたきっと来る。こいつはそういう奴だ。
大人しく狙いを聞いたほうがいい。
ユーギリスは、ようやくか、と言わんばかりににっこりと笑った。
「いつまでここにいるつもり?」
どことなく呆れたような物言いに、私は唇を噛んだ。
「……いつまでだっていいでしょう。別に悪さなんてしていませんよ、慣れないながらも真面目に働いてます」
首に分厚く巻いた包帯を撫でる。短い髪では隠しきれない、その証。
彼を前にすると、嫌でも傷が疼く。
「審判はもう受けたのです。身分も財産も居場所も、この首だって差し出しました。他に、なにをお望みですか」
「私は君に望んだりしないよ。その逆はあるかもしれないけれど」
「ご冗談を。申し上げたばかりでしょう。もはや、そのような身分ではありません」
否。初めからそのような身分にはない。
乳母姉弟といっても、私では彼の護衛や腹心にはなれなかったので、立場は侍女以下だ。
彼の鞄と薬箱を持って、飛び出していく後ろを追いかけるのが主務だった。
ああ、なんだか、こんなところにまで押し掛けてくるユーギリスを前にして、また思い出してしまう。
忘れもしない、あれは五歳の頃。
ユーギリスが城の中庭の木に登ろうとして掴んだ枝が折れ、木から落ちた時のこと。
そばでおろおろしていた私はとっさに彼を受け止めようとしたが、結局うまくいかずに二人が衝突して、ユーギリスの左手の人差し指と中指が変な方向に曲がった。
それだけでもかなりショッキングだったのに、ユーギリスが泣きもせずに、これを無理やりもとの位置に戻したらそのまま骨も治ると思うか、なんて真剣に聞いてくるので、私はいよいよパニックを起こし、どうしてか彼の横っ面を思いっきり叩いてしまったのだ。
さすがに放心した彼の襟首を掴んで立たせ、引きずり、わんわん泣きながら大人の人を探しに行った。
当然、騒動になる。
私はいろんな大人に怒られた。
彼を止められなかったこと、怪我をさせたこと、頬を叩いたこと。そのすべてに私は泣きながら頭を下げる。
聞き付けて来てくれた王妃が息子が愚かだったのだと取り成してくれて、ようやく解放され、泣き腫らした目を擦ろうとして、私は私の右手の指もおかしな方を向いているのに気づいた。もう取り返しがつかないのではないかと疑うくらい、赤く膨れ上がっていた。
その後の記憶は不思議と失われている。
今も五指健全に動くのだから、なんとかなったのだろう。
散々だったが、懐かしくもある。いつもこの記憶を思い出しては、私を怒鳴り付けてきた大人たちに腹を立ててきたけれど、今は穏やかな心地にさえなった。
もう二度と帰れない過去となったからだ。
私の現在は、聖女迫害の罪を起こした地点から始まる。
あの女の顔を叩いてからの急転直下は、それまでのすべてを置き去りにした。
このユーギリスも、そのなかにいる。
「お尋ねになりたいのはそのことだけでしょうか。なら、もうよろしいですね」
帰りを促しても、ユーギリスは不動のままだ。
「事情をしるものはみんな、君が余計な意地を張っていると考えているよ」
「嫌な言い方を覚えられました。その親切なみんなに教えてもらったのですか? 多くの他者がそう考えている、だからなんだというのです。私が持つ真意は、当人にしかわからないものでしょう」
「なら教えて。その真意を。どうして元いた場所に戻ろうとしないのか」
「お忘れですか。私、罪人ですよ? どうして戻れるというのです」
城にはまだあの女だっている。
「君は、罰を受けた。自分でも言っただろう、差し出せるものはすべてを差し出したと」
珊瑚色の瞳が私の首に向けられているのがわかる。
包帯の下。そこには刃が通った跡がある。白い布を剥ぎ取れば、色の変わった皮膚が盛り上がり、赤い紐をぐるりと巻き付けたようになっている。
「やり直すのなら、過ちを犯した場所でやり直せばいい」
ユーギリスの身を覆うローブが揺れる。割けて、手が伸びてくる。
私はとっさに身構えた。行き場をなくした武骨な手が宙で止まり、指を丸めながら遠ざかっていく。
ユーギリスは手をローブの下に戻して、首を傾げた。笑みは崩さず、眉だけ辛そうに寄せて。
「……私が怖い?」
私の斬首を担ったのはユーギリスだった。
彼は、首を斬るのに邪魔にならないように、腰まであった私の髪をハサミで短く切り落とすところから手掛けた。
私は、そのことを根に持っている。
「王族が処刑人になるだなんて、前代未聞です。私との結託がないことの証明のつもりだったのでしょうが、あまりにひどすぎる」
「……マリー。僕は」
「あなたに、罪人とはいえ幼少期から共に過ごした乳母姉弟を斬らせた。その判断を下した人間のおぞましさを、私は生涯、忘れません」
ユーギリスがかすかに目を見開き、静かに瞑った。内に秘めたるものを溢すまいとでもするかのように。
「判断を下したのは私だよ。ラディウスから役目を奪った。君を他の誰にも委ねたくなかったから。……これで私は、君の生涯に刻み付けてもらえるだろうか」
「……そうですね。一度はなった言葉を取り消す気はありませんから」
「そう。良かった」
ユーギリスがまぶたを押し上げる。この短時間で、路地裏の暗さが染みたようだった。
見慣れた珊瑚色がくすむのに、胸騒ぎがする。
「先ほどの質問に答えましょう。私はあなたが怖くありません。首をハネられておきながら、不思議なのですが」
私は真っ直ぐに彼を見据えた。
「あなたを処刑人にしてしまった己の不甲斐なさに腹がたつくらいで、あなたのことはちっとも怖くはないのです」
ふっと再び現れたユーギリス瞳にもとの落ち着きを取り戻して、優雅に微笑んでいる。
「君がまた戻ってくるのなら、私はいつでも受け入れる。今すぐでなくてもいい。考えておいて」
「その余地はないように思いますが」
それには応じず、ユーギリスはフードを被り直した。帰ってくれるならそれにこしたことはない。
裏口から店の厨房に戻ると、女将さんと旦那さんがやはりフライパンと包丁を手にしたままじっとこちらを見つめている。
「旦那さん、女将さん。話は終わりました、ご心配をお掛けして申し訳ありません」
「マリー、大丈夫なのかい?」
いぶかしげな女将さんに、にっこり笑う。
「ええ。昔の知り合いです。……すみません。水を一杯いただいても?」
「構わんが」
店のグラスに水瓶から水をくみ、自分でひとくち飲んでからユーギリスに差し出す。
「暑い中来て、また帰るのですから、水くらいは飲んで行ってください」
「ありがとう」
彼はためらわずにグラスを飲み干した。
店の正面入り口から出てすぐ、見慣れた顔が不機嫌そうに立っていた。
「ラディウス!」
軍の隊服ではなく市井に溶け込む青年らしい格好だが、ベルトには短剣が差してある。彼ならばそれで十分だ。
明らかに武装していて、見上げるほどの長身に、狼のような銀髪、鋭い金の眼をした彼にたてつこうとする人間はなかなかいないだろう。
「よかった。付いてきてくれていたのですね。一人でここまできたのかと心配していたのです。中にまで来てくれれば良かったのに」
「俺が入ったらそれこそ通報もんだろうが。こんなことで、騒ぎをだしたかねぇよ」
ユーギリスを引き渡す。
ラディウスはじろりと彼を見てから、私を睨み付けた。
「で、おまえは戻らねぇのか」
「戻れるわけがないでしょう。彼にも言いましたが、罪人ですよ」
「ならさっさとこの国から出ていけ。中途半端な真似するから面倒がおきんだよ」
「ラディウス」
ユーギリスの諌める声音に、ラディウスは肩をすくめた。
小声でささやかれる。
「少なくともあの女はまだ知らねぇ。だが、居座るんなら覚悟しておけよ。時間の問題だぞ」
「…………わかりました」
去っていく二人を見送る。
店に戻るとフライパンを置いた女将さんにちからいっぱい抱き締められた。
「マリー。あんたは道端で怪我して困ってたあたしに声をかけて、今じゃこうして店も手伝ってくれてる。あたしたちにとっては、優しくて働き者の看板娘だよ」
目を白黒させていると、旦那さんに頭を撫でられる。
「俺たちはあんたに言いたくない過去があるのを承知で雇ってる。水臭いことはするなってことさ」
「さ、掃除の続きして店を開けるよ」
それ以上はなにも言わないでいてくれるのがありがたい。
この夫妻に拾われたのは、私にとっての幸運だった。
だからこそ、巻き込まないようにしなくては。
リズ。あの聖女に、居場所がバレたくない。
バレたらまた、めちゃくちゃになる。
掃除をしながら、私は店内を見回した。
名残惜しいけれど、ラディウスの言う通り国外に出ることも考えなくてはいけないだろう。せめて王都は離れなくては。
ふとユーギリスが頭をよぎる。手のかかる弟。彼を置いていかなければならないのは、少し気がかりだけれど、私は私の気持ちに嘘はつけない。
逃げたかった。
聖女、リズ・バレンダインから。




