第7話
エルミット王国の謁見の間は、張り詰めた空気に満ちていた。
磨き上げられた床に、二つの国の未来を背負う者たちが対峙している。
玉座に座すエルミット国王。その隣には、次期国王として、そしてわたくしの守護者として、揺るぎない威厳を湛えたレオルド皇子が立っている。
そして、わたくし――セレスティアは、もはや侍女の服ではなく、エルミット王家が用意してくれた、夜空の色をした優美なドレスに身を包み、彼の半歩後ろに控えていた。
その視線の先。
はるばるグランデール王国からやってきた使節団が、深く頭を垂れている。
その中には、見知った顔が二つあった。
第二王子、ルーファス。そして、わたくしの実の父親である、ヴァイスハイト公爵。
久しぶりに見る二人の姿は、惨め、という言葉以外に見つからなかった。
高慢だったルーファス殿下のプラチナブロンドの髪は輝きを失い、その顔には深い隈が刻まれている。父親もまた、この一月で一気に老け込んだように見え、その表情は憔悴しきっていた。
彼らが顔を上げた瞬間、その視線がわたくしを捉え、凍り付いた。
驚愕、不信、そして、理解を超えたものを見るかのような混乱。
無理もないだろう。
自分たちが『無能』と罵り、ゴミのように捨てた女が、隣国の皇子の隣で、まるで女神のように扱われているのだから。
「セ、セレスティア……? なぜ、お前が、ここに……?」
ルーファス殿下が、かすれた声で呟いた。
その声に応えたのは、わたくしではなく、レオルド皇子だった。
「その名を、気安く呼ぶな、グランデールの王子」
氷のように冷たく、地を這うような低い声。
謁見の間の空気が、さらに数度、下がった気がした。
「彼女は、お前たちがその手で追放した、ヴァイスハイト公爵令嬢ではない。我が国を、そして私を救った、聖女セリアだ。……いや、間もなく、私の妃となる女性だ」
レオルド皇子はそう言うと、わたくしの手をとり、優しく自分の隣へと導いた。
その堂々とした宣言に、ルーファス殿下は「ひっ」と息を呑み、父親はがっくりと膝から崩れ落ちそうになるのを、かろうじて堪えていた。
(ああ、この人たちは、まだ何も分かっていない)
彼らはきっと、わたくしが偶然、何かの奇跡の力を手に入れたとでも思っているのだろう。
自分たちが犯した過ちの、本当の意味を、まだ理解していない。
レオルド皇子は、そんな彼らを冷徹な目で見下ろした。
「さて、本題に入ろう。貴国を蝕む瘴気の件。……原因は、分かっているのだろうな?」
「そ、それは……、原因不明で……」
「白々しい嘘をつくな」
皇子の言葉が、父親の言い訳を斬り捨てる。
「瘴気の蔓延は、お前たちが彼女を追放した直後から始まった。あまりに都合が良すぎると思わんか?」
「な……、何を……」
「分からないか、公爵。ならば教えてやろう。お前たちが『無能』と蔑み続けた彼女こそが、その身に宿す強大すぎる聖なる力で、グランデールの地脈を無意識のうちに浄化し続けていたのだ。彼女は、ただそこに存在するだけで、国そのものを守る『人型の結界』だったのだよ」
真実が、刃となって突き刺さる。
ルーファス殿下と父親の顔が、絶望に染まっていく。
自分たちの愚かな行いが、自国の首を絞める結果になった。その単純明快な事実が、今、彼らの脳髄を焼き尽くしている。
「そんな……、馬鹿な……。だって、彼女の魔力は、『無』だと……!」
「貴国の時代遅れの測定器では、神の領域の力は測れんのだろう。……お前たちは、ダイヤモンドの原石を、ただの石ころと断じて投げ捨てたのだ。いや、違うな。国の礎を、自らの手で引っこ抜いたのだ」
レオルド皇子の言葉は、一言一句が、彼らの罪を暴き立てる断罪の刃だった。
ルーファス殿下が、ついにわたくしに向かって叫んだ。
「セレスティア! 頼む! 国に、帰ってきてくれ! 私が間違っていた! 謝罪する! もう一度、私の婚約者に……!」
「黙れ」
レオルド皇子の静かな一言が、彼の見苦しい命乞いをぴしゃりと止めた。
「彼女の心は、お前が捨てた。彼女の未来は、私がもらった。お前に、彼女に何かを願う資格など、一片たりとも残されていない」
そして、彼はわたくしに視線を移し、優しい声で尋ねた。
「セレスティア。……最後に、彼らに何か言いたいことはあるか?」
わたくしは、静かに一歩前へ出た。
かつて、パーティーで婚約破棄を突きつけられた時とは違う。
今のわたくしには、恐怖も、諦めもない。ただ、穏やかな真実だけが心にあった。
わたくしは、ルーファス殿下をまっすぐに見つめた。
「ルーファス殿下。わたくしがヴァイスハイト家に生まれたこと、そして殿下の婚約者であったことは、もはや遠い過去の物語です」
「なっ……!」
「貴方が破棄したのは、婚約だけではございません。わたくしという人間そのものを、貴方は不要だと断じました。……その決定を、今更覆すことはできません。わたくしの居場所は、もう、ここなのです」
きっぱりとした声で、最後の別れを告げる。
それは、復讐の言葉ではなかった。
ただ、あなたとはもう住む世界が違うのだという、冷徹な事実。
何よりも雄弁に、彼らの敗北を物語っていた。
ルーファス殿下は、がくりと両膝を床についた。
その青い瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
後悔しても、もう遅い。失ったものは、二度と戻らない。
その後、両国の話し合い――というよりは、エルミット側からの一方的な通告が行われた。
グランデールを救うための条件。
それは、あまりに過酷なものだった。
一、グランデール王家及びヴァイスハイト公爵家による、セレスティアへの公式な謝罪と、名誉回復の宣言。
二、瘴気の浄化に対する対価として、グランデールが持つ希少鉱山の採掘権の半永久的な譲渡。
三、そして、ルーファス第二王子の王位継承権の剥奪。
「……それが、貴国が失った『国宝』の代償だ」
レオルド皇子の言葉に、グランデールの使節団は、頷くことしかできなかった。
こうして、わたくしを巡る長い物語は、愚か者たちの完全な敗北によって、一つの幕を下ろしたのだった。




