第6話
わたくしがレオルド皇子の治療を始めて、一月が経った。
彼の回復は、奇跡としか言いようがなかった。
あれほど青白かった肌は健康的な色を取り戻し、痩せこけていた身体にもしなやかな筋肉が戻りつつあった。
そして何より、彼の瞳にはかつての絶望の色はなく、次期国王としての自信と輝きが満ち溢れていた。
「もう、侍女に本を読ませる必要もなさそうだな」
ある晴れた日の午後、彼は自力でベッドから起き上がると、バルコニーの扉を大きく開け放った。
久しぶりに浴びる陽光に、彼は気持ちよさそうに目を細める。
「ああ。光が、こんなにも温かいものだったとは。……セリア、お前のおかげだ」
振り返った彼の笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。
秘密裏に行われていた治療だが、皇子の劇的な回復ぶりは、もはや隠し通せるものではなかった。
城の者たちは、当初は首を傾げていたが、やがて噂が広まり始めた。
皇子の側に付き従う、灰かぶりのような地味な侍女。彼女が皇子の側にいるようになってから、奇跡が起き始めたのだ、と。
そして、ある決定的な出来事が起こる。
視察に訪れたエルミット国王――レオルド皇子の父親が、自らの足で歩き、溌剌と意見を述べる息子の姿を見て、感涙にむせんだのだ。
「おお……! レオ! 本当にお前なのか……!」
「ご心配をおかけしました、父上。もう大丈夫です」
父子の感動的な再会の場で、レオルド皇子ははっきりと告げた。
「私を救ってくれたのは、侍医たちではない。……そこにいる、侍女セリア。彼女の持つ、奇跡の力です」
その瞬間、わたくしに向けられた、すべての視線。
驚愕、疑念、そして、畏敬。
国王は、玉座から降りると、わたくしの前に進み出て、深く、深く頭を下げた。
「若き癒やし手よ。息子を、そしてこの国の未来を救ってくれたこと、心から感謝する」
一国の王が、身元も知れぬ侍女に頭を下げる。
その光景は、わたくしが何者であるかを、城のすべての者たちに知らしめるのに十分すぎた。
その日から、わたくしは「灰かぶりの侍女」ではなく、「エルミットの聖女」と呼ばれるようになった。
そんな歓喜に沸くエルミット王城に、一つの暗い報せがもたらされたのは、それから間もなくのことだった。
祖国、グランデール王国からの、救援要請の使者だった。
「……国内に、原因不明の瘴気が蔓延している、だと?」
謁見の間で報告を聞く国王と、その隣に立つレオルド皇子の顔が険しくなる。
わたくしは、後方に控える侍女の一人として、そのやり取りを聞いていた。
グランデールの使者は、悲痛な面持ちで訴える。
「はっ。当初は些細なものでしたが、ここ一月で急速に広まり、今や王都の一部までが瘴気に覆われ……。土地は枯れ、人々は病に倒れております」
「グランデールには、『現代の聖女』と呼ばれる令嬢がいると聞いていたが?」
レオルド皇子の鋭い問いに、使者は顔を青くして俯いた。
「……マリアベル様の光の魔法では、瘴気を祓うことができず……。いえ、それどころか、瘴気に触れたマリアベル様ご自身が、体調を崩されてしまい……」
(マリアベル様が……?)
胸が、ちくりと痛んだ。
あの女のことは好きではない。けれど、彼女が苦しんでいると聞けば、良い気はしなかった。
(……待って。瘴気の蔓延が、ここ一月で急速に?)
それは、ちょうどわたくしがグランデールを離れた時期と、ぴったり重なる。
まさか。
そんなはずは、ない。
わたくしの顔から血の気が引いていくのを、レオルド皇子は目敏く見つけ出した。
彼は使者を下がらせると、わたくしの方へ歩み寄ってきた。
「セリア。何か、心当たりがあるのか?」
「……いいえ。ですが、その瘴気は、わたくしの祖国を……」
「お前の祖国?」
しまった、と口を噤んだが、もう遅い。
彼の黒い瞳が、すべてを見透かすようにわたくしを見つめていた。
「……お前が、グランデール出身であることは、調べさせてもらった。ヴァイスハイト公爵家の……セレスティア嬢」
ついに、本当の名を呼ばれた。
息が、止まる。
わたくしが驚きに目を見開いていると、彼は困ったように眉を下げた。
「すまない。お前を守るためにも、知っておく必要があった。……話して、くれるか? お前と、その瘴気との関係を」
彼の優しい声に、もう隠し通すことはできないと悟った。
わたくしは、観念して、すべてを打ち明けた。
自分の力が【聖癒】であると同時に、扱いを誤れば生命を奪う危険なものであること。そして、その力を無意識のうちに抑え込むことで、結果的にグランデールの土地に満ちる微弱な瘴気を、浄化し続けていたのかもしれない、という可能性を。
わたくしは、ただの『無能』ではなかった。
わたくしは、ただそこにいるだけで、国を守る『結界』そのものだったのだ。
話を聞き終えたレオルド皇子は、わたくしを追放したグランデール王家とヴァイスハイト公爵家に対し、静かな、しかし燃えるような怒りをその瞳に宿していた。
「……愚か者どもめ。彼らは、自ら国の守護石を砕き、投げ捨てたも同然だ」
彼はわたくしの肩を強く抱くと、決意を込めて言った。
「セレスティア。もう、お前を一人にはしない。お前の故郷が犯した過ちの代償は、俺が払わせる」
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レオルド皇子の全快は、エルミット王国を挙げての祝祭となった。
王城のバルコニーに、皇子が健康な姿で現れた時、城下に集まった民衆から割れんばかりの歓声が上がった。
そして、彼の隣には、質素ながらも清らかな侍女服に身を包んだ、わたくしの姿があった。
レオルド皇子は、民衆に向かって高らかに宣言した。
「皆に紹介する! 私を、そしてこの国を救ってくれた、真の聖女、セリアだ!」
民衆は、わたくしを「エルミットの女神」と呼び、その名を熱狂と共に叫んだ。
ヴァイスハイト公爵令嬢として、誰からも認められず、蔑まれてきた日々が、まるで遠い昔の悪夢のように思えた。
一方その頃、わたくしを追放した祖国グランデールは、まさに地獄の様相を呈していた。
瘴気は王都の中心部にまで達し、人々は家々に閉じこもり、街からは活気が消えた。頼みの綱だった『現代の聖女』マリアベルは、瘴気の毒にあてられて病床に伏し、回復の兆しはない。
婚約破棄を宣言した第二王子ルーファスは、日に日に悪化する状況に、ただ苛立ちを募らせていた。
「なぜだ! なぜマリアベルの力が効かんのだ!」
「殿下、お気を確かに……」
「うるさい! そもそも、こんな瘴気、あの女――セレスティアがいた頃には、発生などしなかったではないか!」
その言葉に、側近の一人が恐る恐る口を開いた。
「そういえば殿下……。エルミット王国で、不治の病に伏せっていた皇子が、謎の癒やし手によって全快したという噂が……」
「何だと? 詳しく申せ!」
ルーファスは、その癒やし手が、出自不明の『セリア』という名の若い娘であること、そして、彼女が現れた時期が、セレスティアを追放した時期と重なることを知った。
まさか。
あの『無能』な女が?
あり得ない。
しかし、ルーファスの胸に、一度芽生えた疑念は、消し去ることのできない後悔となって、じわじわと心を蝕み始めた。
もし。万が一。
自分は、とんでもない過ちを犯してしまったのではないか?
本物の価値を見抜けず、見せかけの輝きに目がくらみ、国宝級の宝を、自らの手で捨ててしまったのではないか?
その焦りと後悔は、ヴァイスハイト公爵家も同様だった。
領地の作物も瘴気の被害を受け始め、家門の威光にも陰りが見え始めていた。
父親は毎晩のように酒を煽り、母親は泣き暮らし、妹のアナスタシアは良縁がすべて破談になったとヒステリーを起こしている。
誰もが、心のどこかで気づき始めていた。
自分たちが『不吉な子』『家の恥』と蔑み、追い出した長女が、実はこの家の、いや、この国の誰よりも価値ある存在だったのかもしれないという、受け入れがたい事実に。
そんなグランデールの惨状を、わたくしたちはエルミットで静かに見つめていた。
エルミットは、グランデールからの救援要請に対し、一つの条件を提示した。
『我が国の聖女セリア様の御心を動かすに足る、相応の誠意を見せること』
それは事実上、セレスティア――つまり、わたくしを追放した者たちが、その罪を認め、頭を下げに来い、という宣告に他ならなかった。
すべてが、逆転したのだ。
価値がないと断じられたわたくしが、今や国の命運を握る鍵となり、わたくしを断罪した者たちが、わたくしにすがるしかない状況に追い込まれた。
すべての舞台が整った夜。
レオルド皇子は、王城の庭園で、星空を見上げるわたくしの隣に立った。
「セレスティア」
彼は、わたくしの本当の名を、慈しむように呼んだ。
「グランデールの者たちが、間もなくこちらに到着するだろう。……お前は、どうしたい? 彼らを許すか? それとも……」
「……わかりません。ですが、民に罪はございません」
「そうか。お前は、優しいな」
彼は、そっとわたくしの手を握った。
その手は、初めて会った時とは比べ物にならないほど、温かく、力強かった。
「ならば、交渉は俺に任せろ。お前が二度と、あの者たちに傷つけられることがないよう、俺が盾になる。……だから」
彼は、わたくしの前に跪くと、固く握ったその手を取り、恭しく口づけた。
その黒い瞳が、星の光を宿して、まっすぐにわたくしを見上げている。
「セレスティア・フォン・ヴァイスハイト。俺の妃になってほしい。俺の隣で、この国で、幸せになってはくれないだろうか」
それは、あまりに真摯で、熱烈な求婚。
かつて、政略のために交わされた、心のない婚約とは違う。
わたくしのすべてを理解し、受け入れ、愛してくれる人からの、魂の誓い。
涙が、頬を伝った。
それは、悲しみや悔しさの涙ではない。
生まれて初めて感じる、温かい、幸せな涙だった。
わたくしは、涙に濡れた笑顔で、精一杯、頷いた。
「……はい。喜んで、お受けいたします」
こうして、かつて『無能才媛』と蔑まれた令嬢は、その真の価値を見出してくれた人の手を取り、新たな人生の扉を開いた。
しかし、物語はまだ終わらない。
過去との決着、そして愚か者たちへの断罪が、すぐそこまで迫っているのだった。




