第2章 第9話
夜明けの戴冠式から数週間後。
グランデールとエルミット、両国の間に、新たな友好条約が正式に締結された。
それは、過去の過ちを清算し、未来永劫にわたる平和と協力を誓う、歴史的な盟約だった。
調印式の場には、グランデールの代表として、すっかりやつれた、しかしどこか吹っ切れたような表情をした、わたくしの父親の姿があった。
爵位を返上し、今は一人の貴族として、国の再建に尽力していると聞いていた。
式典の後、彼はわたくしの前に進み出て、深く、深く、頭を下げた。
それは、父親としてではなく、一人の罪人としての、心からの贖罪だった。
「セレスティア……いや、エルミット王妃殿下。……本当に、すまなかった。この国を、そして、何よりお前自身の心を、深く傷つけてしまった。……許してくれとは、言わん。だが、これだけは、信じてほしい。今の私は、心の底から、お前の幸福を願っている」
彼の瞳には、もう昔のような傲慢さや、わたくしを蔑む色はなかった。
ただ、犯した罪の重さに打ちひしがれ、それでも前を向こうとする、一人の人間の弱さと、そしてほんの少しの強さがあった。
わたくしの隣で、レオルドが静かに見守ってくれている。
彼が、わたくしの手をそっと握ってくれた。その温もりに勇気をもらい、わたくしは父に告げた。
「……お顔を、上げてください。過去は、もう消えません。ですが、未来をどう生きるかは、私たちが決めることです。……グランデールの民のために、貴方の残りの人生を捧げてください。それが、貴方なりの、償いになるはずです」
それは、許しではなかったかもしれない。
けれど、過去を断ち切り、未来へと進むための、わたくしなりの決別の言葉だった。
父は、わたくしの言葉に、ただ静かに涙を流し、何度も頷いた。
罪を犯した者たちには、それぞれの形で罰が下された。
アルフォンスとその一味は、国家反逆罪として、グランデールの法の下で厳しく裁かれた。歪んだ野望は、闇へと葬り去られたのだ。
そして、修道院に送られていたルーファス殿下とマリアベル嬢。
彼らは、今回の奇跡――大地が蘇る光景を、辺境の地で目の当たりにしたという。
自分たちが捨てたものがいかに偉大であったか、そして、自分たちが信じていた『聖女の力』がいかに矮小であったかを、骨の髄まで思い知らされたことだろう。
彼らが、その罪を胸に、静かに生涯を終えることこそが、彼らにとって最も重い罰となるのかもしれない。
すべての過去が、あるべき場所へと収まっていく。
まるで、長い冬が終わり、新しい春が訪れる前の、静かで穏やかな時間のように。
その日の夜。
エルミットの自室のバルコニーで、レオルドと二人、星空を見上げていた。
「……これで、本当に、すべて終わったのですね」
「ああ。ここからは、俺たちの時間だ」
彼は、わたくしの肩を優しく抱き寄せた。
彼の身体からは、常に微かな魔力が流れ出し、わたくしを通して、遠いグランデールの大地を癒やし続けている。彼が背負った、新たな宿命の証だ。
「……重くは、ありませんか? その誓約は、貴方を縛り付ける枷になるのでは……」
心配するわたくしに、彼は悪戯っぽく笑った。
「枷ではない。絆だ。……それに、お前と共に背負うのなら、どんな重荷も、羽のように軽いさ」
彼の言葉が、いつもわたくしの不安を溶かしてくれる。
「それよりも、セレスティア」
彼は、真剣な表情でわたくしに向き直った。
「お前に、報告がある」
「報告、ですか?」
「ああ。王として、夫として……そして、もうすぐ、父親になる男としての、な」
「……え?」
一瞬、彼が何を言っているのか、理解できなかった。
父親に、なる……?
わたくしが呆然としていると、彼はそっとわたくしのお腹に手を当てた。
その手は、驚くほど優しく、温かかった。
「まだ、気づいていなかったのか? お前の中に、新しい命が芽吹いているのを。……俺と、お前の、愛の結晶だ」
彼の言葉に、頭が真っ白になる。
そういえば、ここ最近、少しだけ身体がだるく、眠気を感じることが多かった。
まさか、それが……。
わたくしのお腹に、自分でもそっと手を重ねる。
まだ、何も感じない。
けれど、この中に、確かに、愛する人との子が宿っている。
その事実が、じわじわと、実感となって胸に広がっていく。
「……本当、ですか……?」
「ああ。侍医に確認させた。間違いない」
涙が、零れた。
それは、悲しみでも、安堵でもない。
ただ、純粋な、魂が震えるほどの、喜びの涙だった。
『無能』と呼ばれ、誰からも愛されず、自分の価値を見失っていた自分が、今、新しい命を育んでいる。
こんな奇跡が、あっていいのだろうか。
「ありがとう……、レオルド様……! ありがとう……!」
「馬鹿だな。礼を言うのは、俺の方だ」
彼は、わたくしを優しく抱きしめ、涙で濡れた頬に、何度も口づけを落とした。
星空の下、わたくしたちは、ただ静かに、これから生まれてくる新しい家族の温もりを感じていた。




