第2章 第2話
翌日、わたくしとレオルドは、エルミットの誇る宮廷魔術師や賢者たちを集め、対策会議を開いていた。
グランデールから送られてきた瘴気のサンプル――黒水晶に封じ込められた微かな黒い靄は、見るからに邪悪な気配を放っていた。
「……これは、通常の瘴気ではないな」
白髭の賢者が、顔を顰めて言った。
「まるで、大地の怒りそのものが凝縮されたかのようだ。何者かの強い呪いが込められておる」
「呪い……?」
「うむ。自然発生したものではない。これは、明らかに人為的なものじゃ」
人為的な呪い。
その言葉に、会議室の空気が一層重くなる。
一体、誰が、何のために。没落したルーファス殿下やヴァイスハイト公爵家に、今更そんな力があるとは思えない。
わたくしは、意を決して黒水晶にそっと手をかざした。
【聖癒】の力を、ほんの少しだけ注ぎ込む。
すると、どうだろう。以前の瘴気であれば、光に触れた雪のように霧散したはずなのに、今回のそれは、まるで油と水のように反発し、浄化されることを頑なに拒むのだ。
「……ダメです。わたくしの力だけでは、これを完全に消し去ることはできません。一時的に抑え込むことはできても、根を断ち切らなければ、何度でも湧き出してくるでしょう」
自分の力が通用しない。
その事実に、焦りと、これまで感じたことのない微かな恐怖を覚えた。
レオルドは、そんなわたくしの心中を察したように、静かに言った。
「ならば、根を断つ方法を探すまでだ。……敵の正体と、その呪いの本質を解き明かす必要がある」
その日の午後、わたくしは一人、城の書庫にいた。
グランデールの歴史や、瘴気、古代の呪いに関する文献を、片っ端から調べていたのだ。何か、糸口が見つかるかもしれない。
(それにしても、旧王城の地下、か……)
ふと、脳裏に蘇る記憶があった。
幼い頃、一度だけ、祖母に連れられてそこを訪れたことがある。
『ここは、私たちの国が始まる前からある、とても大切な場所。決して、穢してはならないのですよ』
そう言って、何かを憂うように目を伏せていた祖母の横顔を、なぜか鮮明に思い出した。
「セレスティア様、お疲れではございませんか? 少し、休憩になさっては」
侍女が、温かいハーブティーを運んできてくれた。
彼女は、わたくしがヴァイスハイト公爵家からエルミットへ来る際に、祖母が遺してくれた隠し財産と共に、こっそりと託してくれた鍵のことも知っている、数少ない侍女の一人だった。
「ありがとう。……ねえ、少し、昔の話を聞いてくれる?」
わたくしは、祖母の思い出を彼女に語った。
すると、侍女ははっとした顔で言った。
「セレスティア様。奥様が亡くなる直前、あなた様にと遺された小さな木箱がございましたでしょう? 確か、あの中に、日記のようなものが入っていたはずですが……」
木箱。
そうだ。祖母の形見は、腕輪だけではなかった。
エルミットへ来るときに荷物に入れてきたものの、あまりに慌ただしい日々の中で、その存在をすっかり忘れていた。
わたくしは急いで自室に戻り、クローゼットの奥から、埃をかぶった小さな木箱を取り出した。
鍵を開け、中を改める。
そこには、古びた革張りの手帳が、静かに収まっていた。
祖母の日記だ。
ページをめくると、懐かしい、インクの匂いがした。
そこには、祖母の優雅な文字で、ヴァイスハイト家に代々伝わる【聖癒】の力の秘密と、その使命についてが綴られていた。
『――我らの一族に宿るこの力は、単なる治癒の力にあらず。荒ぶる大地の魂を鎮め、世界との調和を保つための『調停者』としての力なり』
読み進めるうちに、わたくしは息を呑んだ。
日記には、衝撃的な事実が記されていたのだ。
遥か昔、グランデール建国の王は、国の土地を豊かにするため、大地の精霊とある『誓約』を交わしたという。
王家は精霊を敬い、その力を決して独占しない。その代わり、精霊は大地に恵みを与え続ける。
そして、その誓約の番人、そして精霊との唯一の対話者として選ばれたのが、わたくしの祖先――初代【聖癒】の力を持つ巫女だったのだ。
しかし、数代前の強欲なグランデール王が、その誓約を破った。
精霊の力を独占し、軍事力として利用しようとしたのだ。
王は、わたくしの先祖である巫女を裏切り、精霊を旧王城の地下深くに、呪いをもって封じ込めてしまった。
『――以来、グランデールの地脈は常に不安定となり、微弱な瘴気が漏れ出すようになった。我ら一族は、その力を無意識に使い、漏れ出す瘴気を浄化し、大地の怒りを鎮め続けるという、終わりなき役目を背負わされた』
『いつか、この呪いを解き、精霊様を解放しなければ、グランデールに真の安寧は訪れないだろう……』
すべてが、繋がった。
わたくしが国を追われたことで、抑えられていた大地の怒りが、本格的に溢れ出し始めたのだ。
そして、今回の瘴気に込められた『呪い』とは、精霊を封じ込めている、古代の呪縛そのものだったのだ。
これは、ルーファス殿下や父たちが引き起こした問題ではない。
もっと根深い、グランデールという国そのものが、遥か昔から背負ってきた罪。
日記を握りしめ、わたくしはレオルドの執務室へと走った。
扉を開けると、彼は書類の山に埋もれながらも、わたくしの気配に気づいて顔を上げた。
「どうした、セレスティア。そんなに慌てて」
「レオルド様! 分かりました……! この瘴気の、本当の正体が!」
わたくしは、祖母の日記の内容を、彼にすべて話した。
話を聞き終えたレオルドの瞳には、怒りと、そして強い決意の光が宿っていた。
彼は席を立つと、わたくしの両肩を掴んだ。
「……そうか。ならば、我々のやるべきことは一つだ」
彼の視線が、わたくしの視線とまっすぐに交わる。
「セレスティア。俺と共に、グランデールへ来てくれるか。過去の過ちを正し、呪われた大地を解放するために。……そして、お前の祖先が果たせなかった使命を、今度こそ、俺たち二人で終わらせるんだ」
それは、あまりに危険で、困難な旅の始まりを告げる言葉。
けれど、わたくしの心に、もはや迷いはなかった。
愛する人が、隣にいてくれるのだから。
わたくしは、彼の大きな手を強く握り返し、はっきりと頷いた。
「はい、レオルド様。どこまでも、お供いたします」
こうして、わたくしたちの新たな戦いが始まった。
それは、単なる瘴気の浄化ではない。
忘れられた誓約を巡る、過去と未来を懸けた、壮大な物語の幕開けだった。




