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単にバトルシーンが書きたかっただけの話

 ――グォォォアアアアア!!


 竜。世界最強の神獣であり、僕の憧憬。

 それを倒すことだけが、僕にとっての生きる意味だった。


 その咆哮に大気が揺れ、鼓膜に特大の振動が叩きつけられる。音に乗せられた気迫が大地を駆け抜け、本当に地震が起きているのかとすら感じる。それは、彼の咆哮に、迫力に、僕自身が耐えられていないだけなのかもしれない。


 だが、凄まじい。


 彼我の距離はまだ遠く開いたままであり、例え今竜がブレスを吐いたとしても、此方に届く頃には威力は殆ど減衰している。竜のブレスはレーザーではないのだ。その吐き出された炎は鉄は勿論岩をも溶かすことが出来るが、どれだけの熱量をもっていたとしても所詮は炎でしかない。吐き出された瞬間から減衰は始まり、周囲の空気に触れることで熱量は次第に拡散されていく。


 その事実を知っていたとしても感じる圧が、危機感とともに身体に熱を持たせた。

 いい傾向だ。いざ戦闘が始まれば気分を整えている暇などありはしない、そんなことをやっていれば行く先は死のみだ。だからこそ、調整は事前にしておかねばならない。

 確認するまでもない、心身共に今が最高潮。


 僕は口元を笑みで歪ませた。


 元々身体が弱かった僕は、人が抗えない怪物を倒し世界を救う、そういう空想の物語や英雄譚に憧れていた。

 だってそうだろう? 誰もが自分にできないことを羨ましく思い、嫉妬する。人の心理的生理症状とも言える欲望だ。僕の場合はそれが少し子供じみていたという、それだけの話。

 病弱で家からあまり外に出れなかった僕を思ってか、両親は多くの本を買ってくれた。勿論、家は貴族でもなんでもなかったから、小さな本棚が埋まるくらいだったけど、僕にとってはそれが世界の総てだった。

 そんな生活をしていたから、英雄に憧れるのは必然だったかもしれない。けれど、身体は夢を見ることすら許してくれないまでに弱かった。心が踊る夢想の世界を描く本のページを捲る度に、その力をかければすぐにでも折れてしまいそうな細い腕が視界に入り、現実を突きつけられるのだ。


 だから、僕が悪魔に魂を売ったことも、必然だった。


「さぁ、行こう」


 その言葉と共に足が地面を踏みしめて、抉りとった。風を、音を置いて突き進む。景色は流れるように後方へと消え去り、先程まであれほど遠かった竜はもう目前だ。遅れて聞こえるソニックブームの爆音は開戦の合図。竜の懐に潜り、移動エネルギーの総てを乗せた掌底を放つ。


 ガァァァァアアアア!!!


 確かな手応え。一拍遅れて届く衝撃にその巨体が数瞬浮き、竜が痛みに悲鳴を上げた。だが緋色の目は爛々と輝き、見るからに戦意に満ち満ちている。面白い、それでこそ竜。物語の英雄たちが、背負った者を守る為に命を懸けて戦った、そんな敵が簡単に倒せては興が醒めてしまう。


 英雄。そう呼ばれる彼らが行っていたような、血の滲むような努力や技の研鑽、そのどちらも僕はしてこなかった。そこに辿り着くまでの過程も、二度と味わえないような経験も、生まれてきて良かったと思えるような感動も、何一つとして解らない。だが、それでもそれらを思い描くことくらいは自由だろう。だからこそ、竜を倒すことには僕なりの意味がある。


 竜は翼を大きくはためかせて巨体に似合わない俊敏な動きで体制を立て直し、大きく後方に飛び距離をとる。

 まさか、今の一撃で怯んだのか?

 ――いや、違う。


 グゥゴゴォォアアア!!!


 竜とはただの生物では無い。神獣聖獣魔獣、呼び方はいくつか有るが、寿命が長く膨大な魔力をその期間蓄積させることで、体組織そのものが魔力というエネルギー体となった生物達。それらは感情によって熱が発露され、より強い感情を持つことでその量も飛躍的に上昇する。

 そして、最も重要なこと。魔力は思いを感じてそれを事象にする力がある。つまり、強く願えば何でも叶うということ。勿論それは生半可な気持ちで起こる事ではなく、願いは現実と乖離しているほど事象として起こりにくくなる。


 竜が今願ったこと、それは己の敵を焼き尽くす焔。プライドの高い種族である竜が、羽虫の如き存在である僕に負けることは許されない。竜にとっては頂点に立つということが生きる総てであり、自らが世界の絶対強者であるという自負があった。


 先程の一撃でさえ傷一つ付いていない強靭な鱗を纏った全身におどろおどろしい亀裂が入り、それはマグマが岩の裂け目から噴出するように爆発的なまでの紅炎を吐き出した。あまりの熱量に耐性がある筈の自らの鱗でさえも赤く染め上げ、裂け目からはドロドロとした何かが流れ出る。


「ここからが、本番だね」

 グォォオオオオアアアアア!!!


 再び懐に潜り込む。が、初撃は不意打ちとも言える状況だからこそ成功しただけでしかない。侮りの消え失せた紅に燃える瞳は、僕のことをしっかりと見据えていた。

 まるで、


 ――待っていたかのように。


 気が付けば周囲には極々微細な粉塵が舞っていた。それは風に溶け大気に紛れ、けれど確かにそこに存在する。ただの砂埃だと思って油断していた。もう遅い、気が付いたその時点で総てが遅かった。吹き上がっていた火花と粉塵が、接触する。


「やば――」


 一面を覆う閃光と、衝撃。


 何も、聴こえない。どうやら鼓膜は破れ耳は使えない。

 視界は白色に染まっている。残像が目に焼き付いていた。

 方向感覚、上下左右すら分からない。

 痛みも、四肢の感覚も、五感のなにもかもを失っている。


 だが、生きている。僕はまだ死んじゃいない。

 大丈夫だ、これらの症状は一時的でしかない。

 直ぐに元に戻る、体の損傷は回復魔法で治せるのだから。


 ここから離脱しなければ。こんな隙を奴は見逃さないだろう、既にもう追撃が来ているかもしれない。

 治せるとは言っても、一度でも死んでしまえば何もかも無意味だ。死者蘇生は神の御業、人が踏み入れていける領域ではないのだから。


 早く、離脱を。

 だが、その思考とは裏腹に体はいうことを聞かない。いや、一切の感覚がなく動いているのかすらわからない。


「――――、――。――――」

「……ぁぁ」


 徐々に回復していく視界の中で、僕は誰かの背に護られていた。未だ白む世界の向こうで、振り下ろされた必殺とも言える竜の鉤爪を受け止める誰かがいた。

 身動きが取れず倒れ伏す僕の周囲には、黄金に輝く結界が張られていた。

 誰かは竜と比べればとても小さな体で鉤爪を受け止め、その度に付随する衝撃波から、僕を護っていた。


 結界の中は暖かい魔力が充満し、それは少しずつ僕の体に染み込んでいく。身体機能は徐々に回復し、感覚の混濁も次第に収まっていく。


「さぁ、逃げるよ」


 漸く立ち上がれるようになったと思えば、小脇に抱えられて一瞬にして竜の元から離脱し、遠く離れた岩の裏に押し込まれて口を塞がれた。


 長く伸ばした桃色の髪をハーフアップにした、可愛らしい女性。くりんとした大きな瞳に長いまつ毛をしており、その容姿はすれ違っただけで誰もが見蕩れる程に美しい。

 禍々しく捻れた角と、災禍を体現したかのような蝙蝠羽。人を殺せそうな形状をした尾がなければの話だが。


 彼女は暫く竜の居る方向を睨みつけて安全を確認すると、僕を見て苦笑いを浮かべた。


「またとてつもないものに喧嘩を売ったね。もし私が来なかったら君、死んでたよ?」

「ああ、助かった」


 何度か腕を伸ばし、感覚を確認する。もう殆ど治っていた、何度見ても驚愕する回復魔法だ。


「本当に無茶ばかりするんだから、君の魂は私のものなんだからね? 勝手に死なれちゃこまるよ」

「わかってる」


 彼女は僕が魂を売り契約した悪魔だ。それも、竜の一撃を軽々と受け止めるなど、ただの悪魔に出来る所業ではない。大昔から名のある悪魔として記録され、数々の古典に記されているほどの大物。僕は魂を売り渡すことで、その強大な力の一部を借り受けたのだ。

 出会ったのはただの偶然。語るまでもない、奇跡というほど珍しいことでもなく、けれどありふれたことでもない。さしたる理由もなく、ただ、彼女の目的と僕の目的が合っていたという、それだけのこと。


「さぁ、反逆の時だよ。人は大切な何かを護る為に戦う時が、一番輝くんだから」


 さぁ行きなよ、そう背中を押される。

 体の傷はもはや違和感すらない。寧ろ、全身に力が漲っているように感じる。侮り、油断したことで爆発を受け死にかけた。だがそのおかげで精神は研ぎ澄まされた。

 全身をバネにして、今まで身を隠していた岩から跳び出す。すぐさま視線を感じ、殺意が向けられる。

 構わない、どちらにせよこちらから赴くのだから。風を切り音すらも踏み超えて、僕を睨んでいる竜へと跳ぶ。


 剃刀のように鋭利な尻尾による薙ぎ払いを避け、間髪なく続く噛みつきを跳躍して回避する。

 折りたたまれた翼、無防備な背中に向かって掌をかざす。


「慟哭する流撃!」


 詠唱破棄、長い詠唱を省略して発動させる魔法使いの高等技術。消費魔力量は増加し、完全詠唱と比べれば威力も落ちる。だが、発動までの間隔が短く隙が出来にくい。

 威力の落ちた魔法では硬い鱗にダメージは与えられないが、目的はそこにない。

 無詠唱で“反転する常識”を発動する。途端に僕の体は重力という楔から解放される。そして空を駆け、繰り出された追撃を急降下で躱す。攻撃を回避する度に何度も上下の入れ替わる世界で、感覚だけを頼りに縦横無尽に駆け抜ける。


 竜も翼を広げ戦場を大空へと移動する。僕よりも早く空へ飛翔し、天で咆哮した。大気が震え、火の粉が舞う。

 天は竜の領域だ、地で戦うことは竜にとって不利でしかない。ここからは別次元の戦いになる。だが、それを越えてこその英雄だろう。


 竜の胸に煌めく鉱石が脈動し、全身のマグマがより一層紅く燃え上がる。その姿は正に覇者と言うに相応しく、英雄譚に出てくる竜に勝るとも劣らない。


 勝ちたい。

 これに勝たなきゃ意味がない。


「走れ、奔れ、迸れ。血は留まりを知らず脈拍し、心は際限なく熱を持つ。走れ、奔れ、迸れ。死を恐れず、厭わず、駆け抜けろ。滑落する魂の価値、概念は消失し、世界は次元を一つ失くす。総てを去り行き、敵を喰らう獣と成る! 拍動する雷火!」


 完全詠唱に過剰魔力を込めて、制御出来る限界点で発動する。暴走するかもしれない、だが、それでもいい。でなければ竜には追いつけない。

 左胸、心臓の辺りから雷電が迸る。それは全身を覆い、血流の拍動に合わせて波を打つ。放電の音が煩い、肺が震えて上手く呼吸できない。


「先に謝ってお、くよ、ごめん。多分君はもう、僕に追いつけない、から、さぁ!」


 落雷に似た爆音が聞こえた時にはもう、僕は竜の頭上に立っていた。だが、全天の覇者はそう甘くもない。

 放った蹴りを躱され、代わりに鉤爪が迫る。空を蹴りバク転し、一旦距離をとる――――着地と同時に側面に回り、雷を帯びた拳を打ち込む。高熱の鱗に触れて皮膚が焼けるが、痛みは無視する。致命的なもの以外は意識を割くことすら億劫だ。

 視界が薄らと黒く染まる。粉塵、だがそれはもう悪手でしかない。今の僕は爆破の衝撃よりも速いのだから。

 特大の殺気と、閃光。そして、


 ――――僕の腕が切り飛ばされた。


 やられた。

 爆破の瞬間に回避することを読まれていた。そして、灼光と爆風に紛れて側面に回り込み鉤爪で切られたのか。しかも、爆破する直前の殺気はその後の一撃を隠す為。

 痛みに怯んでいる暇はない、竜は口を開けブレスを放とうとしている。この距離でまともに喰らってしまえば死は確実だ。

 だが、もはやバランスは崩れた。脈動する雷火はもう制御出来ていない。


 雷が落ちる。


 遠くに桃色の髪が見える。だが、彼女の手助けは期待出来ない、先程助けられたことだって例外なのだ。今避けられずに死ぬことになっても、助けには来ないだろう。


 落雷が鳴り止まない。


 そもそも僕の命など彼女にとってはただの有象無象だ。地面に歩いている虫を眺めている程度でしかない、それが誰かに潰されたところで何も思わない。


 雷鳴が煩い。


 今更距離をとるのは愚策だ。ならばいっそ懐に入るか。いや、この状態で潜っても次で躱しきれずに死ぬだけ。

 どうする、どうすればいい。


 いつの間にか全身に紫電を纏っていた。


 考えろ、考えろよ僕。生き残れ、策を、編みだせ。


 そんなん、簡単な話だろうが! てめぇはもう無理だ。代われ、こっからは俺の戦いだ。


 誰かが思考に割り込んでくる。

 ブレスはもう放たれんとしていた。


 舐めんじゃねぇよ、俺を誰だと思ってんだ。


 体が、勝手に動く。

 灼熱の焔が視界を染め上げ、僕は意識を手放した。


 ――雷災の獣が、吼える。





[単にバトルシーンが書きたかっただけの話]





「馬鹿がっ!」


 罵声と同時に竜の巨体がくの字に曲がり、


「ぶっ飛べ」


 そのまま地面に向かって叩き落とされた。

 紫電を纏う男は、先程までとは似ても似つかない獰猛な笑を浮かべる。


「なってねえ、なってなさすぎだろうがっ! 体の使い方ってもんが分かってねえなあ!?」


 男は準備運動の如く肩を鳴らし、空中でとんとんと小刻みにステップを踏む。遥か下方、地へと落とした竜を睥睨する。


「ちっ、どれだけ高位の竜を敵にしてんだよ」


 めんどくせぇと言いながらも、その目は爛々とした戦意を宿しており、口元は三日月のように歪んでいた。

 “反転する常識”を解き、重力に従い地に落ちていく。それだけではなく、音の壁を蹴り自ら加速して。

 それは傍から見れば、一条の轟雷の如く。勇敢で勇猛で獰猛で猛々しく暴虐な雷光は、空を切り風を追い越し瞬刻の内に竜へと肉薄する。

 瞬きをする暇すらない。


 そこから先はもう、神話の世界の戦いだった。


 山脈は轟音とともに削れ、大地は衝撃で破壊された。灼熱の焔は一瞬で周囲を荒野にし、雷光が迸る度に地形が変わる。竜の鉤爪はリーチを無視して地面に爪痕を残し、尾の叩きつけで地殻が割れる。飛び出したマグマは辺りを焦がし、環境が劇的に変化する。

 その中でなお紫電は明滅し、的確に竜を捉えていく。


 割れた地殻から魔力が漏れだし、あたかも地上にオーロラが現れたかのような様相を呈す。

 濃密な魔力は想像を簡単に実現する。つまり、普段なら発動できない最高位魔法でも、この場に限っては発動できるということ。


「薄氷は天を覆い氷像と化す!」


 気温は瞬く間に氷点下へと下がり、灼熱の大気は極寒に変わる。あれほど煌々としていたマグマも冷却されて黒く歪に固まった。その代わりとばかりに氷山が聳え立ち、ごうごうと唸る猛吹雪は途端に視界を奪っていく。

 しかし、竜の息吹はそれらをものともせずに燃え盛り、その炎が触れた場所は再び朱を放つ。


 氷と炎、相反する二つを無理矢理混ぜ合わせたような有様は、正に天変地異と表現するに相応しい。


「オラァ! どうしたよ、炎竜。ちんたらしてると、その翼貰っちまうぞ!」


 この猛吹雪の中で尚、男は氷と雷を操り竜よりも迅く空を駆ける。ブレスをギリギリで回避し、翼へと回り込み手刀を放つ。

 雷速で振り抜かれるそれは、竜の鱗を切り裂き骨を砕き、本来なら有り得ない筈の翼を落とすことを可能にした。

 だが、それによって受ける腕へのダメージは相応のもので、最早両腕とも焼け焦げ、未だに動かせていることが奇跡とも言える状態だった。


 しかし例え翼を捥がれても、竜。地上で最強と語られる種族である彼らは、翼がなくとも簡単に下等生物に負けるような軟な生物ではない。そもそも翼という形を成してはいるが、それを羽搏かせたところで、竜程の巨体が自由に飛翔できるわけがないのだから。

 ならば、どうやってその体を浮かせているのか。


「っ!!」


 咄嗟に腕で顔を庇う。

 衝撃。翼を切り落とした傷口から、爆発的な魔力が放出した。魔力自体に質量はない筈だが、あまりにも濃密な魔力は色を持ち、周囲に暴風の如く荒れ狂う。暫くして安定すると、竜の背に魔力の翼を形作った。

 それは暴力的に煌々と燃える炎のように広がり、肌にあたる熱量も先ほどの比ではなく、無理やり発動した氷雪結界も最早意味をなしていない。だが、どうやらそれは竜自身をも傷つけているようで、魔力の翼が羽搏く度に根元から血しぶきが上がり、それを血で染めている。


 これは好機か否か。両腕は魔力の暴圧を防いだことで今度こそピクリとも動かなくなってしまったので、どちらにしろ持久戦は取れないし、取らせても貰えないだろう。

 選択肢は限られている。やるしかない。


「楽しくなってきたじゃねぇか、オイ! どうせ使えねぇんだ、両腕ともくれてやるよ。狂乱する幾つもの魂!」


 周囲に発生した黒霧が両腕にまとわりつく。そこから沢山の手が蠢きなにかを求めるように、引き摺り下ろす様におぞましく波を打つ。その小さな手一つ一つが男の腕を掴み、肉を抉りとる。焼け爛れた皮膚が千切れ、肉が引き裂かれる。折れている骨を更に砕き、小さな手が喰らっていく。

 両腕は直ぐに喰い尽くされた。だが受け渡すのはそこまでだ。小さな手は名残惜しそうに血の吹き出る肩を撫で、虚空へと消えていった。黒霧だけが留まり、先程よりも赤みを帯びたそれは両足へと位置を変える。

 自分の体の一部を対価にして力を得る、禁じられた魔法。


 男が今出来る最大の自己強化は行った、もうこれ以上はない。これでも仕留められなければ待っているのは死のみ。だが、竜も魔力が暴走しかけている。自身の生命維持にも使われている魔力が放出し切ってしまえば、それも死に直結する。

 竜が自滅する迄の時間が稼げればそれが最適解だが、男も満身創痍。時間稼ぎが出来るかは怪しいところだ。加えて、こんな血が煮え滾り、魂が大音量で騒ぎ立てるような死闘から背を向けるほど、柔な精神はしていなかった。


「用意はいいか、いくぜ?」


 一歩で風を置いていき、二歩で音を置いていく。それは転移にも見える速さで駆け抜け、竜の頭蓋に向かって足を振り下ろす。が、それは竜の背中から体を覆うようにして広がった魔力の翼に防がれた。

 魔力に実体はない。形など変幻自在だ。だが、直撃はしないまでも衝撃を総て弾くことは出来なかったらしく、反動で竜の体が僅かに揺らぐ。


「くそ厄介な。いい加減、死ね!」


 どんなに少ない揺らぎでも、体制を立て直すのには時間がかかる。そのコンマ一秒にも満たない間でさえ、今は致命的な隙となる。

 片足を軸に反転した回し蹴り。足を入れ替えたハイキック。踵落とし後に無理やり放つサマーソルト。

 これ以上、竜に攻撃の暇は与えない。流れるような動作で繰り出す足技の数々は殆どが防がれているが、それでも着実にダメージは与えている。その証拠に、魔力の翼は少しづつ噴き出す勢いを無くしている。


 竜が男の蹴りをガードする為に伸ばした腕を、力任せに弾き飛ばす。がら空きになった懐に入り、人間よりも長い首に渾身の一撃を与える。ごきりとした鈍い音に加え、骨を砕く確かな感触。竜が、神経の集まっている個所を折られるというあまりの痛みに声を上げ、背中から噴き出す魔力も急速に収まっていく。

 だが、強固な骨を蹴り砕いた代償は大きく、男の右足も粉砕されていた。しかし、先の一撃を決められたことは大きい。最強の種族である竜といえど、首を損傷してしまえばまともに動くことはできない。もう勝負はついたと言っても過言ではないだろう。


 竜は動かせないはずの足に力を入れ暫くの間踏ん張っていたが、虚ろな瞳を宙に向けると、くらりと力なく地面に落ちていった。男はその様を、鋭い目で見届けていた。


「っはあ……漸く、か」


 勝ったといえど、その体に蓄積されたダメージは直ぐには消えることはない。それは疲労も同じ。両腕は欠損し、片足も粉々だ。この状態で戦い続けられたことが既に賞賛すべきことですらある。

 緊張が緩んだと同時に全身の力が抜け、竜の後を追って地面へと落ちていく。


 —―だが、まだ終わっていなかった。


 ドクン……ドクン……

 崩れ落ちた竜の体に幾何学的な線が走り、それは微かな心臓の脈動と共にその体に魔力を送っていた。周囲の木々にも同じような模様が走り、地面を通して竜とつながっている。それが脈動するたびに少しずつ力が戻り、次第に虚ろな瞳に意志が宿り、やがて光彩は色を取り戻す。


 竜は神獣とも呼ばれる生物だ、それは人間の宗教的に決まったわけでも、容姿を称えて決めた訳でもない。自然界、いや世界に対する在り方から付けられた呼称だ。自然に愛され、大地と空を駆け、そして幾星霜の永久ともいえる時の中、世界を見つめ続ける。世代個体を行うとき、その死と新しい生の誕生に世界が震え地脈は流動する。死体は長い年月をかけて自然へと還り、蓄えた膨大な魔力はその土地を潤す。竜とは自然と一体の生物であり、その死は重い意味を持つ。だからこそ、世界は予期しないそれを決して許さない。

 周囲の生物の生命力が、竜へと集まってく。


 竜が今までの傷口から滝のように血を噴出させ、立ち上がろうとする。まるで錆びた機械を無理に動かしているような、そういった脆さがあるが、それでもその瞳は赤く、紅く光り輝いている。


「おい、まじかよ……こっちはもう動けねぇってのに」


 男はもう満身創痍。一度緊張がゆるんでしまえば、もはや視線一つ動かすことで精いっぱいだ。力なんていらない、いま殺そうと思えば持ち上げた掌を乗せるだけでいい。竜の重量を押し返す程の力もなければ、その鋭利な爪が軽く当たるだけで簡単に切り裂かれるだろう。


 ――だが。

 立ち上がろうとしていた竜の体が、がくんと崩れる。足りないのだ、周囲の木々は殆どが焼けて炭となっており、竜を回復させるためには致命的に生命力が足りていない。もう一度立ち上がろうにも、使った力はもう手に入らない。

 竜は立ち上がることを止め、辛うじて動かすことができる腕で這いずってくる。まだ諦めてはいなかった。竜としてのプライドが、敵を叩き潰すという信念が、ぼろぼろの身体を動かしていた。


 もう距離はない。竜が後一歩進み、その掌を振り下ろせば、男の死は免れない。


「どうやら、俺もまだまだだな。こんなんでも、まだ死にたくないらしい」


 だが、やれることを総てやったうえで死ぬのなら、多少は納得出来るかもな。

 終わりだ――万物は流転し原点へ還る。


 燃え盛る焔の残滓が、氷雪結界の破片が、誰かの願いの涙が、人格という紫電の想いが。この場に存在する魔力から生成された物質が、再び魔力へと還元されていく。膨大な魔力が周囲を満たし、一時的に凝縮された単純なエネルギー体は、限界まで膨らませた風船のように不安定となる。


「そしてこれは、きっかけ一つで簡単に爆発する」


 魔力が魔法へと変換される鍵は、意志だ。誰かの、強い想い。世界の理を捻じ曲げても叶えたい願い。それに魔力が反応して、魔法という事象に変わる。が、今のようなあまりに濃密は魔力は、願わなくとも思考を読み取り叶えるだけの力を持つ。

 正確な願いなど関係ない、凝縮されすぎた魔力で正しく発動することなどないのだから。


 ならば何が起こるのか。考えるまでもない、暴発だ。


「死ぬならてめぇも道連れにしてやるよ、炎――――


 その言葉を最後まで紡ぐことは出来なかった。目が潰れるような激しい閃光と、地殻を揺らし天を貫く衝撃。地面はあまりの高熱で溶岩となり、硝子状になった破片が周囲に振り撒かれる。

 その光は山々を越え、遠い異国からでも見ることができた。

 跡形もない、まさに巨大な隕石が落ちてきたような凄惨たる有様だ。有機物らしきものがあった面影すら消え失せ、最初から無だったかのように、ただただ静寂だけが満ちている。





「どうしたのですか、聖女様」

「何故でしょう、涙が出て止まらないのです」


 聖女は神像の前で跪き、祈りを捧げ続ける。誰かの死を憂うように、誰かの生を慶ぶように。聖女は世界を愛し、この世に生きる総てを慈しみ、その幸せを願う。


「きっと、時代が変わる時が来た。それだけの事なのでしょう」


 来るべき時が来ただけ。

 そう呟いた聖女の隣で、まだ修行の身である少女は、言葉の意味が分からないのか少し困惑したような表情を浮かべていた。





 地下深く、一切光の届かない暗黒の地。

 牢獄の中で、無意味な時間を延々と過ごす者がいた。


「死んだか、フレイ……ああ、また友を失ってしまった」


 暗闇で見えなかったが、今まで横になっていたのか身じろぎをして立ち上がる。ぐちゃり、ぶちゅり。凡そ生物として間違っている音を響かせながら、鉄格子に手を添えた。


「ここから出るのも、もう直ぐか」


 暗闇の中、黒紫色の眼だけが爛々と浮かんでいた。





 ここに竜は討たれた、ここに英雄は成った。古き竜の時代は終幕を迎え、新しい時代の幕開けが来た。人よ、古から追ってくる神の時代を超えて世界に新たな鐘を響かせよ。

 賽は投げられた、もはや後戻りは出来ない。苦難を乗り越え、試練に到達せよ。生き急げ、走り続けろ、止まった時点で君たちは終わりを迎えるのだから。


 神、悪魔、神獣と呼ばれる世界に愛されし生物達。真実は未だ闇の中だ。隠された罪を暴け、白日の下に晒し、過去の大罪を償わせろ。それが彼から生まれた人間の、逃げられない定めだ。

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