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 士官学校の予科に進学しても、俺は相変わらずの生活を送っていた。平穏な生活が長く続くことを、俺はうれしく、同時に名残惜しく思う。いつだって平穏な生活は急に破綻する。母が死んだのも突然だった。そこから俺の生活環境はめまぐるしく変わった。今ではアルベルティーヌと暮らす日々がすっかり日常になっているけれど、はじまりがあればいつだって終わりがある。

 このところ、アルベルティーヌの体調がよくない。以前からあまり身体の強い人ではなかった。「あなたが来てから少し丈夫になったのよ」とアルベルティーヌは笑ったが、それでも半年に一度は倒れた。

 父……もはやあんなヤツは蛙と呼ぶので十分だ……は半年に一度、ちょうどアルベルティーヌの倒れる直前に帰ってきた。蛙が帰ってきて、またふらりと他所に出ていくと、心労なのだろうか、アルベルティーヌが寝込む。ひょっとして彼女を苦しめるために、蛙は帰ってきているんじゃないのか。そう思うと腹が立って仕方がなかった。

 アルベルティーヌはいつだって「あなたが怒る必要はないでしょう」と呆れて言うけれど、俺は納得することができない。

 前回倒れてから、アルベルティーヌの容態はどんどん悪くなっていた。最近では、食事の量も減っている。俺が学校にいる間に容態が激変したらと思うと授業どころではない。

 学校が終わると自宅へ直帰する。アルベルティーヌは「デートでもしてきたら」と言ってくれたが、病気のアルベルティーヌを放り出すような真似ができるはずもない。本当なら学校だって休みたいところだ。ここ最近は眠りも浅い。俺が寝ている間に容態が急変したらと思うと、とてもじゃないけれどぐっすりとは眠れなかった。アルベルティーヌをがっかりさせたくないから学校には行くけれど、気が気ではなく、教官の声を聞き逃しては叱られた。


「君のお母様が危篤だそうだ、早く帰りなさい」


 教官の言葉に素早く起立して敬礼する。教室を出て廊下を走りぬける。中庭の芝を踏みつけてずんずんと進む。助走で勢いをつけたまま跳躍して、塀のへこみに指をかけ、身体を宙に放り投げる。士官学校から自宅へ帰るのに、こうするのが一番手っ取り近い。

 視線が壁から空に、一瞬で地面に向かう。


「うわっ」


 塀の上まで跳んだ瞬間、向こう側から人が驚く声が聞こえた。飛び越えずにあわてて塀の上に着地する。黒髪の少年が驚いた顔のままこちらを見ていたが、気にかけている時間はない。


「悪い。急ぐんだ」


 一声かけてから飛び下りる。着地と同時に走り出す。背後で「失礼しましたっ」とかしこまった少年の声がした。どうやら士官学校の後輩らしい。それにしたって失礼なのは俺だろうに。

 石畳の大通りを抜けて商店街を通り抜ける。店先に積まれた林檎の山をかすめたら、ごろごろと転がり落ちてしまうだろう。少し距離をとる。道の真ん中は馬車がのたのたと走っているから、急ぐなら軒先ぎりぎりを通るのがいい。人波をかわしながら住宅街へと進む。

 花屋の角を曲がって、川にかかった橋を渡れば住宅街に突入する。一見して公園かと見まごうほどの敷地を持った貴族屋敷が並ぶ。息があがらないのは日頃の訓練の賜物だろう。

 通用門の前に執事がいる。鍵を開けて待っていてくれたのだろう。「ロイ様」とはらはらした様子で俺に声をかける。


「アルベルティーヌは!?」


 街を駆け抜けた勢いのまま門をくぐると、執事が俺のあとについてきた。芳しくありません、との答えに一層気が急ぐ。階段を駆け上がって、アルベルティーヌの部屋に直行する。ノックもしない。


「アルベルティーヌ!」


 扉を開けると寝台の上から、アルベルティーヌは微笑んでみせた。

 なんだ、大丈夫じゃないか。いつもと変わらない微笑に、俺は安堵する。乱れた呼吸を整えていると、アルベルティーヌの手が、そっと俺の手に触れた。細くくたびれた指に愕然とした。


「ありがとう」


 突然もたらされた言葉に首を横にふる。アルベルティーヌに礼を言いたいのは俺の方だ。

 呼吸を整えたはずなのに、すぐに乱れてしまうのはなぜだろう。言葉が出てこなかった。黙って微笑むアルベルティーヌの声がひどくかすれていたことに、今さら気がついた。


「――貴方の旅路が、幸福であるように」


 口をついて出たのは、旅立ちを祝う歌だった。

 母が死の間際に、悲しむなといって歌った曲だ。

 アルベルティーヌももうすぐいなくなってしまう。

 俺はそれを知っている。生まれたからには、誰でも皆死んでいく。出会いの数だけ死が存在する。けれどもそれは、新しい旅路につくのと同じことだ。

 それなら俺にできることは一つしかない。最期の旅路が安らかで穏やかであるよう祈ることくらいしか、ないではないか。


「あなたの、好きなようになさい」


 アルベルティーヌは自分がいなくなったあとのことを語る。そんな人だから、俺はアルベルティーヌに憧れた。

 アルベルティーヌのためにもっと何かしたいのに、勝手にわきあがる感情は止まらない。

 泣かない。泣かない。絶対に、泣くもんか。


「いいわね、ロイ」


 俺の頬に触れていた指が、花びらが舞うように落ちた。


「約束します。アルベルティーヌ」

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