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軍の幼年学校は退屈だった。チェスのような駒を使った実戦シュミレーションで俺に勝てる奴は誰もいなかったけれど、大昔のやたらと長ったらしい作戦名や各地の地形、将軍の名前だとか歴代皇帝の名前なんかはなかなか覚えられずに苦労した。
女性の名前なら覚えるのに苦労しない、将軍や皇帝が全員女だったらすぐにでも覚えられるのにと、何度思ったか知れない。覚えるときには肖像画を女装させて暗記した。同級生と話していて、あのやたらとヒゲの濃い子ね、なんてうっかり口を滑らせてどういうこと同級生に聞かれては、何度か笑われた。
そんなことまでして覚える必要はないだろうと彼らは言うのだけれど、俺はどんな手段を使っても覚えなければならない。俺は養われている。もちろん彼らも養われてはいるのだろうけれど、彼らと俺の養われるは違う。アルベルティーヌは、本来俺を養う必要なんてないのだ。
同級生にないその感情は、俺の中にうっすらとした疎外感も作り出したけれど、同時に誇りももたらした。既成のものを誰かから受け継ぐだけではない。俺は一人でもやっていける、名前ばかりの貴族になんかならない。そういった反抗心は、いつの間にやら誇りになっていた。
学校からの帰り道、声をかけられた。
「ロイ、久しぶり」
ライエル家の養子、カイルロッド・フレアリングが店先での買い物を手早く済ませて近づいてくる。
学生服を着ているせいか大人っぽく見えた。
「学校は?」
「連休」
「へえ。クロムフからじゃ遠かったろ」
「うん。だから夕方には出なきゃ」
皇都モルティアの北東に位置するクロムフは大きな港町で、海軍本部がある。その関係で、海軍の士官学校もクロムフにあった。カイルロッドは海軍に入るため、わざわざクロムフに転校した。士官学校入学まであと五年はあるのに気が早い。そうまでして海軍に入りたかったらしい。
そういえば、彼は戦災孤児だという。ライエル家に引き取られる前の暮らしを、カイルロッドは決して口にしなかったけれど、それはきっと幸福な家庭だったのだろう。思い出したくもないほど、壮絶だったのかもしれない。
「お前さ、海軍じゃなくて陸軍士官学校に入んない?」
「絶対にイヤだ」
赤い髪の少年はあからさまにむっとした。
同級生と≪養われる≫ことの意味が違うのは、戦災孤児のカイルロッドも同じだろう。比較的近い境遇のカイルロッドがいれば、気が晴れるかもしれない。思わず口をついて出た言葉だったけれど、その理由に思い至って、俺は後悔した。
結局俺の誇りはニセモノではないか。一人でもやっていける、雑草だろうが人肉だろうが食って生き延びてやる、そんな覚悟はニセモノだということになってしまう。
俺は自分の軽口に落ち込んで、会話を続ける気を失くした。二人で黙々と商店街を歩く。角の花屋で商店街が終わる。もう少しで家だ。
「絶対に海軍でなきゃ嫌だ」
カイルロッドは断固として譲らない。話す気をなくした俺に、さらにたたみかける。
「ロイが海軍士官学校予科に来ればいいんだ。そうだろ」
ガキの癖に生意気な奴だ。情けない犬みたいな顔をしているのに、頑固でいけない。そういうところは知り合った頃から何もかわらない。
「海戦は、訳がわからんうちに決着がつくからやだ」
「そんなことないよ、失礼だなあ」
先に家の前についたカイルロッドが敬礼の真似事をして笑う。投げやりながら手を上げて返すと、カイルロッドは「じゃあね」とそのまま家の中に消えた。
彼の答えは、再び俺を鼓舞した。
もっと一人で生きていけるようにならなくてはならない。
他人ではなく、自分で自分の誇りを傷つけたことが余計に嫌だった。早く大人にならなければ。
そして、父に代わってアルベルティーヌを守るのだ。戻らない父に代わってアルベルティーヌを守るのは俺の役目だ。
通用門をくぐってすぐ、庭園にいたアルベルティーヌに声をかけた。
「書庫に行きたいんだ」
書庫にある本を多く読めば、それだけ早く大人に近づけるような気がした。大人にならなくてはと、気ばかり急いているのはわかっている。冷静になれば、あまりに子供めいた考えだと気がつくけれど、それでも俺の「早く一人前にならなくては」という衝動は抑えられなかった。
アルベルティーヌは庭に水をまいている最中で、その手を休めた。庭師に任せればいいのに、この人も独立独歩の気風がある。側仕えのメイドに命じて、そこからさらにメイドが庭師なりコックなりに伝えて……というのは手間でしょう、と、少し寂しそうに笑った。本当は、待つのがあまり得意ではないのだろう。
「書庫なら一緒に行きましょうか」
「子供じゃないんだから一人で大丈夫だよ」
子供じゃないんだからーー。
それは昔から、俺の口癖になっていた言葉だった。この言葉を口にするたび、母が物憂げな顔をしていたのを思い出す。アルベルティーヌの微笑は穏やかだったけれど、どこか憂いをおびていて、母のことを思い出した。アルベルティーヌが蛙に接するときと同じ種類の陰が、その微笑にはあった。
「アルベルティーヌ、悲しいの?」
「どうして?」
「母さんは、俺が『子供じゃないんだから』って言うと複雑な顔をするんだ。アルベルティーヌは今、似た顔をしてたから」
緑の床がみずみずしくきらめいた。涼やかな風がさっと庭を駆けぬける。ふわりと笑って、アルベルティーヌは俺の手に書庫の鍵を乗せた。
「悲しいというよりは、寂しいのよ」
短く礼を言って鍵をにぎりしめる。アルベルティーヌの腰にぶら下がっていた銀製の鍵はほのかにあたたかく、金属特有の臭いはしなかった。
アルベルティーヌに背を向けて、書庫へつづく短い階段を降りる。
「ゆっくり大人になりなさい」
扉が閉まる間際にかけられた声にどきりとした。見透かされたことがあまりにも恥ずかしくて、書庫の床にうずくまった。胸が高鳴った。けれどもそれと同時に、どこか安心感を覚えた。アルベルティーヌは、俺のことをわかってくれているのだ。本当の息子になれたような気がした。