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はじめてミシェル・ロッシュとひきあわされたとき、俺は奴を人間だと思えなかった。目だけがぎょろぎょろしていて、口は大きく横に広がっていた。背は低く、身体が丸い割に手足だけは妙に長く、前にはりだした腹の重みなのか、いつもガニ股気味だった。
こいつは蛙なんじゃないのか。
今にも池に飛び込みそうな彼を見て、俺はそう思ったほどだ。
昔話のように母がキスして人間にした蛙だと言われたら、納得してしまっただろう。母は独自の空想世界に住んでいる妖精のような女性だったし、両生類にキスして「うふふ」と笑うのも実際に何度か見たことがある。「この子たちもいつか人間になるかもしれないわねぇ」と母はよく言った。今までおとぎ話だと思ってバカにしていたが、父を目の前にすると妙な現実味をおびてくるから不思議なものだ。
しかしそうすると、俺は蛙の子だということになってしまう。蛙の子は蛙。そんな言葉が脳裏に浮かんでは消えた。
大体、皇都一の歌姫であった母が蛙の子を産むとはなにごとか。金か、金なのか。金だっていうのか、母さん。
そんなふうに思いついてしまったときは墓石をにらみつけてしまったが、記憶の中の母はやけに爽やかな笑顔を返すだけである。先日近所のライエル家に引き取られた戦災孤児の一人に打ち明けてみたものの「そんなバカなあ」と一笑に付された。ガキの癖に生意気だ。お前はあの父を見たことがないからそんなことを言えるのだと反論したかったが、父を見るまでの俺も、蛙が人間になるなんておとぎ話は欠片も信じていなかったのだから当然かと思いなおして、言葉を飲み込んだ。
しかし本当に父に似なくてよかった。俺が父にそっくりだったら、いくら女の子に声をかけたところでデートの誘いをとりつけるのは難しいだろう。母親似でよかった。女の子に相手にされなくなったら俺の人生、あまりにも華がない。否、それはそれで、モテるテクニックを総動員したかけひきにも似たすがすがしさがあるのかもしれない。人間は容姿が全てではないが、かといって、どんな姿でも、どんな性格でもいいわけでもない。
こんなことを考えていてはいかん。俺は、今日から蛙こと父の世話になる身なのだ。父は貴族だ。地位はさほど高くないけれど、今までのように好き勝手に出歩くことも女の子と遊びまわることもできなくなる。日々の暮らしが保証されるのはありがたいことだけれど、母を亡くして以来、母に惚れていた有力者に引き取られて貞操を狙われそうになって逃げ出したり、戦災孤児たちとともにスラム街で暮らしたりしてきた俺にとって、父というのはあまり信頼が置けない種類の人間だった。引き取るのなら、母が亡くなったときにできたはずだ。すっかりひねくれて、生きるためとはいえ、悪事にも手を染め、追われているところをライエル氏に助けてもらわなければ、俺はどこかでのたれ死んでいただろう。その後ライエル家に入り浸っていたら、いつの間にか父親と話をしていたらしく、引き取られることになった。「今さら? 父に?」と食ってかかったのは先月のことだ。
俺は今日から貴族になるらしい。貴族の妾の子から、貴族の養子になる。生活も大きく変わる。
実母の仕事を手伝ったときに見かけた貴族の男たちは、大抵鼻の下にくるんとカールしたヒゲを生やしていて、女は派手な格好でオホホホと香水臭い笑いをふりまいていた。
残念ながら、俺にはまだヒゲがちゃんと生えないので、真の貴族になるのには時間がかかりそうだ。一体どうすればヒゲが生えるのか。そういえば父にはヒゲがはえていなかったから、これは遺伝なのかもしれない。
「ローデリヒ・イジドール・ステファン・ロッシュ。これが今日からの、あなたの名前です」
突然長い名前を呼ばれて、応接セットの椅子の上から飛び上がった。顔を上げて返事をすると、中年の女性がいた。こんなに舌を噛みそうな名前をすらすらと言える奴は、俺の周りにはいない。ライエル氏なら、もしかしたら言えるかもしれないけれど、彼は変人なので俺のことを「ローズちゃん」と呼んだ。
女性の有無を言わさぬ声に、俺は首を縦にふって、即座に返事した。
「慣れないこともあるかもしれませんが、困ったことがあったら遠慮なく話してください。私はミシェル・ロッシュの妻、アルベルティーヌです。あなたの実の母親のようにはなれないけれど、母親として、できるだけのことはしようと思っています」
もしかしたら継母にいじめられるのではないかと俺は警戒していたのだが、どうやら安心してよさそうだ。実の母のようにはなれないと言い切ったところに感心した。誇り高く凛とした、由緒ある軍人一家にいそうな女性だった。政略結婚かもしれないけれど、父には女性を見る目があるらしい。蛙に似た父の姿が見えないことに気づいて、俺はアルベルティーヌに声をかけた。
「父上はどちらにおられるのでしょうか」
「自宅にはあまり戻られないのです。いつものことだから気にしないで」
悲しげに笑うアルベルティーヌを目にした瞬間、俺は蛙の脚をつかんでふりまわしてやりたくなった。蛙の癖に何をしているのだ。どうせ母とのことのように、他に女でも作ったのに違いない。女遊びをするのなら、特別な女を作らなければいい。それが女遊びのルールというものだ。ルールも知らずに遊び歩く蛙の妻にされてしまったアルベルティーヌは鳥かごの中に入れられた小鳥と同じで、俺はひどく腹が立った。
俺が呆れている様子を見て、アルベルティーヌは苦笑した。
「仕方がないのですよ。私は子供を望めない身体なのだから」
正妻の苦笑はとても深い悲しみを乗り越えたところにあるのだろう。俺はより一層腹を立てた。特別な位置にいながらも、夫の女遊びを甘んじて受けるアルベルティーヌにも憤りを覚えた。主張すべきことは主張しなければならないだろうに。
「それとこれとは話が別ではないでしょうか」
思わず口からこぼれ落ちた声は裏返っていた。実母のステファニーの声に似ていたかもしれない。俺は自分の声にショックを受けながらもアルベルティーヌに向かって続けた。
「だってそうでしょう? あなたは子供を生むための道具ではないんだから」
俺の言葉に、アルベルティーヌは苦笑しながら目を細めた。
窓硝子の向こうから差し込んでくる陽の光を、一瞬大きな鳥の陰がさえぎって通り過ぎていく。
「あなたは優しい子ね。けれども貴族には貴族のルールがあるのですよ。血統を絶やさぬためです」
「そんな道理の通らないルールが必要でしょうか。俺は貴族なんか嫌いだ。あんなヤツ、大嫌いです。母さんにだって、一度も会いにこなかった」
そうだ。少なくとも俺の記憶がある間、父は母さんにも俺にも会いにこなかった。金はよこしていたようだけれど、二人分の食費にだってならなかった。
「一体人を何だと思ってるんだ! 股裂いて腹の中にハーブを詰めて、窯焼きにしてやる!」
思い出すとどんどん怒りが増して、知らぬ間に俺は吠えていた。言ってしまってから、背筋を冷や汗が伝い落ちた。しまった、ついうっかり口を滑らせた。
俺の言葉にアルベルティーヌは一瞬ぎょっとしたように目をみはったが、すぐに肩を揺らして笑いだした。右手でそっと口元をおさえ、左腕を脇机の上に伸ばす。その拍子に脇机の上の万年筆が転がり落ちた。俺はすぐに万年筆を拾って机に戻す。アルベルティーヌのすぐそばで、俺は小さく「ごめんなさい。言いすぎました」と言った。
「ローデリヒ・イジドール・ステファン・ロッシュ、編入手続きをしたから、明日から軍の幼年学校に通いなさい。いいですね」
「はい、わかりました。でも俺の名前は長すぎるので略してください。でないと舌を噛みそうだ。ロイで結構です。母さんもそう呼んでた」
アルベルティーヌは最初この部屋に入ってきたとは全く違うやわらかな表情で、俺の頭をそっとなでた。
「そう。ではロイ。明日の準備を一緒にしましょうか」