私は屑になりたい 第9話 草津の地にて
拝啓
晃司さま、貴方はご自身の名を捨て著者名を魂の名として貫き通す御覚悟でいらっしゃるのですね。ならば私が綴るお手紙も著者名を記させて頂いても良いでしょうか。
巷では貴方がお書きになられた小説が芥川賞の候補に選ばれた事が話題となっています。『癩文学』という新たなる分野の開拓者と評される事で、病に対する偏見や差別が薄れれば良いものをと願わずにはいられませんが、読者の関心ごとは作風に留まり、著者である貴方を思う者はほんのひと握りのようです。
貴方の肉体から決して離れてくれそうもない病魔を伴いながらも、文学界の華やかなる壇上に昇られたのだと思いますし、私の主人が芥川賞作家であるとなればとても喜ばしい事で御座います。
私は先日、汽車を乗り継ぎ上州は渋川という駅まで独り旅をしてきました。
なんと寒い地で御座いましょう。関西より北へ向かった事のない私にとって上州は東北とも北海道とも違う気候とばかり思い込んでいました。
草津の温泉地まで続く長くて細い道は険しく、雑木の森を抜けたと思えば更なる山道の連続でございました。
ここから先が草津の湯治場であることを教える立札を見つけてひと安心すると、私を囲んでいる樹々に葉は一枚もなく、息は真っ白になり吐き出され、手袋で覆っていた手指も青白くなっている事に気が付きました。夜空には冬の星座たちが競いながら、この地を美しく彩っているかのようで御座いました。寒さで凍えながらやっとの思いで、上り坂の終わりに辿り着くと真っ白い湯気をもくもくと上気させて溢れ出す湯畑に到着いたしました。なんとみごとな源泉でございましょうか、貴方はご覧になられた事がございますか。
初めて見る源泉の持つ強靭な自然の力と硫黄の強い臭いに圧倒されてしまいました。これほどまでに上気させる湯気を噴き出しているのですから、ここに落ちたら一瞬で身は爛れ焼けてしまう事でしょう。
湯畑から少し離れた場所にご夫婦が営む旅館が御座いましたので、素泊まりさせて頂き、白色の湯に浸かり冷え切った身体を温めさせていただきました。
用意されたお部屋へ戻り、窓の外の風景を見ながら『さみしい、あまりにもさみしい。』と感じてしまったのは夜空が果てなく広かっていたからで御座いましょう。草津の天や地、樹々がそう思わせるのか、ひとり旅の孤独が寂しさを助長させているのか判断出来かねます。きっと貴方も孤独な生活の中にいらっしゃるはずです。そう感じた時、更なる寂寥感に浸っていきました。
ふと扉を叩く音がして我に返ると、五十路くらいのご年齢であろう宿の主である奥様が私の傍までお越しになられ、ちゃぶ台に用意されていた湯呑み茶碗に緑茶をご丁寧に注いでくださいました。きっと奥様は女の独り旅を不審に思ったのでございましょう。私と目を合わさぬようにして言葉を掛けて下さいました。
「どちらからお越しになられたのですか。」
「どなたかのご自宅までの途中で御座いましょうか。」
「この先のお宿はお決まりで御座いましょうか。」
矢継ぎ早に聞いてこられる奥様に嘘をお話しする必要もないと思い、「癩病の収容施設にいるかもしれない知人を探して徳島から参りました。」ことを素直にお応え致しました。すると奥様は私に顔をまざまざと凝視して「貴女は癩病の縁者なのでございますか。」と聞いてきました。
「いいえ、私自身では御座いません。二十年ほど前、私の故郷の方が癩に感染してしまい、収容された入院先を探しております。幼少の男の子を伴い、三十歳前で隔離、収容されたはずです。生きていらっしゃるのであれば既に五十歳半ばを超えているかもしれません。お子様もおそらく二十歳は過ぎていると思われます。」
私はお屋敷のお嬢様とお産みになられた子の消息知れずを言葉に致しました。
「不憫なことで御座います。お子が一緒という事はお探しの母子は離ればなれにされて収容されているか、お子の命は絶えているかもしれません。草津の地に癩病者たちがどこからともなく集まり湯治していたのは明治、大正期の時代でございます。」
そうお教えくださいました。何故、赤子の命が絶えているかもしれないと思うのかは教えてくださいませんでしたが、「入所当時にお若い女性で赤子連れならば草津ではなく、東京は多摩の病院に向かったのではないでしょうか。栗生には幼児感染者を収容できる棟が今でもございませんし、母子であるならば全生病院の方に廻されて隔離、収容された可能性が高こうございます。」
さらには徳島より草津の地は険し過ぎます。お子を連れてのお若い女性なら一旦は東京にお住まいになられたのちに全生病院に収容されたか、自ら向かった可能性が高いと教えていただきました。
翌日は真冬らしい晴天で、湯畑から繋がる細くて長い山道を独り歩いて栗生楽生病院に辿り着きました。
山林そのものを切り開いた自然豊かな敷地に、同じ形をした長屋のような建物が規則正しく並んでいて、正門に守衛さんらしき方はいませんでした。
苦労を惜しまずにここまで来たのだからという思いに駆られ敷地内に無断で入り散策すると、どの棟の庭先にも花壇らしきものが作られていましたが冬ですもの、花はなに一つ咲いてはいませんでした。
病院の敷地をまっすぐに抜ける道を歩いていくと、杖の手元に金色に光る鈴の音をカランカランと鳴らしながら私のいる方向へと歩いてくる男性と出逢いました。私の気配を察したのか「こんにちは」とお声を掛けて下さいましたので目を向けると、男の方の両の目には眼球を隠すように白い布が貼り付けられていて、鼻の突起は御座いませんでした。貴方がお書きになられた小説を読んでいた私はこの時、はじめて癩病者の現実を目の当たりにし、衝撃が身体の中を走り抜けていきました。
➖これほどまでに・・・➖
私がお会いした方はきっと軽症の患者さまなのでしょう。自力で病院内を散策していますし、お言葉もはっきりと聞き取る事が出来ました。
「こんにちは」とご挨拶を返すと「女性か、桔梗舎の方か、皐月舎の者か。」と問われました。
「人を探しに参りました。」
私は正直にお応えしました。
「元亭主の面会か、会わんほうがいい。哀れみは何の足しにもならんからな。」
「主人に会いに来たのではございません。五十歳前後の女性とその方のお子である男性を探しています。」
「ほう。」とお会いした男の方は声を発せられて杖先で道の上を何度もなぞられていました。
「母子で癩者とは悲しい事よ、しかし母から子への感染はよくあることだ。」
なぜ母から子へ癩病が遺伝するのかお聞きいたしましたら、男の方は杖先を私の膝あたりまで上げてお話しくださいました。
「遺伝ではない。出産時に伴う出血によって癩は子の肉体に入り込む。本来ならば赤子の暖かい体温に負けて癩は死滅するのだが、赤子の体温が何らかの環境で低かった時、菌は身体に留まり増殖する機会をうかがって、じっと動かずにその時を待っている。」
男の患者様は天を向くようにして過去の記憶を辿ってくださいました。
「隔離、収容時にお若い女性であり、しかも子連れの癩者が来れば嫌でも伝わってくるが、それほどの噂は聞いていない。事務の者に聞けば明確になるやもしれんが、あいにくと今日は地元の警察署に出向いていて不在にしている。この近くの林の中で首を括った患者がいて、身元確認に出掛けた。」
そう仰られると、「では・・・」とだけ言葉を発せられ、来た道を戻られていきました。
硬そうな枝で作られた杖を使って、前方の足先だけを弧を描くように大きく振りながらお戻りになられていったのですが、左脚を引摺るようにして歩かれていた事で『この方の脚は義足なのだ』と気付きました。
私がお会いしたこの患者様が軽傷者ならば貴方がお手紙にお書きなられたご自身の現況もまた同じなので御座いましょうか、あるいは重症の方々とはただただ息するヒトカタと化してしまっているので御座いましょうか。
私は今、お会いしたばかりの男の方のあとを追いかけて病院の案内をお頼み致しました。
「施設内の立ち入りを私がいいよとは言えぬが、院内の散策だけなら誰も何も言わぬだろう。私の散歩道でよければ付いて来なさい。」
栗生楽生病院の敷地を奥へ進んでいくと道を隔てた右側が傾斜している事に気が付きました。
➖あぁ、ここは山の中なのだから➖
斜面と化した土地は耕されていて、白菜たちが紐で括られ丸みを崩さないように工夫されて並んでいました。
➖ここでしか生きる事が叶わぬ者たちがいる➖
草津の大地に作られた強制収容病院から上州の地を見下ろし、真冬の装いと化した建物の中を通り抜ける石砂利を踏んでいると貴方の今を思わざるを得ませんでした。
「名を聞いていなかったな、お若い女性がこんな山の中の収容病院に面会など、よほどの言い訳があろうに。」
私を導いてくださっている癩病の盲人は杖の音を止めずに、ご自身の身に起きた出来事を話し始めました。
「二十八歳の時、癩と診断され家を追われた、住む場所も生きる居場所も失くした。上州は邑楽という街で代々、造酒屋を営んでいて家業を継ぐものとばかり思っていた。癩と診断されると独り、草津の湯を目指してただただ歩いた。この病が良くなる事を信じたかった。薬も手に入らない、湯治なんて気休めよ。何度も死のうと思った、縄に首を通した事も幾度もあるが死ねなかった。林の中に穴を掘り、雨風を避けドングリや蛇を捕まえては食い凌いだ。明日の事など気にも留めなかった。ある日の午後、住処だった穴の前に立つ木で首を吊った癩者の死骸が風に煽られ、揺れていた。警察の者たちが目の前の死骸を降ろすと、穴に隠れていた私もここに連れてこられた。自由などどこにもない、子を宿した女は子宮をほじくり返され、胎児は瓶に入れられてどこかの山の中に埋められているはずだ。同じ頃、強制収容された者たちの大半は苦しみながら死んでいった。その憎しみを抱えた死骸さえ、どこに葬られたのか分からん。俺は生きた。いや、生きたのではなく死ねなかった。死ねなかったから、地獄の苦しみを経験した。誰を恨んでいいのやら、父か、母か、天罰か。今は分からんが何故か楽になった。諦めが付いた者から安寧がやってくるようだ。」
恐ろしく、悲しい話でございました。私はなにを言葉にして返せば良いのかまったく解りませんでした。
「と志子と申します。本名でございます。徳島から参りました。」
「徳島とはまた遠いところを・・・」
盲目の患者様は歩みを留めることなく話し続けました。収容棟は規則正しく碁盤の目のように建てられていて、どのお部屋も襖戸が開けられたまま奇異な眼差しで私を見つめていました。
「見知らぬ若い女性が歩いているものだから警戒しているのだ。ここの者たちは健常者を信じないし誰も頼りにはしない。裏切られるだけよ。」
陽光は西に傾きかけていましたが上州特有の空っ風は無く、冬の暖かな日和でした。
「私の夫も癩に感染してしまい今は東京の全生病院にいます。夫の感染経路を辿っていくと探している母子に繋がるのです。親子を決して恨んでいるのでは御座いません。夫の実家に一枚の写真が残されています。姉弟が揃って写された最後の写真のようです。この写真をなぜ、夫の父に託したのかを知りたいのです。弟様の方は自宅火災で焼身してしまいました。おそらくお姉さまは弟さまの死をご存じないと思います。」
私は貴方がお書きになられたお屋敷で焼身自殺した男性の事を話しました。十年以上も時をさかのぼる事になりますが、まるでつい先日の出来事にも思えるような言い回しを致しました。
「そのお屋敷は徳島のどこにあったのですか。苗字だけでも解れば少しは手掛かりになろうかとも思います。」
「徳島の那賀郡にあった大きなお屋敷でした。名は分かりませんが苗字は加賀谷といいます。」
「ここ楽生病院に加賀谷姓の女性はいない。男の姓でも聞いた事がない苗字だが十年以上前、全生病院の収容者名簿の中に神谷スエという方の名があった記憶がある。加賀谷という本名を神谷と変えているかもしれぬ、よく偽名を名乗るとき全てを捨てきれず、読みの近い名を作るものよ。ただ薄すぎる記憶だから確信は持てないし、子連れで収容されたなら明確に記憶しているはずだが思い当たりがない。」
私は意を決して貴方のことをこの男性に尋ねてみました。
「私の夫は全生病院では北条と名乗っています。軽症であり小説書きをしています。」
「北条とは民生君の事だろう。貴女が奥様でしたか、彼に会った事は無いが噂は色々聞いて知っている。小説をお書きになられるらしいが我々、癩を患った者を愚弄していると聞いている。」
「愚弄だなんて・・・申し訳ございません、主人に代わりお詫び致します。ただ主人と出会った十六歳の頃より小説家を志していました。私と籍を入れて僅か一年後に癩と診断され、収容されたまま今だ会わずじまいでおります。先だって離縁書が送られてきました。主人も本意ではない境遇から逃れる術を持ち得ていません。」
「そうですか、貴女も犠牲者ですな。この病は人知を超えている。やっとの思いで生きてきた人間から生気を奪い取って自死させる。そう思えば北条君は大したものよ、病を逆手に取っているとも言える。貴女は東京を超えて上州に来た、無駄足とは思えぬがまずは全生病院に行く事だ。神谷スエ、いいや加賀谷スエかな、それに北条民雄君がいる。この二人の名が解っただけでも心強い、それにもし全生病院に行くのであれば仲田徳次郎という男にお会いなさい。彼は三十五歳まで寺の住職を勤めておった、徳の高いお人と聞いている。人の目には見えぬものも彼には見えるらしい。きっと貴女のお力になってくれるだろう。」
ありがたい出会いでした。お屋敷のお嬢様に会えるかもしれない。神谷スエ、仲田徳次郎という二人のお名前を知り得た事で私は大きな期待を抱きました。そして貴方との再会も叶うことでしょう。あの秋の日からもう二年が過ぎています。貴方に会いたい、どんな形であっても貴方にひと目でもいい、会いたい。そして直接、言葉を聞きたい。貴方の温もりを感じたい。
私は貴方がいらっしゃる全生病院に草津の地からこのまま向かおうと思いました。知り得たお二人の名により私の心の中には隙間など無くなってしまいました。
しかし、私は渋川から前橋へと戻り、東京駅で西に向かう汽車に乗りました。全生病院への面会には貴方と私が夫婦である証が必要であるのに、持参せずに徳島の地を出てしまっていたのです。
また長い文章を綴ってしまいました。貴方は飽き飽きしながらでも読み続けて下さいましたでしょうか。今は自宅にて東京へ向かう事を思い描いています。
早々
昭和十二年二月十八日
と志子