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屑になりたい 第6話  全生病院 

 背景


 貴女から送られてきた手紙の文字を追うにつれ驚きと疑念を抱いております。またご懸念なされていた検閲ですが墨で黒塗りされた文字は御座いませんでした。私が兄さまと呼んでいた男には姉がいたことを私は存じておりませんでしたし、なぜお屋敷のご主人は自らの子である姉弟の映る写真を私の父に託したのでしょうか。


 私自身が実家宛てに手紙を投函し、父から聞き出せば済むことでしょうが正直、躊躇われますし、父の言った『生き続ける事が苦行ならば逃げる道は父が作る』とはいったい何をおこなうというのでしょうか。さらには貴女はあのお屋敷のお嬢様の、のちの運命をすでに知っておられる。そのことを私に伝えようとしているのはどういう意味合いがあるのでしょうか、なにか私の知らないもっと深い病苦があのお屋敷を通して存在していたのでしょう。


 私に癩病を感染させたあの男の方を恨む気にはなれません。きっと私の家族や親族は風評の被害者になっていると思われますし、あのお屋敷のご夫婦もまた然りでしょう。

 息の詰まる言葉ばかりを書き続けてしまいました。少しだけですが全生病院に向かった日のことを書かせて頂きます。


 まずは貴女の質問にお答え致します。


 この隔離病院にも医師はもちろん、看護婦、看護を手助けする者も働いています。ここで働く方々は世間における偏見をあまり気にはしていないようです。ただ働き手が少ないのも事実です。癩菌は感染する怖い病いですし、爛れて(ただれ)腐り落ちていく肉体の崩壊を目の当たりにする事になるのですから、そんな人間にわざわざ近寄りたくはないでしょう。それにもかかわらず働く方がいらっしゃるのはきっと給金が良いのだと思います。ただ、どんなに長く働いている方でも、破れた瘤から流れ出る膿の放つ生臭さに慣れることが出来ずにいます。私自身もこの腐った臭いだけには吐き気をもよおすほどです。いつの日か自分の体臭も同じようになると分かっていますが、この悪臭だけはなんとか逃れたいものです。


 村から連行された私は本来なら瀬戸内海の小島にある長島愛生病院か邑久光明病院に隔離、収容されるはずでした。この二つの病院は一つの島を分け隔てられていて、この島に住む者は癩者かこの島で働く医療従事者以外いません。私がこの島へ向かう途中、長島愛生病院内において職員と患者間による闘争が勃発しました。癩患者に対する日常化された職員の暴力に端を発し、その結果、監房に収容された四人の患者の救済を求めた事件でした。(長島事件) 事態の収集に目途が経たず、私は巡査であった安藤さまのご助力を得て東へ向かう汽車の切符を手に入れました。


 小説にも書きましたが、途中、鎌倉の大仏を拝み、八幡様を参拝致しました。さらに足を延ばし、江ノ島へ続く橋を歩いて丘を越え、太平洋を照り返す陽光の中に身をおいていました。幸せそうな親子連れの観光者も多くいて、癩を患っていなかったら、この私も貴女とのあいだに子を授かり家庭というものを築けたであろうかなどと空想していました。観光の者たちと私の境遇を押し比べる事はまったく無意味だと思いながら、向かってくる波を見つめていました。江ノ島の裏側は平たく広い岩辺になっています。

 靴を脱ぎ、岩辺と海の境ぎりぎりのところに立ってみました。死のうとする行為も多分に携えていたと思いますが『ここで死のう』とは考えていなかったように思います。波は穏やかで足元を濡らすくらいでしたから飛び込んだところで死ねるはずはありません。ですが突然、大波が遠く海の向こうからやってきました。島に近づくにつれて波の高さは段々と大きくなっていき恐れを感じるほどでした。


 ➖ここにいたら波に呑み込まれる➖


 私はこの時、このまま死ねるとは思いませんでしたし、それを願うゆとりも御座いませんでした。

 ただただ降りてきた斜面を駆け上がり、高台に急いで逃げました。波は岩辺を一気に呑み込むと『すうぅ』と引いていきました。危なく波に呑み込まれるところでしたが、引き潮のあとの岩辺に一匹の蛸が打ち上げられていたのです。私と一緒に高台に逃げた子供たちは我先にと岩辺に走って降りていき、蛸の奪い合いを始めました。

 「僕が先に見つけた」とか「俺が一番に脚を掴んだ」という言葉を聞き、私にも経験がある光景だなと思い出していました。幼少の頃、虫取りの時に友人たちと競い合っては同じ言葉を使ってなじり合ったものです。ところがヌメる蛸の脚を掴んで離そうとしない四人の男の子たちは最後までだれ一人諦めようとはせずに手を放しません。放すどころか、引っ張り合いになってしまったのです。この光景を見ていた地元の漁師らしい中年の男が子供たちの中に入り込むと、間髪を入れずに持っていた鉈で生きたままの蛸を切り裂いたのです。男の子たちは不意の出来事に恐れを感じ、その場から離れていきましたが引き裂かれた蛸は肉体をバラバラにされてもなお海辺に逃げようと這いずりながら、もがき苦しんでいるように私には見えました。人を除けば自死を選べる生物は蛸だけです。その蛸でさえ肉体を引き裂かれても、なお生きる事を選んだのです。

 破片と変わり果てた蛸が海に戻れたかはわかりません。たとえ波のしぶきの中に落ち消されていったとしてもそこに待っているのは魚たちに食われ死ぬ運命だけでしょう。肉体を切り裂かれながらもなお本能のみで生きながらえようとする蛸に我が身を写し変えていたのかもしれません。

 私はこの光景を高台から見下ろしていましたが、そのまま昇り坂を歩き、江の島神社を振り返る事なく全生病院に向かいました。


 降り立ったのは秋津という名の駅舎でした。これといってなんの特徴もない街です。駅舎を出ると病院まで繋がっているまっすぐな畑道を残り少ない陽光を頼りに歩いていきました。その道の行き止まりが病院になります。誰に聞いたでもない順路ですが、逮捕同然に強制連行され全生病院へ移送される病者は東村山駅という場所で降ろされるそうです。

 秋津駅を降り立った私はこの街に住む人の目に怯えながら麦わら帽子を目深に被り、急ぐことはせずに歩き始めました。畑道にはやや起伏があり、途中ゆるやかに流れる小川がありました。畑を横切るあぜ道の両側には農家を営む家屋が点在しているだけで、すれ違い歩く人には逢いませんでした。

 農作に従事する人も見かけなかったのですが、夕暮れ時に纏い付く侘しさと、これから向かう道の先に見えるうっそうとした樹々の緑だけが私を迎え入れてくれるもの悲しい街でした。


 全生病院に到着するとそこにある入り口がとても狭く、門もなければ看守もいません。病院を思わせる建物はその場所からは見つけられませんでした。私は正門ではなく裏門に辿り着いていたのです。この裏門を作る生け垣は左右に永遠と続いていて、確かに収容病院と現世を隔てるにふさわしい造りになっていました。

 裏門から右手に続く小径を歩いていくと緩やかな曲線路を作る垣根の向こう側に見える院内には、背丈の高い樹々が等間隔に植えられていて、ここが病院だと言わなければ大きすぎる公園だと思うでしょう。小説にも書きましたが首を括るには丁度良い高さの枝ぶりの木が何本もあり「死ぬに困る事はないだろう。」と確かに思いましたし言葉にも出していました。ただ首を括り死ぬのなら失敗は許されぬ、松の木だ、松の枝なら首を括っても折れずに果たしきれる、梅や桜では人の重みに耐えきれず幹の分かれ目からあっさり折れてしまうはずです。


 ➖あぁ、この場所に隔離された者の何人かはあの松の木で首を吊って逝ったのだろう。こちらの木でも首を括っているだろう➖


 哀れな想像を巡らせながら病院の外廻りを半周ほど歩くと正門に辿り着いたのです。この時、私は二度とこの門の外に出る時が来ない事を知っていました。


 ここは血の果てでは決してございません、かと言って楽園でもございません。異国の地とでも言えばいいのでしょうか。全てが自由なのです、お判りになりますか。自由に生きたい、自由に働く、自由に食する、自由に眠る、そういう人としてのありふれた制約ある自由ではなく、ただ肉体が滅したあとに残る生命体に宿されるものは何物にも拘束されず、恐れを知らない魂の解放なのです。私はすべての生きづらさから解放された魂の塊と化し、執筆に専念しています。


 人は雨を嫌う、寒さを嫌う、空腹を嫌う、相入れないものを嫌います。嫌うという思いこそが煩悩の歪みの正体なのです。


 言いがかりのような文章になってしまいましたが、貴女から送られてくる手紙に些細な喜びを感じてもいます。私に手紙を書いていただける人は貴女以外にはもういないからでしょう。

 また手紙が来ることを心待ちにしている自分に気が付いています。


                          敬具

             昭和十一年七月二十日

                            七條 晃司

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