屑になりたい 第15話 別れ
拝啓
突然の神谷スエ様の訃報に驚いています。
お会いした事もございませんが心よりご冥福をお祈り致します。
貴方が幼少期に出向いていたお屋敷の姓が神谷スエさんの本名と同じ加賀谷であること、私の思い描いた勘とでも言いましょうか、やはり真のお母さまだったのでございましょう。
貴方がこの村を去ってから三年の月日が経とうとしています。もうすぐお互いに二十三歳になります。巷では中国大陸に戦雲があがりそうな気配で御座います。
お体の具合は如何でございましょうか、今は貴方の出生の事よりも病気の進行を気に致しております。
手紙にてお伝えすべき事か迷いに迷いましたが私の今後、向かうべき人生の道標を貴方にお知らせした上で決心いたしました事をお書きいたします。決して恨み事を綴るのでは御座いませんこと、お間違えなさらないでくださいませ。
貴方との離縁書を役場に提出して半年が過ぎた初春の頃でした。私にある方との縁談の話が降って湧いたように持ち込まれました。
父の稼業の手伝いばかりしているうちに二十歳代も中頃ちかくになる哀れな出戻り女だと思われるようになっていたので御座いましょう。お産婆さんの銀さんのお孫さんにあたる方との縁談話が御座いました。
銀さんは貴方が癩病を患い、強制収容されている事を知りませんし、神谷様の出産から二十四年ちかくもの時が経ち、銀さんは八十歳になられていました。貴方がこの村から連れ去られたあの日から数えても三年近くの歳月が流れ過ぎていて、貴方の存在を亡霊にも及ばないものにしてしまったようです。小さな村の住人たちの記憶の中には僅かには残っていても、山をひとつ越えれば癩者がでた村とは認識されなくなっていました。
これはひとえに貴方が執筆なされた小説に故郷を綴らなかったからに違いありませんでしょう。銀さん自身、貴方と私が夫婦であった事をお忘れになられているのか、あるいは元から知らなかったのか私にはわかりません。
こぶしの大きな蕾が開き始めた頃、隣の村から銀さんのお孫さんと銀さん、そして仲人さんと思われる方が当家においでになられました。銀さんのお孫さんは神戸の料亭で働く方で御座います。丁稚も終えて、あとニ、三年も修行をすれば店の切り盛りを任せられるお立場になろうお方であると紹介されました。
「と志子さんは一度、ご結婚なされてご主人を失くされたと伺いました。私はあと数年後には関西のどこかに暖簾をわけて頂き、料理屋を始めます。独りものでは賄いきれずにどなたかをご紹介くださるとありがたい事、仲人様にお願い致しました。」
お孫さんに嘘を教えたのは銀さんかお仲人様でしょう。貴方は亡き者とされて縁談が組まれていました。私はなんとお答えして良いものか迷い、言葉を出さずに顔を伏していました。
「皮膚病から悪い菌が身体の中に入り込み、徳島の地では治療できないと言われて東京へ行ったまま帰らぬ人となりました。」
お仲人さまの言い方は嘘とは言えぬ言い回しで、帰らぬ人という解釈を里に帰らぬと思えば正しいのですが、お孫さんはきっと私の事を後家さんと思い込んだはずです。
両親も私の再婚を喜ばしい事と受け止めてくださり、銀さんのお孫さん次第で私の再婚が進んでいくようで御座いました。お名前を大石恵介とご紹介くださいました、そのお方は十五歳で料亭の修行を始めて十年もの間、料理以外に思考が及ばなかったとお話しくださいました。
「料理の修行に根を詰めすぎ婚期を逃してしまいました。」
穏やかそうな物言いでお話しくださいましたお声は柔らかく感じ、きっと心根のお優しい方なのだろうと思いました。
「大石さまのお得意料理はなにで御座いましょう。」
私は障なき言葉を選んでお話致しました。
「瀬戸内の魚は生きが良ければなんでも美味しく仕上げてみせます。特に白身は刺身も良し、手を加えて野菜と合わせても美味しいものです。吉野の山も近いので葛を使った餡を用いても良いものです。と志子さんは西京焼きを食したことはございますか、あとは鮎でしょう。落ち鮎を緑茶で蒸した絶品がございます。こんど、ぜひにご馳走させてください。」
大石恵介という料理人は職を大切にして、食そのものを愛するお方と思われました。私がひと言、聞くだけで数倍のお言葉が返ってくるのでございます。それに私の過去を詮索することは一切ございませんでした。きっとこのまま私は再度、亭主を設け、この村から出ていき料理屋の女将としての人生が始まるのだろうと思い込むようになっていました。そこに貴方の影は御座いましたが、未来を見なければいけない時であることは貴方から教えられました。私の両親もいずれこの世を去る時がくる。両親を安心させてあげなければならぬ思いも御座いました。
この日のお見合いの後、私は二度ほど大石さまがお勤めになられている料理屋に招かれました。一度目は私独りで伺い、二度目は両親を伴った三人で神戸に伺っています。再婚の段取りは何ら障壁なく進んでいくものとばかり思い込んでいました。
料亭のご主人も私と父、母の来訪を喜んでくださいまして、お勘定を受け取って頂けずにご馳走になる始末でございました。
料亭を出、徳島への帰り道で母がひと言だけ気になる言葉を言ったのですが、気のせい、あるいは記憶違いで片付けてしまいました。
「大石さまと一緒に働いていた男の方に見覚えがある」
同じ年の暮れ近くで御座いました。
大石さまがお勤めされている料亭の名を差し出し元とした一通の手紙が私宛に届きました。封を切り、便箋の文字を読んだ私は愕然とさせられました。便箋はただ一枚のみです。その真中の行に言い放たれたような言葉が綴られていました。
癩病者の妻は汚物であり、再婚など努々、思うなかれ。
将来に夢見た私が悪いので御座います。両親を安心させたいと願う思いを赤の他人に委ねようとした愚か者で御座いました。
母の記憶にあった男性は貴方と私の住んでた村人だった方で御座いました。
私は二度と結婚など望まないとこの時決めました。軽々しく他者に自分の身を委ねる事の愚かさを恥じています。私の前夫は病苦に耐えながら、それも集団生活を余儀なくされた内で文人として大成している事を忘れ、自分だけが伸う伸うと暖かい懐にもぐり込もうと致しました。
罵倒してくださいませ、お笑いくださいませ。この能天気な愚か者のおこないを蔑んでくださいませ。
貴方宛に手紙を書くことはこれで最後に致します。私は父と母が守り抜いてきたこの地で独り暮らしていく覚悟を決めました。畑を耕す者を雇い入れるかもしれませんが、人の手には決して委ねずに両親が開拓した田畑を守り抜く決意を致しました。
いつの日か癩病を撲滅させる特効薬が作られ、貴方がこの村に帰られてきた時、見渡す限りの広大な田畑が三年前のあの秋の日と同じ暁色の道の中を、貴方が歩いて戻られるよう守り抜いて見せます。
そのとき、田畑を耕しているのは年老いた私ですのでお声を掛けてくださいませ。
あなた、どうかお健やかにお暮らしください。ご健康でいてくださいとは書けませんが、怒りや憎しみを心の内から排除なされて長生きしてください。新作が出版されましたら必ず買い求め、読ませていただきますので素晴らしい作品をお書きくださいませ。
さようなら、たった一年限りでしたが私たちは紛れもなく夫婦で御座いましたこと、お忘れにならないでくださいませ。
いつの日か希望の灯火が貴方と私をふたたび巡り合わせてくださるその日まで、さようなら。
かしこ
昭和十二年十一月六日
と志子




