屑になりたい 第14話 自死
拝啓
先日、お手紙が私のもとに届いてから僅か十日ほどしか経っていませんが急ぎ、貴女にお伝えすべき事と思い、この手紙にてまずはお書き致します。
十月十四日の深夜、神谷スエさんがお亡くなりになられました。この日、私は重症棟の当直業務をおこなっていました。皆が寝静まった午前二時過ぎに住職の仲田徳次郎さんが私のいる詰め所においでになられて、「隣部屋の神谷さんが気になる、当直さん、ご面倒だが神谷さんの様子を観に行って欲しい。」と頼まれました。
重症の女性患者ばかりが八人で同居している部屋の引き戸を開けたところ、一番奥の左側で眠っているはずの神谷スエさんの姿はなく、彼女の義足が二つ置いたままになっていました。部屋の灯りを点け照らし、部屋の皆を起こしましたが誰ひとり、スエさんの居場所を知る者はいませんでした。彼女は真夜中に独り起き出してガラス戸の向こう側、外庭に吊るしてある洗濯紐に首を括り、自死していました。
同室の女たちで彼女の異変や、その夜の物音に目を覚ました者はなく、神谷さんはおそらく自室を忍びい出て収容棟の壁を伝いながら廻り込むように裏庭に辿り着いたのでしょう。先日書いた通り、彼女は目がまったく見えません。左腕は肘先から切断されていて両足共に膝上で切り取られてしまっています、にも関わらず物干しのある裏庭まで這って行ったのです。
なぜ、昨日まで重度の身であっても生きてこられた強い精神の持ち主の女が自死せねばならなかったのか、まったく理解ができませんでした。ごくごく自然に暮らしていても彼女の余命は一年あるか無いかだったはずです。
それに同室の者たちが全く気付かない異変をなぜ、目の見えぬ仲田住職は悟れたのでしょう。それこそ仏に仕える身という事になるのでしょうか。
私は貧祖な蜜柑箱如く棺に入れられた神谷さんのご遺体を安置室まで運び入れると、使い廻されたまま置きっ放しにされていた蝋燭に火をつけてしばらく彼女のお顔を見つめていました。棺を一緒に運び込んだ軽症者の五人はそそくさと退散し、火葬場の準備に向かったようです。
ひとり残された私は神谷スエという人物の容姿をじっと見つめていました。なにしろ瞼も瞳も無いご遺体ですから、どこをどう見つめていいものやらと思っていると、遺品となった義足が棺の中に入れられていない事に気が付きました。
「スエさん、お辛かったのですか。」
私は亡骸と化した神谷スエさんに語りかけました。
「あなたのお産みになられたお子さんは元気に暮らしているそうです。それもご立派になられて、高明な作家になられたそうですよ」
神谷スエさんとは生前、親しい交友があった訳でも御座いませんし、彼女の生い立ちを伺った事もありません。当直当番のときも手をわずらわせるお方ではなく、貴女からのお手紙を読まなければ単に一癩病患者に過ぎない人だったはずです。ですが私はこの時、自分の内に込められた空想を言葉にしていました。
しばらくすると安置室の木の扉を開ける音と畳敷きの床を杖でなぞりながら入ってくる人物の気配を悟りました。両目を白い布で隠したままの仲田徳次郎さんがそこに居たのです。
「彼女は怖かったのでしょう。死そのものへの恐怖ではなく、死へ向かうばかりの時を刻む音が怖かったのだと思います。スエさんは過去の事も未来も口にするお人ではありませんでしたからお心の内にある真なるものを察する事は出来ませんでした。穏やかな性格で清らかなる柔らかさを持ち得た女性でした。反面、賑やかさを求める性格でもございました。よく子守唄をお歌いになられていましたが、もしかするとご自身の虚しさを隠そうとしていたのかもしれません。」
仲田徳次郎住職はスエさんの横たわる棺に近づきながらお話になられました。
「仲田さん、神谷さんが全生病院に収容された時、お子を伴っていた記憶はございませんか、あるいはそのような記憶をお持ちの収容者はいないでしょうか」
もし、神谷スエさんが全生病院へ収容された時にお子が一緒に連れられていたのなら、私は彼女の子ではない事になります。そのことをどうしても確かめてみたくなりました。おそらくスエさんが火葬され、納骨堂に納められてしまえば誰の口も硬く閉ざされてしまうだろうと予想したからです。
「二十二年前のもうすぐ年が暮れる頃でございます。スエさんは私と同じ汽車に乗せられて東村山駅の癩者だけが降ろされる特別駅舎に辿り着きました。私と彼女だけが駅舎で降ろされると改札の内にある小部屋へ連れていかれました。お互いにまだ軽症の範疇でしたので診断書の記載が間違っているのではと思うほど神谷スエさんは美しい女性でした。お顔を伏せるそぶりも見せず、ただ虚な瞳が印象に御座います。
➖私はこの先、どうなるのでしょう➖
誰に言うでもない独り言のようでしたが私以外にその場にいた者は強制収容に携わるお役人の男だけでしたので「貴女はどちらのご出身ですか」と他愛無い言葉を返しました。
「徳島です」と一度は口に出されたのに、この時、神谷さんは「上州は渋川です。」と言い換えたのです。
「私は関東にある寺の住職の長男坊として生まれ、寺を守るべく修行の身でした。苦行が災いしたのか、それとも神仏が私をお認めくださらなかったのか、すでに両手の感覚がありません。これでは木魚はおろか数珠さえも手に添えられるものでは御座いません。」
➖いつの日かふるさとに戻れる日が来るので御座いましょうか➖
神谷さんは私の生い立ちには触れずに、生まれ故郷に想いを募らせていたようでした。
➖大きな蜜柑の木が御座います。毎年、甘酸っぱい実をたわわに付けるのですが、美味しい実は鳥に啄まれてしまいます。水を上げ過ぎてはいけません、かと言って乾かしてもいけないのです➖
「そうですか、神仏の修行に蜜柑を育てるというものは御座いませんので存じませんでした。貴女は故郷に想いを寄せているようですね。私は故郷に帰りたいとは願いませんし、帰れる日が来るとも思っていません。癩者と診断された今日、私のおこなうべきお役目は明らかです。私はこの病を患われた方々をお救いするためにここに導かれたのです。そう思わなければいけないのです。」
全生病院の職員らしき男二名が黒い車を改札の手前まで乗りつけ出てきて、大きい声で私の名を本名で呼びました。彼らが手にしていたのは、今日運ばれてくる癩者を乗せた軟禁車両の到着時刻と患者の名が実名で書かれた手帳でした。この時、職員は神谷さんの本名も迷わず声に出して呼び付けました。ですから彼女の真の苗字を知っているのは私だけになります。
迎えの車の中で神谷さんとはひと言も話をしていません。どこの地で誂えたのか、紫色の和服着を着こなした神谷さんの芯なる精神を私は見抜きました。
全生病院の正面門を車に乗せられたまま通り抜けるとそれまでの村の風景とは明らかに異なる地に導かれていきました。
女性患者は女のお手伝いさんの手によって病院内のしきたり通り、名簿と照合したのち、衣類は脱ぎ取られ焼却炉で灰と化します。垢の浮いた湯に浸かり、着替えさせられて女舎へ向かいます。私が収容一日目にして目にした光景をきっと彼女も同じ時刻に見ていた事でしょう。
そこで見たものは絶望だけです
全生病院に収容後、軽症だった私は重軽症者が混在する男棟に入れられ、神谷さんと会う機会は無くなりましたが、私の去勢手術の日と神谷さんの避妊手術の日が同じでしたので収容棟から離れた所にある診療所で再会致しました。
あの日の神谷さんは失意の表情を見せていました。
全生病院に向かった車の中の彼女と違い、病院内に収容された者の運命を悟り、希望というものを一切失くしてしまったように見て取れました。
彼女も手足を切り取られた重症者たちの介助をおこない、苦しみの果てに死に逝く癩者をたった数日で見て、自分の成れの果てを悟ったはずです。
手術を受けたのは神谷さんの方が先でした。
避妊させられた神谷さんは歩行ができずに痛がりながら、木の板に乗せられ病棟へと運ばれていきました。彼女が運ばれた床には血の道が出来上がっていたのを覚えています。
後日、知り得た事ですが神谷さんの母体の宮はまだ膨らんだままの状態だったそうで全生病院に来る数ヶ月前に出産したらしいものでした。
お子を産んでもお育てになる意欲を捨ててしまったのでしょう。癩を患った女が、産んだばかりの我が子を殺したのち自死しきれず収容病院行きを乞う。ここに来れば殺人者としては扱われません。この病を罹った者ならばあり得る事ですし、収容病院へ向かう途中で子の育児を知人の誰かに託したのかもしれません。神谷さんにしか判らない事ですし、誰にも知られたくはなかった事でしょう。もしも子が生きて成人しているとしたら癩病を発症している可能性は多分に御座いましょうから、自分の子を癩者と公表するようなものになってしまいます。
仲田徳次郎さんのお話はまさに真を突いたものでした。
「住職はなぜ神谷さんの様子がおかしいと悟られらのですか。」
「生気です。彼女には独特な生気が御座いました。同じ部屋に八人の病者がいても他の七人を上回るほどの生気がスエさんにはございました。それが、あの夜、突如消えたのです。生き人の熱さを感じない、そうです、突然、魂の嘆きが消えたのです。」
私には理解しがたい事ですが、神仏の修行をなされた仲田徳次郎というお方には不思議な能力が備わっているのでしょう。それ以外の言葉はありません。さらに住職は言葉を続けました。
「スエさんの生気と貴方の生気は似ています。なにかに取り憑かれたようにまっすぐ進んでいこうとしている情熱の魂が放つ熱い生気です。」
神谷さんの遺体はおんぼ焼き同然たる火葬をされたのち、小さな骨壷に納められ納骨されました。私も崩れて破片と化した骨を長い箸で摘み取り、ひとつ、ふたつ、骨壷に入れていきました。
貴女が書かれた手紙とおりにこの女性が私の母であるならば神谷スエさんは、いえ母は私を子とは認識せずにこの世を去っていった。その思いは刹那そのものであり、私は親不孝極まる罪人になるでしょう。母としての無念さをこの世に残されて旅立ってしまったこの女性の子が真に私であるならこの先、私はどのように償わなければいけないのでしょうか。
今となって私が出来る事は神谷スエさんの魂を安らかに成仏させてあげることだけでしょう。
神谷スエさんの死のみを書き綴るつもりでは御座いませんでしたが、長々なる心情を書き殴ってしまいました。我ながら嫌気さえも覚える文面です。
末筆になりますが仲田徳次郎さんが東村山駅で知った神谷スエさんの実名は私が幼少期に遊びに出向いていたお屋敷の姓と同じ加賀谷姓であり、お子は伴ってはいませんでした。
私は産みの母の遺骨を摘み上げ骨壷に納めた事になります。あの時、私は後悔も無念さも微塵も感じずに箸渡しの真似事をしていました。
母の遺骨を取りに来る親族はいそうも御座いません。
まずはご報告まで
敬具
昭和十二年十月十七日
七条 晃司




