屑になりたい 第13話 墓場にて
拝啓
二ヶ月前に頂いた手紙を貴方のお父さまにお読み頂きました。私にとっては別れた夫の父という事になりますが、お父さまは私を今でも実の娘のように迎え入れて下さいます。
ご自宅にお邪魔させていただけなかったのは女手のないが故にでしょう。きっと掃除や洗濯もままならないのではと思われ申し訳なさを感じています。
貴方の見た夢は私にとっても切なく、寂しい思いを抱くものであり、心が砕けそうでございました。涙を止める事なく読み続けた文字は貴方の孤独と未来への無情を感じずにはいられないもので御座いました。貴方のお父さまも泣きながら文面の文字を追っていました。
人は言葉に出来ない悲しみや、憎しみを感じたとき、感情を表現する術を持ち得ない限度をはるかに超えると自然と涙するものだとお義父さまは仰いました。
貴方の見た夢は寂しすぎます、切なさを遥かに超えて恐ろしささへ読んだ者に与える文面で御座いました。今一度申し上げます。私は貴方に愛情を持ってこの文を綴っています。きっとお義父さまも私と同じでしょう。
およそ二十年前、貴方を招き入れていたあのお屋敷があった場所にお父さまは私を連れて行って下さいました。今は田とも畑とも言えぬ荒地となっていますが、確かにかつてこの場所に大きな建物があったことを示す石垣と井戸水を組み上げる茶色く錆びた手コキのみが残されています。
当時を想う者など、きっといないであろうと思いながら畦道を歩いていると、小さな墓石が並んでいる場所を見つけました。石碑は無数にあり、どれも無縁仏のように小さいものばかりで、刻まれている姓を読み取ることは出来ないほど風雨に消されていました。墓場を隠すものはなにもございません。周りは田畑と荒地のみで遠くの川の流れに照り返される光が届くほど、のどかな場所でした。
消えそうな姓の墓碑ばかりの中にかろうじて読み取れる文字を見つけました。ひとつは加賀谷喬、享年三十二歳と刻まれていました。この墓石に刻まれた名は貴方と交友があった業の兄さまのものでしょう。亡くなられた年齢はきっと偽りを持って彫られたものだとお義父さまは仰いました。その隣にも風化して一見すると軽石のように角の無い墓石がございました。名を刻んでいたと思われる石物は明らかに作為を持って削り取られていて、読むことが出来ないほどに傷付けられていました。
貴方のお父さまはふたつの墓石を見つめながら私に墓のいわれをお話しくださいました。
「この二つの墓石に埋葬されている者はいない。あの時の火事で亡くなられた男の方の遺体がこの街に帰ってくる事はなかった。もうひとつの名を削り取られた墓石はまったくの偽りの墓で、おそらく刻まれていた名は加賀谷トヨという、あのお屋敷のお嬢様のはずです。」
偽りの墓を作ったのはお屋敷のご夫妻でしょう。癩と診断された姉弟を亡き者とせざるを得なかったのございましょう。それほどまでに癩者を抱えた家系は人民浄化というお国の方針により、偏見と差別の標的とされ、まさに「村八分』とはこのことを言うのでしょう。
ふたつ並んだ墓石の前で貴方のお父さまはあの写真を上着の胸元から取り出しました。姉と弟が並んで写った唯一の写真をじっと見つめていました。
「すでに過去の事よ、父がなにかをしようとも子を救う手段はもはやお国の手により尽きた。長島では看護する者によって酷い拷問の末、命を奪われた患者もいると聞いている。人権は病気に負けた、しかし晃司はモノを書ける才があるのだから、この人民浄化のもとにおこなわれた悲劇を物語ってくれるだろう」
そう言うとマッチ箱を取り出して一本を擦り、手にしていたあの写真に火を移し燃やしてしまいました。写真は煙を上げ、丸まりながら灰となりお父さまの手からこぼれ落ちていきました。
神谷スエさま、いいえ加賀谷スエさまと業の兄さまと思われる喬さまが揃って写された唯一の写真は燃え尽きて落ちていきました。
「もういいのだ、将来を無くされた者に真実を伝え、未来を見せるのはあまりにも酷と言うものだと思いませんか。」
お義父さまはそう仰られてました。
私はたとえ過去が如何なるものであろうとも、今を生き抜き、未来への道程を築き上げる者に陽は輝くであろうし、神仏は手を差し伸べると思っています。そうでなければ人は努力というものを怠り、楽する怠け者ばかりになってしまいます。
「と志子さん、違うのです過去を失くされた者ではなく、生まれた証がない者に未来、そう時空自体が存在しないのです」
お義父さまは私を説得するかのようにお話しくださいました。確かにお義父さまの仰られている事はわかります。ですが所詮、人間はたった五十年そこそこしか生きられないものです。癩者であろうが、健常者であろうが行き着く先は死のみです。ならば生きている今、この時に生きた証を残している貴方こそが人としての在り方であると思うのです。
姉弟が揃って写っている写真は燃えて尽きて無くなりました。しかし、貴方の人生はこれからも続いていくのです。私の人生も貴方のお母様と思われる神谷スエさんの人生もこれからが真の人間性を問われるときではございませんでしょうか。
七条晃司は北条民雄と名に変えて癩者の苦悩を如実に表現なさっている。この著者が癩者である必要はございません、ですが癩者のみが知り得る現状を世に問う小説であると思うのです。
私も貴方といつの日かこの墓石の下に埋もれる者に過ぎないのですから、真実をありのままに書いて後世に残すべきと思います。
お義父さまは墓をあとにすると道すがら私に貴方の出生時のことをお話しくださいました。
燃え尽きた写真をお持ちになられたのはお屋敷の主である加賀谷のご主人ですが、お嬢様が生まれたばかりのお子を伴い、実家を離れ上州に向かわれたあとの事だったそうです。この時、お屋敷のご主人様と貴方のお父さまの間で生まれたばかりの赤子の行く末をお話にならられたのです。
「娘を瀬戸内の収容病院には行かせぬ、あそこで起こっている癩者に対する迫害は重々承知している。静岡か東京の病院へ導く。もしも赤子の受け入れになんらかの支障がある時にはお子のいない七条さまのご助力をお願いしたい。私の親族に癩病を患ったものが二名おります。すでに徳島の地から離れ、病者は長嶋愛生病院にいますが、命ある身なのかさえも判りません」
加賀谷家のご主人はお嬢様がお産みになられた子ののちを、貴方のお父さまに委ねられたのです。そしてこの時、お義父さまは貴方を実の子として迎え入れる決心をなさいました。
「加賀谷様、御家にまつわる黒い血筋は前々から存じておりました。この小さな村では噂の域を超えてはおりませんが、私は想うのです。病が人道を越える事は悍ましい結果を招くことになる。たとえ母や異母兄弟が癩病を患ったとしても、生まれてきた赤子がなんら責めを追う事はないはずです。お嬢様さえご承諾いただけるのでしたら、当家の子として迎え入れたく存じます」
貴方のお父さまは加賀谷家の墓前を背にして私に秘め事をお話しくださいました。ただ上州に向かったであろうお嬢様とお子である貴方がどこで離ればなれになり、誰の手によって貴方を徳島に戻したのかはお話くださいませんでした。きっと、その方の名を言えぬ事情があるのでしょうが、これも私の憶測に過ぎませんが、おそらく貴方と共に収容されている仲田徳次郎様かその宗派の一門ではないでしょうか。
仲田さまは草津の収容病院においても名が知れた徳の高い人でございます。草津の地において子を伴った癩者から貴方を預かり、一旦は徳島においでになられたのか、あるいは東京府の全生病院近くで貴方のお父さまと会い、貴方の身を徳島の七條家に委ねたのではないでしょうか。
末筆になりますがお義父さまはあの日からずっとお独りで過ごされています。寂しさをお隠しになられているように思われてなりません。貴方からもお手紙をお送りいたしてみたら如何でしょうか。お節介者の元妻より
かしこ
昭和十二年九月二十日
と志子




